Giyu Tomioka 「それでのこのこ逃げ帰ってきたというわけですね。」 「逃げ帰ってきたなんて…。」 「逃げ帰ってきたんですよね?」 笑顔で顔を近づけてくるしのぶは肯定しか許さない。渋々首を縦に振ると、満足したのかしのぶは消毒液を浸した脱脂綿をぐいぐい押し付けてきた。擦り傷に染みて痛いと嘆くが彼女は止めてはくれない。 「大体傷を作る方が悪いんですよ。」 「返す言葉もございません…。」 あの日、冨岡から脱兎のごとく逃げ出した名前は三日三晩走り続けて蝶屋敷にたどり着いた。無我夢中で野を駆け、山を駆けを繰り返していれば木の枝や葉が擦れて傷が出来る。しかし名前は冨岡のことで頭がいっぱいだったため、痛覚は遥か彼方に吹き飛んでいた。垂れてくる血をただただ拭い、処置を怠っていた。そして、蝶屋敷の戸を叩くころには顔や腕は擦り切れて血だらけで、拭った手や裾は黒く染みができている。そんな悲惨な状況だというのに、右手に握られていた飴細工だけはヒビ一つ入っていなかった。出迎えてくれたアオイはすぐにしのぶを呼び、個室に移されて今に至る。 「それで、冨岡さんになんと伝えるんです?」 「へ…?」 「まさか次会うまで何も言わないつもりですか?勇気を出して贈り物をして屋敷に誘ったのに逃げられては冨岡さんも嫌われたと思っても仕方がないと思いますよ?」 冨岡を嫌うだなんて絶対にないと言い切れるが、確かに今のままだと誤解されている可能性はあった。かといって逃げ出した手前、すぐに呼び出すのは気が引ける。もごもごと口を動かしているとしのぶは先程までより強く脱脂綿を押し付けてくる。 「…名前さん、私、ちょっとだけ苛々しているんですよ。」 しのぶは脱脂綿を押し付けていた手をそのままに名前と向き合う。 「名前さんは口先だけです。」 挨拶する、会話する、それで本当に満足なのかとしのぶは問うた。距離を縮めたいという割には現状維持で満足し、冨岡が距離を縮めようとすれば逃げる。これでは永遠に二人の想いが通じ合うことはないだろう。名前の話を聞く限り、冨岡は言葉足らずながら名前に伝えるべきことは伝えていた。問題は名前の方だ。肝心なことは何一つ伝えていない。しのぶの言葉に名前は何も言うことはできなかった。名前が黙って俯いていると、しのぶは鑷子を器に置き立ち上がる。そして近くの棚の引き戸を開けて何かを取り出した。手に持ったそれを椅子に座っている名前によく見えるように目の前に突き出す。 「名前さん、これが何だかわかりますか?」 しのぶが見せたのは硝子で作られた箱だった。硝子は色を持たない。無色透明なだけに中身は箱を開けずとも見ることが出来る。箱の中は等間隔に仕切られており、液体の入った小瓶がぎっしりと詰まっている。薬学の知識はない名前にも薬が入っていることは見て取れた。 「薬箱?」 「正解です。今名前さんはこの箱を見ただけでそれを判断しましたね?」 しのぶは蓋を開けて中から一つ小瓶を取り出すと中の液体を揺らして見せる。薄い青をした液体はしのぶの手の動きに合わせて波を立てた。”薬は箱に入っているだけでは患者には届かない。箱を開けて初めてその効力を発揮するのです”としのぶは言った。その言葉に、彼女の伝えたいことを名前は漸く理解した。いくら好意を持って相手に接していたとしても、それを口という名の蓋を開けて思いを伝えないと相手には分からないのだ。いつか察してもらえるだろうという受け身な考えではいけない。それに名前は卑屈なところがあった。冨岡の純粋な好意を捻じ曲げて捉え、真意に触れようとはしてこなかった。 「ごめん…。」 「あら、謝るのは私ではないはずですよ。」 「…そうだね。私、ちゃんと伝えないと。」 拳を握り、真っすぐしのぶの瞳を見つめる。そこにはもう迷いはなかった。しのぶも安心したようにいつもの笑顔に戻って、戻って…、いや、いつもより口の端があがっているように感じられる。嫌な予感というのは当たるものだ。しのぶが胸の前で一つ手を叩くと、それを合図に襖がゆっくりと開く。 「ですって、よかったですね冨岡さん。」 「え、え、なんで…。」 襖を開けたのは冨岡だった。どこから聞いていたのかは分からないが、しのぶは冨岡がいたことをずっと知っていたかのような口ぶりだ。 「名前さん、冨岡さんの気配にも気付かないほど惚けていてはいけませんよ。私は邪魔でしょうから退散します。あとは冨岡さん、お願いしますね。」 「ああ。」 しのぶは薬箱を棚にしまうと、なかなか襖を跨ごうとしない冨岡の背中を押して名前のいる医務室に押し込む。そしてそのまま襖を閉めて行ってしまった。突然の状況に名前は驚く。けれど同時にチャンスだとも思った。立っている冨岡に目線を合わせるため、椅子から立ち上がると、体一つ分空くぐらいの距離まで歩いて行った。 「いつから居たんですか?」 「胡蝶が苛々する、と言ったあたりからだ。」 「ほぼ最初からいらっしゃったんですね。…冨岡さん、私謝らなくてはいけないことがあります。」 好意を知りながら失礼な態度をとったこと。贈り物をされて素直に感謝の気持ちを伝えられなかったこと。身を案じてくれたのに無下にして逃げたこと。一つ一つ拙い言葉ながら伝える。冨岡は静かに最後まで聞くと、名前が謝る必要はないと言う。自分が悪いと言うのだ。名前には冨岡が謙る理由が見つからない。もどかしい。彼もまた、自分と同じように卑屈な面があるのだ。これ以上伝えても冨岡の自責を止められないと考えた名前は、思い切って目の前の半々羽織に抱き着いた。 「冨岡さん、貴方は私に言いました。用がないと会ってはいけないのか、と。」 「…ああ。」 「本当はとても嬉しかったんです。私もずっとそうだったから。」 会える機会を見つけては話しかけに行って、声を聴くだけで、顔を見るだけで幸せだった。貴方の瞳に映る自分は鬼殺隊員としてではなく、いつだって年相応の恋する女の子の姿だった。背中に回した腕にぎゅっと力を込めると、名前の背にもそっと手が添えられた。 「俺は嫌われているのだと思っていた。」 「恥ずかしかったのです。ずっと私の一方通行だと思っていたので、急に距離が縮まるとどうしていいか分からずあのような態度を。」 そうか、と呟いた冨岡の腕がぐっと締まった。胸板に押し付けられるように抱き込まれる。 「冨岡さん、私、」 貴方が好きです。勇気を振り絞って出した声は狭い医務室に吸い込まれていった。この時、冨岡がどんな顔をしていたのか名前は知らない。苦しいほどに抱きしめられた体を捩って、髪から覗く少し赤くなった耳を見つけただけで名前はひどく満足感を覚えた。 ―ああ、やっと伝えることができた。 [しおり/戻る] |