*月の温もり
9/9

 名前を呼んでくれるだけで良かった。そうすれば、そこに確かに自分は存在しているのだと実感できたから。そんな些細な願いさえ、今はもう叶うことなどないのだけれど。あぁ、これが夢ならどんなに良いか。

 その変化は急に訪れた。
「記憶喪失、・・・ですか?」
「そうだね。しかも、おそらくは舞白くんのことだけさっぱりと」
古くから屋敷に来て3兄弟の健康維持に努めてくれている初老の医師は困ったような顔でそう告げた。
 舞白が仕事に行っている間に千羽陽が頭を強打したとかなんとかで、記憶喪失になったらしいのだが、椿や律、ヤマトのことは覚えていたし、自分のこともきちんと覚えていたので何も問題はないかと思われた。しかし、千羽陽は急いで帰ってきた舞白を見て言ったのだ。
「お前は誰だ?」
 目の前が真っ白になって、気づけば、舞白はその場に座り込んでいた。その場にいた椿がどういうことかと千羽陽に詰め寄っていたが、千羽陽は冗談を言っている風もなく、ただ、本気で舞白のことを誰かと問うていた。
 少しして騒ぎに気づいてやってきたヤマトと律によって、椿はとりあえず自室へ、舞白は医師の控え室となっていた客間へと誘導されたわけなのだが、正直、どうしていいかが分からない。
 医師の話ではおそらく一時的なもので、そのうちに戻るだろうとのことだったが、それがいつかは明言ができない。様子を見るしかないということだった。舞白は目を閉じて無意識に止めていた息をゆっくりと全て吐き出す。そして、にこりと微笑むと忙しい中を往診に来てくれた医師に礼を言って、客間を出た。医師から話を聞く間、ずっと心配そうに付き添っていてくれた律も一緒に客間を出る。
「・・・律さん」
「何かな?」
「すみませんが、しばらく兄さんのことをお願いしてもいいですか?きっと、僕がついているよりも良いと思うので」
忙しいのに仕事を増やしてしまってすみませんと付け加えれば、
「それはもちろん構わないけど」
と律が笑顔で返してくれる。いつも頼りすぎているのに、こんな時でも快く引き受けてくれる律は本当に良い人だと思う。
「少し兄さんに会ってきます。・・・状況を説明しないといけないでしょうし」
「・・・舞白くん」
「はい」
「・・・大丈夫?」
心から心配そうに訊ねる律の姿に舞白は頷く。
「・・・はい。今。一番混乱して困っているのは僕じゃなくてきっと兄さんの方ですから。なので、今日はお肉多めの夕食にしてあげてください」
そんな風に冗談めかして言って、舞白は律に頭を下げると離宮へ向かった。

 いつものように無言で入るのではなく、離宮の入り口でも一応声をかけてから中へ入る。そして、千羽陽の自室の前で足を止める。そっと呼吸を整えて、その場に膝をついて、中へと声をかける。
「失礼します。今、よろしいでしょうか」
「あぁ」
返事を受けて、再度、失礼しますと声をかけて中へ入る。
「お前は、さっきの」
「先ほどは失礼いたしました。急なことで少し驚いてしまって。・・・少しお話をしたいと思ってお邪魔させていただいたのですが、よろしいでしょうか」
戸惑った様子の千羽陽にそう言って、了承を得てから部屋の中へ入る。いつものように千羽陽の近くへ行くのではなく、千羽陽の座る場所の正面、少し離れた所に正座をする。
 普段とは全く違う訝しげな視線でこちらを見る千羽陽を少し寂しく思いながらも舞白はここへ来た目的を果たすために口を開く。
 とりあえず、千羽陽が舞白のことを忘れてしまっているとしても、舞白はここに住んでいて、店や家のことを仕切っているわけなので、自己紹介と千羽陽の弟であること、今では家と店を継いでいることについては説明しておかなければいけない。その際に不審に思うことがあれば、椿や律、ヤマトに確認してくれればよいということを付け加えておく。
「・・・最近は少し仕事の方が忙しいのであまり家にいませんし、僕の事は気にしないでください。あぁ、今、律さんが夕飯を着くってくださっているので、良かったら母屋の方で椿と一緒に食べてあげてください」
「お前は?」
「え?」
急に飛んできた問いかけに驚いていると、重ねて問われる。
「お前は食べないのか?」
「僕は、・・・まだ少し仕事が残っているのでもう一度戻ります。途中で抜けてきてしまったので」
本当に気にしないで大丈夫ですからと付け加えて、舞白は頭を下げる。
「それでは、失礼します」
そう言って、部屋を出て、襖をきちんと閉めてから、舞白は足早に離宮を後にする。

 半ば走るようにして向かった先は律の茶室の裏手。ここなら誰も来ないだろうか。その場に座り込んで目を閉じる。体の震えが止まらない。自分を抱きしめるように手を回して、歯を食いしばる。
 どうしてこうなったかなんてどうだっていい。知ったところで何かが変わるわけではないのだから。むしろ、これからどうしたらいいのか。それだけだ。
 こういう時、何に祈ったら良いのだろう。神様なんて普段信じていないから、こんな時だけ都合良く助けてなんてくれないだろう。第一に、祈る神の名前すら知らないのだから。
 お前、とそう呼ばれた。もう名前すら呼んでもらえない。でも生きている。確かにそこに存在し、息をしている。それならばもうそれでいいのかもしれない。
 1つ深呼吸をする。目を開ければ、そこにはいつも通りの風景がある。

