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これは昔々の、遠い世界で綴られた物語。
永くにわたり栄華を極めたとある国には、とても美しく残虐な王女と、王女に似た残虐な召使がいました。
【悪逆非道の召使】
煌びやかな調度品の数々に彩られたある部屋には権威を象徴するような豪華な椅子が置いてある。そこに座することを許されたのは真っ赤なドレスを身に纏った、華のように美しい女の子ただ一人。
彼女の名は椿。俺の可愛い姉弟であり、齢14にしてこの国を治めている「悪逆非道の王女様」
「ねぇ、やまと。今日はジョセフィーヌと散歩をしたいわ」
毎日のように繰り返される椿の可愛いお願い。それを叶えることが俺が椿の側に居ることを許された唯一の方法。
俺は王女の従者として恭しく頭を下げた。
2人の愛馬である白馬に椿を乗せて、椿を守るようにその後ろに跨った。
「さあ、行くわよ。ジョセフィーヌ」
俺たちを乗せた愛馬が椿の言葉に応えるようにぶるん、と鳴くと散歩に相応しい速度でゆったりと歩き出した。
椿が笑う。俺も笑う。2人だけの時間、2人だけの空間。昔に戻ったようなこの時が何よりも俺たちに幸せを与えてくれる。
けれど幸せは長くは続かない。
俺は名残惜しさに苛まれながら王女を執務室に送っていく。
王女を待っていたのは狡猾そうな老大臣と頭が痛くなるような量の執務だ。
国民たちは、たった14年しか生きていない椿がこれだけの執務を熟せるようになるまでどれだけ努力したと思っているんだ。
「王女様、レモンティーをお淹れ致します」
「ありがとう」
少しでも疲れがとれますように。
―翌日貧窮に喘ぐ国民の心を軋ませたのは更なる増税の報せと、異を唱えた者達の処刑だった。
2人きりで息抜きが出来る貴重な時間。椿は今日も俺が作ったアップルパイを食べながら他愛もない話をして笑っている。何も知らない、綺麗な笑顔で。
今日は椿と久しぶりの外出だ。しかも椿がデザインしてくれたお揃いの格好で。
今だけは王女でも従者でもない、ただの姉弟。護衛も居なければお金もあまり持ってきていない。
買い物に行けば何が似合うかと2人ではしゃぎ、予算の少なさに頭を悩ませる。普段ならできる筈もない買い食いをして笑い合って、はぐれないように手を繋いで歩く。
次は何処に行こうかと街を眺めていると1人の女性に目を奪われた。恵まれて育ったのだろうと思わせる優しい笑顔を浮かべた彼女は謀略渦巻く王宮に暮らすやまとの目にとても眩しく映った。
暫く彼女に見惚れていたやまとはふと、彼女に寄り添う男に気付く。見覚えのある顔、男は椿の婚約者だった。
やまとは反射的に椿を振り返った。傷付いた、悲しそうな顔。
此処に居てはいけない。そう思ったやまとは椿を気遣いながら王宮へ向かう。椿を支える手は怒りに震えていた。
王宮に戻ると椿は自室に籠ってしまった。やまとはその場を離れることが出来ず、扉の側に立ち室内へと意識を集中させている。
ふと、小さなメロディがやまとの鼓膜を震わせる。
これは、昔俺があげたオルゴール…?
椿の部屋から響く聴き慣れたメロディは、やまとが従者になって初めて貰った給料で椿へと贈った、思い出の品。
まだ聴いていてくれたのかと自然と頬が緩んだやまとの表情が凍った。微かだが聴こえたのだ。押し殺した、椿の泣き声が。
やまとはやり場のない感情を抑えるように前髪を掻き上げると小さな舌打ちを零してその場を立ち去った。
煌びやかな部屋には王女に呼び出された臣下が集まっている。勿論俺も。でも今日は何故か椿の傍ではなく、他の大臣たちと同じ場所だ。
玉座に座る椿に何故だという視線を送るが、俺を見ることもなく冷たく空気を震わせた。
「緑の国を滅ぼしなさい。今すぐに」
王女の言葉にざわつく臣下たち。王女の言葉はまだ終わっていない。
「女は全て殺しなさい。やまと、お前にはあの女を任せるわ」
あの女…?それは、きっと、
思わず見つめた椿の瞳が真っ直ぐに俺を映していた。優しく強い、綺麗な瞳で。
「かしこまりました、王女様」
従者が王女の命令を断れるわけがない。
戦の報せが国民に広がり、戦果の報告も上がってきている。そろそろ彼女を殺さなければ。
幾日思っているのか、思うだけで何もしていない。
葛藤するやまとの足は自然と椿の部屋へと向かっていた。
「…め…い…ん…さい」
椿の部屋から小さな声が聞こえるが途切れ途切れで上手く聞き取れない。駄目だとは思いつつも耳を澄ます。
「ご…さい…ごめ…なさい。ごめんなさい…ごめんなさい…」
やまとの目が見開かれる。唇が開閉されるが言葉にはならなかった。
やまとは未だ戦火に包まれていない、あの時の街に居た。目の前には不安の混ざった優しい笑みを浮かべた彼女がこの国の状況を話している。
「隣国の王女が戦を仕掛けたらしい」「女は皆殺しにしろだなんてどうして」「兵士がいて外へ逃げることもかなわない」「悪逆非道の王女様ってその通りだったのね」「何もしてないのに、なんで私たちが、王女が死ねばいいのに」
違う、違うんだ。あの子は、椿はそんな子じゃない。今だって心を痛めてる。独りで泣いてるんだ。ただ、どうしようもなく哀しかったんだ、全部、あの男の所為で。
彼女の言葉は尤もだ。酷いことをしている。でも、だけど。
やまとの脳裏には泣きながら只管謝罪の言葉を呟く椿の声が廻っていた。
「でも、やまと君が助けに来てくれたから、安心した」
嬉しそうに笑う彼女。初めて彼女を見たあの日以来、椿の婚約者とのことを聞こうと何度か会っていたのだ。ただ1つ誤算だったのは短期間で惹かれ合ってしまったこと。
「…大丈夫だよ」
完全に自分を信頼している彼女を見ていると胸が痛む。でも仕方ないんだ、王女の命令には逆らえないから。
ずきずきと胸の痛みが増していく。
「でも、どうやって逃げよう?」
ずきずき。
王女の命令なんだ。
ずきずきずきずきずき。
椿の願いだから。
ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき。
あぁ、もう、五月蠅い。
ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき。
「逃げ道は考えてあるんだ。外に出よう」
ずきずきずき。安心させるように笑う。ずきずきずき。
何も疑うことなく外に出た彼女を後ろから抱き締めた。片手でナイフを取り出しながら。
「どうしたの?」
「ごめんね」
ずきずきずきずき。
椿の為だから。
ずきずきずきずきずき。
…椿の?
