*残響
9/9

 誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。目に映るのは和風の天井。白くって平らなそれではなくて、木の木目が見えるような感じの。
「・・・あれ?」
無意識のうちに零れたらしい声は水分が足りなくてかさかさに掠れていたけれど、それが自分の声だというのは認識できた。ゆっくりと体を起こす。なんだか視野が狭い気がすると思って自分の顔を触って見ると左目を覆う何かを見つける。形的に眼帯らしかったので、どこか怪我をしたのだろうかととりあえず、そのままにしておく。
 そこでふと、自分の手首にあるそれが目に入る。何かが擦れたようなそれは手首をぐるりと囲むようについている。ぐるぐると何かを巻き付けたような感じだ。
 そんなことを確認して、ふと考えた。


―――僕は誰だろう。


 よくドラマなんかである『ここはどこ?私は誰?』と思わず聞きたくなるような状態だった。布団に寝かされているということは、誰かが寝かせてくれたのか、それとも自分で寝たのか。
 物の名前や使い方は分かる。しかし、自分のことが何一つ分からない。とりあえず、見える範囲を確かめようと、着ていた浴衣の前をはだけさせて自分の体を確認する。すると、たくさんの鬱血痕を発見した。これはいわゆるキスマークというやつか。それにしては数が多すぎやしないか。
 そして、それ以外に古い傷をいくつかと、手首と同じように何かで擦れた痕を複数見つけた。そのうちの幾つかの痕を見て思い至る。これはおそらく縄の痕だ。
「縛られてた?」
言葉に出して、その恐怖に身震いする。縄で縛られ、そういう行為を強要された・・・ということだろうか。男の自分が?という疑問はあったが、それ以外では説明できない。もしや、自分はそういうことを喜ぶような人間だったのか。・・・そんなことは考えたくない。
 もしも強要されていたのだとしたら、ここにいては危険だ。そう考えて、申し訳ないと思いつつも部屋を漁る。いくつか見覚えのある道具があったり、着物があったりしたので、もしかしたらここは自分の部屋なのかもしれない。
 和服は記憶が正しければ目立つものだから、仕舞い込まれていた洋服を着て、一緒にあったメッセンジャーバッグを持つ。カードや通帳は暗証番号が分からないから、机の上に置いて、スマートフォンもロックが解除できないから、そのままにしておく。現金と、奥の部屋にあった古い本(何故か懐かしい感じがした)をバックに入れて、そっと部屋を出る。
 人の気配のある場所を避けて、部屋から持ってきたスニーカーを手に出口を探す。誰もいないことを確認してから靴を履いて、なんだか立派な門を出た。
 とりあえず、ここから離れないといけないと思って歩いてみたが、さっきまでいた建物はどれだけ大きいのか、ずっと先まで塀が続いているように見える。これはもういっそ『屋敷』とか『邸宅』と呼べるレベルな気がする。

 「兄さん!」
後ろで声がして、もしや自分のことを捜しに来た人がいるのだろうかと、肩をびくつかせる。すぐ傍に大きな黒い高級車が止まったかと思うと、後部座席から薄い灰色の髪の少年が降りて、こちらへ駆け寄ってきた。
 少年と目が合った瞬間、その奥に潜む冷たさのような物が見えた気がして足が竦んでしまって逃げることができなかった。自分に向けられているのは温かい眼差しなのに、垣間見えるそれは何なのだろう。
「兄さん。もう起きても大丈夫なのですか?」
「えっと、どちら様・・・かな?ちょっと今、よく思い出せなくて」
しどろもどろに答える。『兄さん』と呼ぶということは、彼は自分の弟なのだろうか?
「あぁ記憶が混乱しているのですね。私は『つくも』といいます。数字の九、十、九と書いて九十九。貴方の弟です。お気軽に九十九と呼び捨ててください」
「九十九?」
「はい」
名前を聞き返すように呼べば、とても嬉しそうな顔をされた。
「えっと、九十九は、僕を迎えに来たの?」
「いいえ。兄さんに会いに行こうとしたところで車からお姿が見えたので」
「そっか。会いに来てくれたのにごめんね。・・・その、ちょっと行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ、ですか。・・・病み上がりではお体に触りますし、どうぞ乗ってください。うちの車ですからご自由にお使いください」
そう言って、九十九は自分が降りてきた車のドアを示す。確かにここにいつまでもいたのでは、さらに知り合いに会ってしまうかもしれない。この傷跡をつけた人物と遭遇してしまうくらいなら、九十九にどこかの駅まで連れて行ってもらう方が安全かもしれない。少なくとも、彼の今までの話を信じるのであれば、『会いに行こうとした』という言葉からあの建物には住んでいないらしいし。
「迷惑じゃなければ乗せてもらってもいいかな?」
「もちろんです。どうぞ」
九十九に促されて車に乗り込む。とりあえず高級車の中は広かった。あの建物といい、この車といい金持ちなのだろうか。
 「どちらへ参りましょうか」
九十九が尋ねる。にこにことしているが、やはりどこか底知れない。
「ここから近い所でいいんだけど、大きめの駅に行ってもらってもいいかな?」
「承知しました」
九十九が運転手の方へ視線をやると車が動き出す。今更ながら、目立つかな、これ。
「どこかへお出かけですか?」
九十九が聞いてくる。別に行き先があるわけではなく、あの建物から離れたかっただけなのだが、どうしたものか。
「・・・内緒じゃダメ、かな?」
苦し紛れにそう聞き返せば、
「構いません。ただの好奇心ですし、兄さんが答えたくないというのならそれで問題などありはしないのですから」
とあっさりと返された。
「・・・少し、旅に出たいんだ。どのくらいの長さになるかも分からないし、いきなり思いついちゃったから、行き当たりばったりなんだけど」
沈黙が息苦しくて思いついたそんなことを言ってみる。
「そうでしたか。兄さんが望むのなら、それもまた必然なのだと思います。何かできることがあれば、いつでもご連絡ください。それから、これを」
にこにこと九十九が何かを差し出してくる。受け取って見てみれば、カードが2つ。1つは九十九の名刺らしきもの。手書きで携帯の番号も記されているから、そこに連絡をしろということなのだろう。そして、もう1つは上限額がないことで有名な金持ちの中の金持ちが持っていると描写されるべき某カードだった。
「・・・これ、を?」
「旅に出るということは道中でなにかとご入り用でしょうから是非お持ちください。もちろん支払いはこちらでしますのでご心配はいりません」
「悪いから受け取れないよ」
「使うか使わないかは兄さんの自由です。悪びれる必要などないのです」
笑顔で押し切られてしまい、仕方ないのでカードを名刺と一緒にバックに仕舞う。それとほぼ同時に車が止まった。
「着いたようですね、どうぞ」
九十九がさっと車から降りて外で車の扉を支える。そんな九十九にエスコートされるような形で車から降りる。すぐ近くに駅が見えた。
「ありがとう、九十九」
「いいえ。礼には及びません。兄さんのためになることでしたら、喜んで」
にこりと微笑んで優雅に一礼して見せた九十九はとても格好よく見えた。
「・・・九十九」
「はい」
「僕の名前を呼んでくれる?」
さらりと出た言葉に自分でも驚いた。何も知らないままでいこうとしていたのに。
「はい。ましろ兄さん」
僕の名前は『ましろ』というらしい。
「ここまで送ってくれてありがとう。ここからは僕だけで行くから、その、みんなには知らせずにそっとしておいてね」
「はい」
笑って返事をしてくれた九十九に同じように笑顔を返して前へ進む。行き先はとりあえず、海の方にしよう。

