5/5
これは昔々の、遠い世界で綴られた物語。
永くにわたり栄華を極めたとある国には、とても美しく残虐な王女と、王女に似た残虐な召使がいました。
【悪逆非道の王女様】
煌びやかな調度品の数々に彩られたある部屋には権威を象徴するような豪華な椅子が置いてある。そこに座することを許されたのはこの私、ただ一人。
私の名は椿。幼い頃からこの国を治めている「悪逆非道の王女様」
一体誰が言い出したのか、私に相応しい呼び名だこと。
「ねぇ、やまと。今日はジョセフィーヌと散歩をしたいわ」
私は毎日のようにやまとに命令を下す。あの時からそうすることで私はやまとの傍に居られた。
だってやまとは私の可愛い姉弟で、王女の従者だから。
2人の愛馬である白馬に乗ると、やまとは私を守るように後ろに跨った。
「さあ、行くわよ。ジョセフィーヌ」
2人を乗せた白馬が私の言葉に応えるようにぶるん、と鳴くと散歩というに相応しい速度でゆったりと歩き出した。
やまとが笑う。私も笑う。2人だけの時間、2人だけの空間。昔に戻ったようなこの時が何よりも私たちに幸せを与えてくれる。
けれど幸せは長くは続かないの。
散歩から戻った私を待っていたのは下劣で狡猾な老大臣と嫌がらせの如く積まれた書類の束だ。もう何年もやらされてきたのだ、今更億劫がるのも馬鹿らしい。
「王女様、レモンティーをお淹れ致します」
「ありがとう」
丁度いい温かさで淹れられたレモンティーが私の渇いた喉を潤してくれる。
机の片隅に置かれていた紅茶に手を付けられた痕跡はなかった。
―翌日貧窮に喘ぐ国民の心を軋ませたのは更なる増税の報せと、異を唱えた者達の処刑だった。
2人きりで息抜きが出来る貴重な時間。私は今日もやまとが作ってくれたアップルパイを食べながら他愛もない話をして笑う。惨劇など何も知らない、無邪気な笑顔で。
今日は久しぶりにやまとと隣国に遊びに来ている。王女と従者ではなく、普通の姉弟として。
買い物に行けば何が似合うかと2人ではしゃぎ、予算の少なさに頭を悩ませる。普段ならできる筈もない買い食いをして笑い合って、はぐれないように手を繋いで歩く。
王宮での生活を忘れられる、幸せな時間。
次は何処に行こうか考えているとやまとの視線がある場所に向けられていた。そこには恵まれて育ったのだろうと思わせる優しい笑顔を浮かべた女性と、女性に寄り添う椿の婚約者が居た。
椿はその瞳に映る光景を疑った。信じたくなかったのだ。
椿は何もできなかった。声を出すことも、その場を立ち去ることも。
暫くしてやまとが私を振り返る。その瞳に映った私は自分でも笑えるほど情けない表情をしていた。
やまとに自室まで送られると礼もそこそこに鍵を閉めてベッドへと沈む。
椿の手は無意識に枕元のオルゴールへと伸びていた。自嘲的な笑みが零れる。このオルゴールはやまとが初めての給金を叩いて買ってくれた、特別なもの。
ネジを回し流れてきたのは聴き慣れたメロディ。懐かしむように口遊んでいると何故か目の奥が熱くなってきた。次第に視界は滲み歪んでいく。頬を何かが伝う。何かを堪えるように息が詰まる。押し殺した声が微かに鼓膜を震わせたことで椿は自分が泣いているのだと、ぼんやりとした頭で思う。
気付けば小鳥の鳴く時間だった。泣きながら眠っていた椿の瞳には強く儚い色が滲んでいた。
あの夜から何度目の陽を迎えたのだろう、随分長かった気がする。
見慣れた煌びやかな部屋には臣下が集まっている。勿論やまとも。いつもと違い臣下と同じ位置に居るやまとから咎めるような視線を感じるが、そんなものは無視して、私は冷徹な笑みを浮かべて悪魔の命を下す。
「緑の国を滅ぼしなさい。今すぐに」
ざわつく臣下たち。まだ私の言葉は終わっていない。
「女は全て殺しなさい。やまと、お前にはあの女を任せるわ」
やまとの瞳が見開かれる。私に向けられた笑みはただ悲しかった。
その後、軽い指示を出してから椿は1人席を立ち、自室へと向かった。
零れそうになる涙を、これ以上耐えられる気がしなかったから。
戦の報せが国民に広がり、戦果の報告も上がってきている。やまとは今日も王宮に居る。
皆の前では笑っているけれど、国民たちの怒りも、隣国の悲鳴も、ちゃんと届いている。私の心を刺している。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…」
いくら謝っても誰にも届かない。届いたとしても、決して許されることではない。そんなことはわかっているけれど、それでも、叶えたい我儘があるの。
夜中に突然響いた音。こんな時間に一体誰が…?
