透明な小箱 | ナノ




Giyu Tomioka


錆びた鉄の匂いが充満する林の中で、息を切らしながら刀に付着した血を払う。灰が朝日を浴びて輝くように散りゆくさまを眺めながら、ようやく長い夜が明けたことを知った。酷い疲労感に眩暈がする。目頭を押さえながら近くの木に手を当ててずるずるとその場にへたり込んだ。
冨岡と共に任務に臨んだはよかったが、やはり柱に任される任務だけあって敵の強さも数も普段の任務とは段違いであった。冨岡本人は涼しい顔をして頸を落とし次へ次へと進んでいくものだから、私も着いていこうと必死に食らいついた。かなり無理な体の使い方をしたのだろう。もう腕一本上がりそうもない。隠の者たちには迷惑をかけることとなるが、連れて行ってもらうとしよう。閉じていく瞼に抗わず、従おうとする。


「…ここで寝るな。」


近くから聴こえた声に渋々閉じかけていた瞼を開く。太陽に背を向けて逆光となり、大きく影落とす男は、ゆっくりと膝を折り目線を私と合わせる。そんなことを言っても、今の私に近くの藤の家に行くほどの体力は残されていない。口すらうまく動かない。小さく開いた口からは呼吸が漏れるだけだ。情けない、しのぶには案ずるなとあれほど豪語していたというのに。”置いていってください”と口の形を作れば冨岡も読み取ってくれるだろうと思い必死に動かす。それを理解したのかしなかったのか、冨岡はひとつ間を置いた後、首を横に振る。


「置いてはいけん。」


何故です、と口で噤む前に羽織の襟を掴まれたかと思うとぐっと体が持ち上がった。ぐえ、と変な声が嗚咽と主に漏れたかと思えば急に体は浮遊感を覚え、気が付けば冨岡の肩に俵の様に担がれていた。私が抵抗できないをいいことに落ち葉を踏みながら山を下っていく。隠が来てくれることを富岡が分かってないはずがないのに、わざわざ連れ帰ることに何の意味があるのだろう。落とさぬよう背中を抑える手が時々歩く振動で揺れるのが妙に心地いい。ああ、せめて横抱きだったらその顔を眺めていられるのに。また、私は、彼の背中を眺めている。





山から一番近くの藤の家に着くと、冨岡はゆっくりと私をおろした。その頃には私の体力も多少は回復していたことから、地に足をつけて立つことが出来た。朝早くからごめんくださいと戸に声をかけると中からは初老の女性出てくる。ボロボロの私を見た女性はお入りくださいと、開いた戸の横に立ち、手を家屋の方へと向けた。お言葉に甘えて礼を言いながら入るも富岡は微動だにしない。そんな冨岡の様子に女性は鬼狩様、と声をかけた。


「俺はこのまま自分の屋敷へ戻る。お前は休め。」


その言葉を聞いて女性はお辞儀をすると戸をゆっくり閉めた。戸の隙間から覗く冨岡の目がしっかりと私を見つめていた。戸から漏れ出す光が完全に塞がったあと、冨岡の影が踵を返して去っていく。履物を脱ごうとしてふと気が付いた。私はまだきちんとお礼を言っていない。自分も疲れているだろうに動けない私の身を案じて連れ返ってくれたことに、何も言えず別れてしまうのは忍びない。今ならまだ間に合う、と再び履物の紐をぎゅっと結び直すと、女性に断りを入れてから家を飛び出した。
さほど時間が経っていないにも関わらず、冨岡の背中はあの日と同じようにずいぶん遠くにあった。軽やかとは決して言えない足取りで冨岡さん、冨岡さんと掠れる声を上げながら呼ぶと、足を止めた富岡が振り返る。私の姿をとらえた富岡は早足で歩み寄ってきた。


「まだ何か用か。」
「きちんとお礼を言ってなかったので。」


追いかけてきました、と言うと冨岡はそんなことで、とため息をつく。冨岡にとっては造作もないことかもしれないが、私にとってはそうではない。助けられたら礼を言う、これは至極当然のことだと考えている。


「ここまで運んでくださってありがとうございました。」


出来るだけ笑顔で冨岡の目を見て、心から感謝の言葉を伝えた。少しむず痒いような気持ちにそわそわと手を後ろ手に組み絡ませる。肝心の冨岡はというと、じっと私の目を見つめていた。伝えたいことは伝えたし、疲れている冨岡をこれ以上引き留めてはならないため、それじゃ、と今度は私が先に去ろうとすると、腕をぐっと掴まれた。少し冷たい指先が力強く掴むから、思わず痛いと声が漏れる。冨岡も反射的にやってしまったようで、掴んでいた手はそっと開かれて宙に浮いた。


「…早く戻れ。」


行動と矛盾してる、なんて野暮なことは言わず、黙って頭を一回下げてその場を後にした。掴まれていたところが熱を持つ。重ねるように自分の手を掴まれていた部分に乗せた。思っていたよりも大きな手だった。手のひらの豆のごつごつとした感触や残っている。どうして、腕をつかんだのだろう。早く戻れと言うがためだけに引き留めたわけじゃないことは私にもわかった。その上で真意を聞くことは叶わなかったが。そのままあそこにいたら私はどうしようもなく嬉しくて口元が緩んでしまっていたに違いない。
戻り道の足取りが軽くて軽くて浮いてしまいそうになる。任務終わりに話すという目的は達成できなかったものの、それ以上の成果があった気がする。また、しのぶに報告することができた。今はまず、体をしっかり休めなければ。ああ、でも、掴まれたこの腕は洗いたくない。

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