 記憶を失った舞白と遭遇した数時間後。九十九は千羽陽に呼び出され屋敷に来ていた。
「お待たせしました。貴方が私を呼び出すとは珍しいですね、千羽陽兄さん」
襖を開けて部屋の中にいる千羽陽に向けて恭しく一礼してみせれば舌打ちをされた。
「用件に察しはついているんだろう?」
「えぇ。この家のセキュリティーは我が霧崎家の管轄ですから。・・・舞白兄さんをお捜しなのでしょう?」
「随分と落ち着いてるな。舞白の行き先を知っているのか?」
「知っています」
「どこだ?」
九十九の答えに千羽陽の声が低くなる。威圧感を伴ったそれは最大限の威嚇を示すが、正直なところ、九十九にとっては警戒の対象にはならない。そのくらいで怯えていては霧崎家の人間としてはいられないし、さらに言ってしまえば、千羽陽は『身内』に甘い。例えそれが、九十九よりも自分に近い舞白を取り戻すためであったとしても、その甘さは捨てきれないだろう。だからこそ、九十九は何の遠慮もなく自分の『最愛』を優先する。
「お答えできません」
「何故だ?」
「知らせずにそっとしておいてほしい。それが舞白兄さんの願いですから」
にこりと笑って答える。
「・・・舞白に会ったのか」
「えぇ。会いました。ひどく混乱されている様子でしたよ。今回はどんな愛し方をなさったんです?」
八つ当たりの意味も込めて声音に少しだけ怒りを乗せる。あの眼帯の下の美しい瞳に傷でもついていたとしたら一大事だ。千羽陽の性格もその行動についても知っているが、九十九にだって許容範囲というものがある。この世に存在するどの宝石よりも美しいあの紺色の瞳が失われてしまうようなことがあれば、それは許し難いことだ。
 九十九の問いに千羽陽は無言を返す。別にそれは問題ではない。この家に送り込んでいる霧崎家の人間を通して、九十九はだいたいの事情を知っている。今回のことは言い表すのなら事故だろう。しかし、そこにはその事故より前に蓄積した舞白の疲労と千羽陽の癇癪が関わっているのも事実だ。結果として舞白は左目の光を失った。記憶の混乱と喪失はそれに付随するものだろう。
「申し訳ありませんが、舞白兄さんの願いを聞いてしまった以上、契約主である千羽陽兄さんの願いであるとはいえ、舞白兄さんの居場所に関する情報提供はできません。とはいえ、千羽陽兄さんが舞白兄さんを捜すのであればそれを邪魔するということは致しません。あとは・・・千羽陽兄さん次第というところではないでしょうか」
九十九は千羽陽に向けて深く頭を下げて、入ってきた襖の方へ足を向ける。
「・・・舞白は」
その背中に小さな千羽陽の声が届く。
「舞白はどんな様子だった?」
「・・・一時的なものかもしれませんが、記憶の喪失とそれによる混乱が見られました。私のことも覚えていらっしゃいませんでした。それはとても残念なことですが、しかし」
一度言葉を切って九十九は千羽陽を振り返る。
「舞白兄さんが私に願いを言ってくれたのはとても久しぶりのことでしたね」
そう告げた九十九の顔はとても嬉しそうで、『弟』の顔をしていた。では、と告げて部屋を出て行った九十九を動けないまま見送って、千羽陽は手にしていた一升瓶をやりきれない気持ちのまま振り上げて、目についた柱に向けて思いっきり投げた。


 

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