枕の下に隠しているナイフを後ろ手に握り、警戒しながら扉を開く。
「やま、と…?」
そこには血に濡れたやまとが居た。
「彼女はもういません。ご安心を」
やまとは笑う。その瞳に黒を滲ませて。
椿も笑う。「ありがとう」と今にも壊れそうな儚い笑みで。
やまとが去り、痛いほどの静寂が訪れる。
「…ふふ、馬鹿みたい」
思わず零れた笑み。静かに零れた滴。
どうして、あんな命令をしたのかしら。どうして、素直にあの子と逃げてと言えなかったの。やまとをあの子と逃がすための戦より、やまととあの子を守る為の戦にすればよかったのに。
私はあの時と何も変わってない。
戦が終わりを迎える頃、1人の青年が立ち上がった。その昔王女に異を唱え、やまとに弟を殺された哀れな男。戦によって民の心が憎しみに満ち、反逆の意思に繋がった。そこに男は目を付けた。
永い間燻っていたであろう憎しみの炎を消す為に、王女への反逆を促した。
別にどうでも良かった、反乱が起きようと、色惚け王子と対立しようと、捕らえられようと。私の罪に対する罰ならば、受け入れるつもりだったから。
ついに王宮は革命軍に囲まれた。家臣も殺され、逃げ出し、投降し、もういない。
静かな部屋。私に寄り添うやまと。早く、逃がさなければ。
私を置いて逃げなさい。そう伝える為に口を開いた瞬間、己の耳を疑った。
私の服を着てください。
「…え?」
私が奴等を引き止めます。これを着て直ぐに逃げてください。
「何を言っているの…?」
大丈夫、私を信じてください。
「…嫌よ…罪を負うべきなのは貴方じゃない!私なの!だから」
椿。椿が無事で笑っていてくれたら、俺はそれだけで幸せなんだ。きっと追い付くから、だから、お願い、逃げて。
真剣な瞳で、歪な笑みを浮かべるやまと。その笑みが椿に全てを悟らせる。
私を安心させたいなら、逆効果よ…?けれど、
「…きっ、と追、い付きなさい、よ」
声が震える。泣いてしまわないように、精一杯の笑みを浮かべて、約束を。
必ず…。
本当はどちらもわかっている。きっと叶わないことを。
これは仮初めの、けれど心の底から願う契り。
椿は王女に扮したやまとの手によって愛馬の背中に乗せられる。
椿を頼む。
やまとの願いに応えるように一鳴きすると愛馬は椿を乗せて闇へと消えていく。
やまと、やまと、やまと…!
涙が止まらない。今直ぐにでも引き返してやまとを連れて行きたい。
けれど椿は振り返らない。もう一度その姿を見てしまったらきっと進めなくなってしまうから。
椿はやまとの想いを抱え、きっと追い付いてくることを願って、嗚咽さえも圧し殺し只管に暗闇を突き進む。
王女が捕まった。明日処刑されるらしい。
闇で息を潜めていた椿の心臓を揺らしたのは、国民の嬉々とした声だった。
処刑の時間は午後3時。教会の鐘が鳴る時間。
それはいつも、やまとの作ったお菓子を食べながら2人きりでお話していた時間。
まだかまだかと王女の処刑を待ち望む民衆など目もくれず、椿はただ只管に処刑台の王女を見つめている。
悲哀と後悔に染められた瞳で、やまとを見つめている。
ぱちり。やまとと目が合った気がした。否、合った。一瞬だけ、やまとが哀しそうな、愛おしそうな笑みを椿に向けたからだ。
涙が浮かんでくる。こんな時にやまとが見えないだなんて許さない。
ぐっと涙を耐え、椿は微笑んだ。
またね。
音を発さない願い(別れ)の言葉。
教会の鐘が鳴る。過ちに塗れた断罪の刃が振りかぶられた。
貴方は私の口癖を言う。
「あら、おやつの時間だわ」
ねぇ、やまと…やっぱり神様は残酷ね。10年間、祈り続けたたった一つの願いさえ叶えてくれないなんて。
民衆が疎らに消えていき、王女の死体が運び出された。椿は息を潜め、後を追う。
乱雑に投げ出された王女の死体はそのまま闇の中へと置き去られた。
椿は王女の死体に近付くと崩れるように隣に腰を落とした。
「やまと、やまと、」
椿は涙を流しながらぶつぶつと愛しい彼の名を呼び続ける。
震える手でやまとの頬に触れる。その瞳は虚ろだ。
どうして、どうして?やまとは何も悪くないのに、悪いのは私なのに。どうして私を置いていったの?
後悔や悲しみ、罪の意識に苛まれながら、汚れることも厭わず大切に大切にやまとを抱きしめる。
抱きしめられたやまとの胸元から僅かに覗く小さな袋。見覚えのある小さな袋。
椿の腕は自然と袋へ伸びていた。
袋の中には小さな指輪と血に濡れた古惚けた写真。
涙が溢れた。そこに映っていたのは道を別った哀れな双子の幸せな笑みだった。
椿が無事で笑っていてくれたら、俺はそれだけで幸せなんだ。
突然響く愛しい声。やまとの最期の願い。
「ふざけないでよ…」
自然と零れた声は震えていた。
僅かに口角が上がる。流れる雫は止まらない。
貴方が傍に居てくれたから、私は笑っていられたのに。
愛しい愛しい、私の半身(世界)。
貴方が笑っててと言うのなら、何も感じぬ振りで笑いましょう。
でもね、神様、もしも生まれ変われるならば、――――――――。
それくらい、叶えてくれたっていいでしょう?
―これは昔々の、遠い世界で綴られた物語。
永くにわたり栄華を極めたとある国には、とても愚かな王女と、優しい召使がいました。