 大丈夫。自分にできることだけをすればいい。大丈夫。ゆっくりと足に力を入れて立ち上がる。大丈夫。何も変わらない。大丈夫。大丈夫。千羽陽は確かに存在していたのだから。



 それから2週間ほどが経ち、千羽陽は相変わらず、舞白のことを思い出さないまま、しかし、以前と変わらないような生活を送っている。一方で舞白はといえば、ちょうど急がしい時期に入っていたとはいえ、異常なくらいに仕事に打ち込んでいる。2、3日に一度しか屋敷へ戻らず、戻ってきても夜遅くで翌朝早くには家を出る。明らかに屋敷にいることを避けているのが分かるのだが、そうすることで舞白が自分を保っているようにも思えて、律は声をかけそびれていた。そして、当然のようにそんな状態では舞白が千羽陽と遭遇することはなく、千羽陽の記憶にも変化は無い・・・というわけだ。
「・・・大丈夫かな、舞白くん」
朝食の準備をしながら思わずそんな言葉を呟く。
「まぁ、大丈夫じゃなさそうですよね」
律の呟きに返事をしたのはヤマト。今日は早い時間から来ていたらしい。
「早いな、今日」
「お出かけのお供なんで早出出勤なんですよ」
「なるほど」
完成して盛りつけたおかずを早速つまみ食いしようとするヤマトの手を律は素早く叩く。
「んで、りっくん先輩。どうするんです?この状況」
「どうしたもんか・・・なぁ」
とりあえず、今日は舞白に弁当でも届けにいこうかと考えながら、律は何度目になるか分からないため息をついた。



 ふと目を覚ますとそこは深い森の中だった。あぁ、また夢か。そんなことを思う。ここしばらく表へは出ていないから、何かを見るとすれば、それは夢くらいしかない。
 真っ暗な森の中を一人進んで行く。立ち止まっても良いのかも知れないが、そうしたところで何もなくて、ただじっとしているのもつまらないので奥へ奥へと進んでみる。風が吹く度にざわざわと木々が揺れる。
 よく迷子になると千羽陽が迎えに来てくれていたが、今となってはそれももうない。それならば別に帰らなくてもいいかと、先へ進む。やがて、木々の分かれ目にたどり着く。円形に木のないそこから上を見上げれば、星が見えた。月はなくて、薄暗いがその分、星はよく見える。
「月は見えない・・・か。うん。でも、星が綺麗だな」
その場に寝転がって空を見上げる。
「・・・星が、綺麗ですね」
呟いたところで返事はない。
「・・・うん。寒いなぁ・・・。すっごく、寒い」
瞳に薄く張った膜に気づかないふりをして目を閉じる。夢ならもういい加減、醒めてくれればいいのに。



 コンコン。
「はい。どうぞ」
舞白の執務室をノックするとすぐに返事が聞こえる。失礼しますと一応は声をかけて、律は中へ入る。
「あ、律さん」
「お疲れ様、舞白くん」
舞白は入ってきた律の姿を見て、捲っていた書類を机の上に置く。
「最近、家のことできていなくてすみません」
2人とも大丈夫そうですか。そう問いかける舞白の表情は、普段と変わらない。若干、目の下にうっすらとした隈が見えるが、それ以外に変わった様子はない。
「別に問題ないよ。邪魔したら悪いかとも思ったんだけど、たまにはと思って弁当を作ってきてみたんだ。気軽につまめるようなメニューにしておいたから、良かったら食べてね」
「ありがとうございます。丁度、律さんの料理が食べたいと思っていたので嬉しいです」
舞白は律の方へと歩いてきて嬉しそうに弁当を受け取る。
「忙しいみたいだね」
「少しだけ、問題が起きてしまっていて、それの対応に追われてました。もうちょっとで落ち着くとは思うんですけど」
「そっか」
「椿や兄さんの様子はどうですか?変わりはないですか?」
舞白が律に聞く。その表情は笑顔のままで、律はそこに違和感を覚えた。無理に繕ったというわけではなく自然な笑顔。
「あの・・・?」
「あ、ごめん。2人とも元気だよ。椿くんは今日、ヤマトと出かけるって言ってたかな」
「そうですか。それなら良かったです」
 あまり長居しても邪魔をしてしまうだろうと、律はあまり頑張りすぎないようにと告げて、舞白の執務室を後にした。この2週間で気持ちの整理をつけたというには、自然すぎる舞白の笑顔に戸惑いはあったが、すぐに何かができるわけでもないし、様子をみようと思いながら。

 律が部屋から出て行ったのを見送って、舞白はため息をつく。良い感じに書類を捌いていたのに邪魔が入ってしまった。受け取った弁当は机の隅に置いて、再び、書類へと意識を戻す。結局、律の弁当に舞白が手をつけることはなかった。


   

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