「やまと君…?」
ずきずきずきずきずき。
違う…
ずきずきずきずき。
椿が泣いている姿を、俺が、見たくないんだ。
ずきずき。
「俺の世界の為に、死んで」
奔る赤。食い込む爪。潰れる声。重力を増す身体。胸に響いていた音はなくなった。
椿の部屋をノックする。暫くして開かれた扉、と驚愕に染まる椿の顔。
「やま、と…?」
「彼女はもういません。ご安心を」
椿は笑う。「ありがとう」と笑った。
やまとは笑う。「お役に立てて何よりです」と笑って立ち去っていく。
椿はなんであんな瞳をしたんだろう?椿を悲しませる人間はいなく…あぁ、そうか。まだ男が残ってるのか、あの裏切り者が。
その瞳に映るのは男への怒り。彼の世界は1つだけ。
戦が終わりを迎える頃、1人の青年が立ち上がった。その昔王女に異を唱え、俺に弟を殺された愚かな男。戦によって民の心が憎しみに満ち、反逆の意思に繋がった。そこに男は目を付けた。
永い間燻っていたであろう憎しみの炎を消す為に、王女への反逆を促した。しかし覚悟のない愚かな民は惑うだけで行動に繋がらない、筈だった。彼奴が、裏切り者がでしゃばりさえしなければ。
裏切り者と国民たちによる反逆が始まった。
隣国との戦で傷付いた兵士たちは戦う意志すら曖昧で、ついに王宮は反逆者共に囲まれてしまった。
家臣も殺され、逃げ出し、投降し、もういない。
ここまで追い詰められてしまっては2人で逃げ切ることは不可能だろう。
「私の服を着てください」
…え?
「私が奴等を引き止めます。これを着て直ぐに逃げてください」
何を言っているの…?
「大丈夫、私を信じてください」
…嫌よ…罪を負うべきなのは貴方じゃない!私なの!だから
「椿。椿が無事で笑っていてくれたら、俺はそれだけで幸せなんだ。きっと追い付くから、だから、お願い、逃げて」
声が震える。なんで上手く笑えないんだよ。
…きっ、と追、い付きなさい、よ。
椿は大きな瞳いっぱいに涙を溜め、無理矢理浮かべたであろう歪な笑みを浮かべる。
「必ず…」
本当はどちらもわかっている。きっと叶わないことを。
これは仮初めの、けれど心の底から願う契り。
黒服に身を包み、必死に涙を堪えている椿を愛馬の背中に乗せる。
「椿を頼む」
最期の願いに応えるように一鳴きすると愛馬は椿を乗せて闇へと消えていった。
椿の姿が消えた瞬間、やまとの身体は崩れ落ちた。床に斑な模様が浮かび上がる。
椿、嫌だ、怖い、もっと一緒に居たいよ…椿…
抑えた想いが溢れてくる。やまとは震える手で胸元に隠れた何かを掴む。
ごめん、ごめんね姉さん、酷い弟で。
「生きて、椿」
遠くから王女を呼ぶ声が聞こえた。涙を拭って立ち上がる。
さぁ、迎えようか。2人の世界を壊した憎き敵を。俺の世界を守る為に。
「あぁ、なんて理不尽なんだ」
嗤ってしまうよ。
(なぁ、毒虫共)
処刑の時間は午後3時。教会の鐘が鳴る時間。
王女の処刑をまだかまだかと待ち望む群衆を、処刑台に囚われた王女は冷めた瞳で見下げている。
愚かな愚かな民草、お前らが死んでしまえ。
無関心で囲われていた憎しみがそっと顔を出すその瞬間、群衆の中に見知った顔を見付けた。誰よりも傍で見てきた、最愛の顔を。
あぁ、無事に逃げられたのか。良かった…
こんな所に来て見つかったらどうするんだ。
また会えて嬉しい。
そんな哀しい顔をしないで。
幾つもの想いがやまとの胸を埋め尽くす。眼の奥が熱い。だけど、王女は涙を流さない。
あの日から、俺たちを引き裂いた神なんて信じちゃいなかったけど
もしも、もしも生まれ変われるならば、今度こそ笑っているあの子の傍で最期まで守り通させてください。
リーンゴーン
「あら、おやつの時間だわ」
…なんて、虫が良過ぎるよな。
―これは昔々の、遠い世界で綴られた物語。
永くにわたり栄華を極めたとある国には、とても美しく優しい王女と、無力な召使がいました。