もうすぐ消える世界

朝起きてベッドから床に足をつける前に煙草に火をつける。肺から脳全体に煙が行き渡るまでのほんの少しの間は毎晩見る夢を思い出す。

1本目
父親に関する記憶は暴力で塗りたくられている。3歳になった頃には優秀なサンドバッグ、喋っても笑っても泣いても殴られた。それでも父親が構ってくれる事が嬉しかった。これが愛の形なのだと信じていた。殴っても殴ってもニコニコと笑う子供はさぞかし気味が悪かっただろう。それは愛じゃないと気がついたのは外で働く父親の姿を見た時だった。お父さんは笑っていた。俺がお父さんに向けるものと同じ笑顔で。その笑顔を見た瞬間に理解した。俺は愛されてなどいないしこの人を愛してなどいないのだと。

目の奥の方がね、全然笑っていなかったんだ。

「メロンパン一つ100円です。はい、いつもありがとね。」今日の日中は大学の購買でのアルバイトだ。今日も食べ物と笑顔を売る。俺の笑顔は100円です。
休憩時間は喫煙所で過ごしている。講義の時間帯は学生も居らず過ごし易い。はあ、××れた…この言葉は決して外には漏らさない。こんな言葉は煙となって空へと消えていけば良い。

2本目、3本目。

母親に関する記憶は概ね幸福である。模範的な、いやそれ以上の愛情を持って育ててくれていたと思う。父親の関わる事以外では。
父の俺への暴力に対する彼女の態度は気がつかないふりをする事だった。見ないふり、知らないふり。それでも父親がいなくなると俺の傷を手当てしながら、「ごめんね。お母さんが全部悪いの、でも悪い人じゃないの。辛いよね、ごめんね。」とまるで自分に言い聞かせる様にそう繰り返した。お母さんは悪くないよ、俺が弱いだけ。それが一番悪いんだ。だからお母さん、泣かないで。

貴女の涙が一番辛かった。

小学校ではいじめられた。何をするにも消極的でビクビクおどおどしていた俺は格好の捕食対象だったのだろう。6年間の学校生活で笑った記憶は一度も無かった。
中学には行かなかった。いや、行けなかった。朝学校に向かおうと準備はするのだけれどどうしても外に出られない。外が、他人が全部怖かった。そんな俺を父親はゴミを見る様な目で見ていた。どうして学校へ行かないんだと頬を殴られた。「お前は俺の子供だから大丈夫。」そう言って無理矢理外に放り出されては学校が終わるまでの時間を公園で過ごしていた。
母親には病院に連れて行かれた。この時に初めて鬱病と診断された。「頑張り過ぎたんだね。自分を休めてあげる事も覚えようね。」そう言われて薬を出された。やめて、俺はそんな言葉をかけられる程頑張ってなどいない。頑張っていたら学校に行けるでしょう。頑張っていたら普通の生活が送れるでしょう。頑張っていたらお父さんにも愛されるでしょう。

"全部俺が悪いんだ"

「ドンペリ頂きましたー!」夜は金で全ての物が手に入る場所で働いている。しかし例え偽りでも、一瞬でも人を笑顔にする事ができるこの仕事は好きだ。本当の事など何一つ無いこの世界は生き易かった。
ふと、訪れるこの虚しさは何なのだろう。この世界には嘘の重みに耐えきれず辞めていく人がごまんといる。誠実な人なんだな、空気の様な嘘を吐く俺にはわからないけれど。

4本目

「貴方はこの家から離れた方が良い。」
母親のその言葉もあり義務教育が終わると一人暮らしを始める事に決めた。高校には通う事、それが条件だった。何もかもわからなくなっていたが一人になれるのならもうなんでもよかった。あのまま家に居たらきっと誰かが死んでいたんじゃないかな?
同時にアルバイトもはじめた。人を学ぶにはお金という絶対的存在が発生する場所に身を置くのが一番だと思ったからだ。
初めは笑う事ができなかった。心から楽しくないと笑えない。なんて考えは職場では一切通用しなかった。"お前は何の為にここにいるんだ?笑え、心からの笑顔じゃなくたって良い。人と接する仕事に就いた以上は、仕事中は笑え。お前の心、なんてものは反映させんじゃねえ。お前の役目を理解しろ。それができないなら社会に出てくんじゃねえぞガキが。甘えんな。"
俺は笑顔を作れる様になった。笑顔を"作る"事はこんなにも簡単な事だったのか。笑顔で居るとこんなにも楽に過ごせるものなのか。例えそれが精一杯の作り笑いでも。
家に帰ると途端に笑えなくなる事が辛かった。ぎゅうぎゅうに抑え込んでいた感情はストッパーを無くすと氾濫して行き場を失った。この頃から一人で居ると消えたい、消えなきゃと常に思う様になった。俺はバイトの数を増やした。

作り笑いと共に薬の量が増えていった。

「お母さん、具合はどう?」今日は病院に来ている。
母が厄介な病気に罹ってしまったとの連絡が来たのは高校を卒業する頃だった。それが一人暮らしを始めて以来父から来たはじめての連絡だった。
もうずっと投薬治療を続けている。延命措置を本人よりも望んだのは父だった。母曰く毎日仕事終わりに顔を出すらしい。
「ねえ、こんな身体で言うのもおかしいけれど貴方は本当に大丈夫なの?無理して笑ってない?」
大丈夫。大丈夫だから心配しないで。無理なんてしていない。毎日楽しいよ。だから安心して?

5本目?
煙草を持つ手が震える。煙が酷く目に染みて涙が止まらない。笑えない。貴女の前だけでは作り笑いが上手くできない。悲しい顔をさせてしまってごめんなさい。心配をかけてごめんなさい。病気にしてしまってごめんなさい。生きていてごめんなさい。何度も死のうと思いましたが、貴女が悲しむ気がして未だ生きています。
泣きじゃくっていると人の気配を感じた。父親だった。いつからそこに居たんだろう。やめろ、そんな目で見るな。今更、可哀想だなんて思うな。誰のせいでこうなったと思っているんだ。

「お前のせいだよ。」

父親は俺の目を見てそう言った。それは何に対しての事なのかはわからないけれどいつまでも頭にこびりついた。
俺を追い詰め続けていたのはずっと自分自身だったんじゃないか?誰のせいでもない。俺の人生を決めてきたのはいつだって自分だったじゃないか。俺はどこから間違えた?解った所でもうそこに戻る事はできないけれど。
それ以来父とは会っていない。俺が避けているのは父か、現実か。

×××本目

朝起きてベッドから床に足をつける前に煙草に火をつける。

今日もまだ俺は生きている。



"君"に出会う少し前のお話。








君の前から消える日が来るまでのお話。






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