Rei Furuya



もういい、出ていく。それだけ言い残し、零は振り向きもせずドアを乱雑に閉めて家を出ていった。私にもプライドがあり、それを引き留めることはしなかった。別にただの喧嘩だ。今生の別れというわけではない。どうせ零だって頭が冷えればすぐに帰ってくるだろうと、喧嘩の原因となった口紅のべっとりついた零のワイシャツを洗濯機に放り込んだ。


「零が悪いんだもん…。」


事の発端は昨夜。零が仕事から帰ってきて眠い目をこすりながら出迎えた後のこと。すっかり疲れ切ってフラフラになった零をリビングまで運んで、ジャケットを脱がして、風呂場に押し込もうとしていた。時間は深夜2時、こちらも欠伸が止まらず、今すぐにでも寝たかった。けれど私以上に眠いであろう彼のことを想うと、自分は少しでも彼の負担を減らしてあげたい。脱がしたジャケットをハンガーにかけて、背中を押しながら風呂場へ向かっていた時、肩のあたりに紅い染みを見つけてしまう。ペンキか何かかと少し高い肩口に背伸びして顔を寄せると、それは唇の形によく似ている。


「零、今日本当に仕事だったの?」
「当たり前だろ。」
「じゃあこれどういうこと。」


洗面台についている鏡の前で零の体を横に向け、赤い染みを指さした。零はそれをまじまじ見つめると、ああ、とつぶやく。


「捜査の一環で女を口説いていたから、勘違いした女がつけたんだろう。」
「はぁ?まさかシてないでしょうね。」
「お前が気にすることじゃない。」
「…普通そこは心配かけてごめんとか謝るところじゃないの。」
「別に疚しいことをしたわけじゃないんだから謝る必要なんてないだろ。…それより疲れてるんだ、さっさと風呂に入って寝たいんだが。」
「ああそう、じゃあもう勝手にしたら!」


なによ、いくら疲れているからってその言い方はないんじゃないの。欠伸をしながらズボンのベルトをはずす零に背を向けて洗面所のドアを勢いよく閉める。ものすごい音がしたが気にしない。流石にマンション住まいということもあり、どんどんと足音を立てるのはやめておいた。寝室のダブルベッドにもぐりこんで布団を占領する。零なんて布団なしで風邪を引いちゃえばいいんだ。いつもは向かい合って腕の中に抱かれて寝るところだが、零が来るべき場所に背を向ける。


零は全然わかっていない。疚しいか疚しくないかなんて当事者である零にしか分からない。私には、何があったかなんて知る術もなくて、つけられたリップから挑発されているようにしか思えないのだから。だからこそ、謝罪の言葉や慰めにハグや愛情を示すものが欲しかった。…疲れているのは十二分にわかっていても。ぽたりと頬に伝った雫が枕に落ちていって丸い染みが広がっていく。遅くまで起きていたことと泣きつかれたことで私はいつの間にか意識を手放していた。





カーテンから差し込む光がまぶしくて目を覚ます。横に向けていた体を仰向けに戻し、空いた反対側のスペースを見るも、そこにあるべき姿は見当たらない。時刻は7時。もう出勤してしまったのかもしれない。普段なら寝る前に出勤する時間を聞くところだけれど、昨夜はそれをしなかった。伸びをしながら体を起こすと、目を擦りながらリビングへとゆっくり歩く。その途中にある洗面所に寄ると脱ぎ散らかされた衣服は洗濯機に入っているものと入っていないものがあった。後で回せばいい、とりあえず朝食を取ろう。散らばった衣服をそのままに洗面所のドアを閉めた。リビングのドアを開けるとまずソファからはみ出す褐色の足が目に入る。近づいて上から覗き込めば、零はタオルケットに包まってソファでぐっすり寝入っていた。そうですか、私と寝たくもありませんか。イライラしたけれど、こんなところで寝ては疲れが取れないと思い、ベッドに移動させようと体を揺らす。


「零、零。ベッド空いたから寝室で寝たら。」
「…あー…別にいい。うるさい、静かに寝かせてくれ。」


私の声に片目を薄く開いて髪を掻くと、寝起きも相まって煩わしそうな声で返事をする。そしてそれだけ言って、枕に顔を押し付けるようにしてもう一度寝る態勢に入った。零の言動にプッツンと私の中の何かが切れた音がしたかと思うと、次の瞬間には心にもないことを口走っていた。


「…あっそ、じゃあもう他の女の家にでも行って休ませてもらえば!」
「まだその話をするのか。…わかったもういい。」


ここで話は冒頭に戻る。待てど暮らせど零は帰ってこない。朝に干したシャツはとっくに乾いて他の洗濯物と一緒に取り込んだというのに。また夜になって、一人の時間が続くたびにもう帰ってこないんじゃないかと不安になる。スマホと財布だけを持って行ったからよっぽどそれはないと信じたいけれど。時間が経つにつれて自分も子供だったと反省した。同じ警察庁に努めるものとして、仕事と理解してくだらない嫉妬は飲み込むべきだったとか、疲れを労わって気づかないふりをするべきだったとか。ぐるぐると回る思考の中で、いつの間にかどうやって謝るかばかりを考えていた。結局起きてしまった諍いはどちらかが折れないとすれ違ったまま。それは嫌だ、こんなことで零と離れ離れになりたくない。私が謝ることで元に戻れるならいくらでも頭を下げよう、そして二度と彼の仕事に口は出さないようにする。


そうと決まればまずは零に帰ってきてもらわなければ。スマートフォンで零の名前を探してかけようとしたその時、玄関で鍵の開く音がした。零だ、零が帰ってきた。…出迎えるべきだろうか。でもここで待っていてもそのうち顔を合わせることになる。覚悟を決めて、練習していた謝罪の言葉を繰り返し呟きながら重い腰を上げてリビングの戸を開けると、零と鉢合わせした。


「お、おかえり…。」
「…ただいま。」


お互いばつの悪そうな顔をしながらも、すんなりと言葉を交わすことが出来た。後は謝って元通りにするだけ。口を開こうとすると、それに被せるようにして零が頭を下げる。


「ごめん。」
「え、」
「…無神経だった。いくら疲れていたとはいえ心無いことを言ったし不安にさせたよな…。遅くまで起きて待っていてくれたのに。」


頭を下げたまま動かない零に困惑する。まさか零から謝ってくるなんて思ってもいなかった。大体喧嘩するときは私から折れるのが通例となっていたから、予想外の行動に零の言葉を聞くことしかできない。


「一人になって考えたんだ。もし、七海がキスマークや男の匂いをつけて帰ってきたらどう思うか。…俺だったら絶対許さないしもっと酷いことを言ったと思う。」
「…うん。」
「本当に悪いことをした。気が済むまで何度でも殴ってくれていい。だから、許してほしい。」


心の底から許しを請う零の姿を見ていると自然に自分もごめんと謝っていた。それを聞いて零は、お前が謝る必要はないというけれど、私だって心無いことを言ったのだ。だから両成敗だと零の頭を上げさせる。ようやく見つめ合うと零の大きな手が私の頬に添えられた。


「目が腫れてる、泣かせてごめん。今日は洗濯も炊事もすべて俺がやるよ。七海は座って待っていてくれ。」
「…ううん、私も手伝う。零疲れ取れてないでしょ。隈あるよ。一緒にやるべきことを済ませて早く寝よう?」
「…そうだな。」


洗い流したシャツを思い浮かべながら思う。こうやっていつだって白に戻せる関係でいたい。これからも、いつまでも。


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