透明な小箱 | ナノ




Giyu Tomioka


医務室での告白から1か月が経ち、青々としていた広葉樹も次第に秋の支度が始まった。道を歩けば枯れ葉を踏みしめる音が心地よい。さて、冨岡との関係といえば。名前は実のところ、まだちゃんとした返事を貰えないでいた。一世一代の告白の後、幸せを噛みしめるように抱き合っていたら、戸をけたたましく開けて飛び込んできた宇髄に冨岡は引きずられるように任務に連れて行かれてしまったのである。冨岡も抱きしめてくれたことだし、返事は良いものだと期待していた名前だったが、時間が経つにつれ”断りにくいから無かったことにされた”のではないかと少しずつ不安が芽生えてくる。というのも、任務がとっくに終わっていることは宇髄の鴉を通して伝わっており(邪魔して悪かったと謝罪付きで)、それから連絡が来るかと思いきや待ちぼうけの日々が続いているからである。


「今日も連絡なし、か。」


待てど暮らせど鎹鴉は文をつけてはやってこない。ため息を一つ溢して落ちてきた銀杏を払った。並木道を行く名前の目指す先はいつか冨岡と歩いた街だ。何故だかそこに行けば冨岡に会える気がした。気を取り直して向かう名前の上空は厚い雲がかかっていて、いつ雨が降り出してもおかしくない。吹き抜ける風が湿気を含んで重い。街に入るまで天気が持ってくれれば良いのだが。歩みを速めて街へ降りる丘を下った。

しかし、天候は名前の思いとは裏腹に気まぐれで、頬に水滴が落ちてきた。2、3粒当たったと思えばすぐに羽織を湿らせるほどの雨に変わり、次第に滝を打つような豪雨に変わる。慌てて羽織を傘の様に頭から被るも、撥水性のない布では気休めに過ぎない。慌てて丘を下れば足ももつれる。気が付いた時には目の前に地面があった。受け身を取ろうと手を前に出すが、羽織が引っかかり結局顔から飛び込んだ。


「痛い…。」


顔に付いた泥を拭いながら立ち上がると、隊服前面の酷い様が目に入る。まるで泥遊びをした後の子供だ。こんな姿で冨岡に会ったら幻滅されてしまうかもしれない。やっぱり街に入るのはやめておこう。濡れる体を起こして、丘を登ろうとすると雨が止んだ。いや、正確には名前の頭上のみ雨が上がったのだ。不思議に思い、見上げれば黒い傘が寄りかかっている。


「痛みはないか。」


聞きなれた優しい声に振り返ると、会いたいと願っていた彼の姿があった。名前の方に傘が傾けられているから肩はじわりと滲んでいる。既にぐしゃぐしゃの名前とは違い、今からでも傘に入れば凌げる程度の濡れだ。風邪を引いてはいけないと傘を押し戻すも、力強い腕は簡単には引いてくれない。


「いけません、冨岡さん。貴方まで濡れてしまいます。」
「俺のことは気にするな。それよりも痛みはないか。」
「頬を少し擦りむいただけです。風邪を引いたらどうするんですか。」
「…この程度で風邪などひかない。」


見せてみろ、といった冨岡の顔がぐっと近づく。冨岡は傘を持っていない方の手を頬に触れ、親指で傷の上をなぞった。まだ泥が残っていたのか親指には細かい砂利が付いている。


「すまない。」
「…?なぜ謝るんです?」
「遠くから苗字の姿が見えた。走ってきたが間に合わなかった。」


転んだのは完全に名前の不注意だというのに、何故か責任感を感じて謝る冨岡を宥めるのはおかしな話だ。しかし、相手は天然の彼だからこんなやり取りも不思議ではない。手を大きく振って大丈夫とアピールしても真剣に考えこんでいるようで視界に入っていなさそうだった。ここで名前は泥だらけの袖が目に入り、自分が転ぶ姿からすべて見られていたことに気づき、途端に恥ずかしくなった。慌てて手を引っ込めて縮こまる。鈍くさいやつだと思われただろうか。顔を両手で覆って項垂れていると、急にまた雨粒が降りかかってきた。それと同時に肩に冨岡の両手が置かれ、驚きから両手を少し開いた。傘は地面に開いたまま転がっている。


「…娶るから嫁に来い。」


殴りつけるような雨がかき消さない程度の静かな声で冨岡は言った。冗談…ではない。それは迷いのない目が告げている。先程の考え事の結論が”婚姻”とはまた吹っ飛んでいる。


「顔に傷をつけてしまった。責任は取る。」
「だからこれは自分が転んだからで!…そもそも私達恋人関係でもないですよね…?」
「…?」
「……?」


名前の疑問に首を傾げる冨岡。自分の認識が間違って無ければ告白の返事は保留中のはずである。まさか、この天然は告白されたことすら理解していなかった?まさか、そんなはずは。だとしても色々と階段を飛ばして婚姻はないだろう。


「…交際しているのだと思っていた。」


ぽつりと冨岡が呟く。目が点になるとはまさにこのことだ。


「え…、私告白の返事貰ってないんですが…。」
「抱きしめただろう?」
「言葉にされないと分からないです!もう!ずっと不安だったんですよ!」


当然かのように返事をしたつもりでいた彼の胸をどんどんと叩くと、すまない、と謝る。欲しいのは謝罪ではなく、もっと別の言葉で。彼との恋愛は難を極めそうだ。そもそも恋人だと思っている人を1か月も放っておくような冨岡のことだ。きっとこれからも気苦労は絶えないだろう。でも、恋してしまったのだから。少しでも思いを伝えるために心の箱はいつも開けたままにしようと名前は誓った。

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