透明な小箱 | ナノ




Giyu Tomioka


時間の存在を忘れてしまうほど、名前は冨岡を見つめていた。冨岡もまた、名前を射貫くような瞳で見ていた。目を逸らす機会をすっかり見失ってしまったことで、お互い微動だにせずにいる。遠く聞こえるお囃子の音が聞こえるぐらいには静かで、ここはまるで写真で切り取ったような世界だ。彼は今、何を考えているのだろう。きっと彼はそれを言葉にすることはないだろうから私に理解する術はないのだけれど。心を覗いてみることが出来ればいいのに。そんなことを考えていたら静寂は打ち破られる。それは名前でも冨岡でもなく、鴉の鳴き声であった。”名前連レテキタ、名前連レテキタ!”鴉は元気に上空を飛び回ったかと思うと、冨岡の肩にゆっくり降下して止まった。


「助かった、感謝する。」


冨岡が鴉をひと撫ですると、鴉は嬉しそうに目を細めた。冨岡さんでも褒めることがあるのだと微笑ましい気分になるが、よく見ると名前の鎹鴉である。どうして、自分の子が。頭の上に疑問符を浮かべていると、鴉に名前を自分のところまで案内するよう頼んだと冨岡が説明する。それを聞いてさらに名前の頭に疑問符が増えた。つまり一体どういうことなのか。今朝藤の家を出た直後から一日を振り返って考えてみれば、確かに妙な点はあった。鴉は行き先を告げていたが、内容については何も告げてこなかった。いつもならば方角と共に鬼の気配ありだとか、調査せよ、など任務の内容を伝えてくれていた。ただ進むべき道だけをひたすらに言い、何も伝えなかったのはそういうことだったのか。冨岡さんが行き先だけ伝えて内容については何も言わなかったのだろう。鴉相手であっても必要以上のことは語らないところが彼らしい。となると、冨岡が何故自分を呼んだのか名前は気になった。


「冨岡さん、私に何か用でもあったのでしょうか?」
「特にないが。」
「はい…?」


冨岡の意図が分からず名前の口から低い声が出た。このやり取り、どこか冨岡としのぶに似ている。疑問には答えているものの、全く解決になっていない。しのぶであれば今頃額に青筋を浮かべていることだろう。初めて体験したそれに、名前も冨岡との会話には骨が折れると思った。しかし、嫌というわけではない。悶々と考えを巡らせていると、冨岡は目線を逸して夕暮れ時で伸びた影を見つめた。


「…用もなく会ってはいけないものなのか。」
「へ…?」
「顔が見たいと思うことは悪いことか。」


捲し立てるように詰め寄ってくる。思わず後ずさりした名前の影と冨岡の影は先程よりも随分近い位置にあった。驚きやら気恥ずかしさで冨岡の顔が見れず俯くと、冨岡の手が頬を包み持ち上げる。せめてもの抵抗として目線は合わさない。いや、合わせることができなかった。


「…体調は。」
「任務後藤の家でしっかり休ませて頂きました。」
「頬が赤いように見える。」
「それは、」


貴方がこんなことするから。きゅっと口を結び答えずにいると、冨岡は何故と問うてくる。珍しく饒舌な彼を今日ほど寡黙でいてほしいと思ったことはない。突いてほしくないところを絶妙に突いてくる。その甘さは毒だ。答えるまで解放してくれないと察し、夕日のせいだと咄嗟に嘘をついた。我ながら苦し紛れだと思ったが、冨岡は納得したのか手をゆっくり離す。手が離れたことにふっと胸をなでおろすと、再び私の手を取る。


「冨岡さん…?」
「…間もなく夜になる。屋敷へ向かう。」


気が付けば先ほどまで橙だった辺りが、東の方から青くなってきていた。次第に月が顔を出し長い夜が始まろうとしている。顔を見て体調が戻ったことを確認したから帰ると冨岡は言いたいのだろうと解釈した。お気をつけてと告げれば、冨岡は眉間にしわを寄せて大きくため息をついた。どうやら私の考えは違っていたらしい。何もそこまで盛大に表現しなくてもいいのに。それだけ感情を出せるのならば言葉にしてほしいと思っても仕方がないはずだ。


「この辺りには先日お前が世話になった藤の家しかない。」


つまり、名前は今日宿無しと冨岡は伝えたいようだ。今朝まで世話になった家に出戻るような図々しさを名前は持ち合わせていない。野営の経験はないが、一日ぐらいどうとでもなるだろう。寂しくなったら冨岡に貰った兎の飴を見ていればすぐに夜も空けてしまう。大丈夫だと拳を固めて見せると、冨岡はまたも大きくため息をつく。


「苗字、お前は察しが悪いな。」
「それは悪口ですか?」
「俺の屋敷に来い。」


唐突に貶されたかと思えば、とんでもないことを言うものだから驚きのあまり飛び退いてしまった。冨岡も名前の動きに驚いたのか握っていた手を離す。男と女が同じ屋敷で一夜を明かそうなんて名前には到底心の準備など出来るはずもない。名前にとって富岡は好意を抱いている相手だ。意識するなという方が無理な話である。尤も、彼の方は何も考えていないだろうが。しかしこれは冨岡と距離を縮める絶好の機会でもある。冨岡達ての申し出なのだ。葛藤していると急かすように冨岡は畳みかける。


「他事は着いてから考えろ。」


行くぞ、と声をかけるとともに再び伸ばされた手を名前はするりと避ける。冨岡は避けられたことに動じず、なおも掴もうと手を伸ばす。さらにそれもかわした名前は踵を返して駆け出した。後ろから大きく名を呼ぶ声が聞こえるが、聞こえないふりをして足に力を込める。ようは、逃げ出したのだ。神様、しのぶ様、私はどうしたら良かったのでしょうか。

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