最近筋肉痛の日々が続いている。寝る前である今ですらとてつもない痛みを伴っている。無論、兄がいる前ではそんなそぶりは見せないが。だが、長年この屋敷に居座り、椿を、兄弟を見てきた家政婦の目は誤魔化せなかったらしい。
「お嬢ちゃんも、やっとやんちゃ時期がきたのねえ」
椿の部屋で優しげに顔に皺を作る、家政婦の日向。そんな日向は体力づくり1日目の夜、颯爽と椿の部屋に侵入してはこうして椿の筋肉痛のケアをしてくれている。最初は抵抗もあったが、放置した筋肉痛の末路を語られてしまい、そうもいっていられなくなり、こうしてなんだかんだで毎晩処置をしてもらっている。
「それにしても、こんな小さかったのがよう大きくなったわ」
しわしわの手で湿布を捲る手は優しそうで。この数週間以前ならそんなことすら思いもしなかっただろう思いが胸に駆け巡る。
「もう、私だって成人よ、当たり前じゃない」
「おばちゃんにとってはいつまでも子供さかい、…でも、おばちゃん最近の成長の方が嬉しいわあ」
どきり。心臓が跳ねる。日向の顔をちらりと見れば、まるでなんでもお見通しといわんばかりにまた笑うのだ。
「言っちゃ悪いが、おばちゃんはね、ずうっとみんなのこと見てきたんだ」
「みんながバラバラになるのが、悲しくて、おばちゃんもね手放しなんかできなかったの」
「でも、ようやっと。ようやっと、お嬢ちゃんが立ち上がって、舞白くんも顔の色が戻ってきて」
「それがね、ものすごおく嬉しかったのよ」
目を伏せてしみじみ言うのだ。この人は本当に長い間、それこそ兄が幼いときからずっと傍にいたのだ。見守ってくれていたのだ、その事実に胸がじんわりと熱くなりながら、ふ、と思考が息詰まる。あれ、この人なら、もしくは、と。
「ありがとう、随分と世話をかけていたのね…」
その言葉に日向もまた、目頭を拭き取る動作をしたあとにぽんぽんと椿の足を湿布の上から撫でるのだ。
「この老いぼれにゃ、それしかできんからね。本当に、おばちゃんにゃそれしかできなかった」
「いえ、十分ありがたいわ。だからその、面倒ついでのようだけれど…」
一つ、お願いがあるの。しわしわの手を大事に椿の両手で包み込んで、真っ直ぐに告げる。きっとこれが最後のピースなのだと、確信する。日向はその椿の視線にただごとではない何かを感じ取ってか、ゆっくりと呼吸をして言うのだ。
「老いぼれの最後の仕事ってわけだねえ」
「そ、そういう訳じゃないわよ…そ、それに演技の悪いこと言わないで頂戴」
頬をぷくっと膨らませてそういえば、日向は悪びれもせず謝罪を口にして、「なんだい」と優しく聞いてくれるのだ。ああ、本当に椿は何故今まで気付かなかったのか。自分の胸に問いかけたくなる、だが、それは全てが終わった後にやるべきことなのだ。今やるべきこではない。
「兄様のお話が聞きたいの、私、少しでも兄様のことを理解したいの」
「兄様、それはちはやのぼんのことかえ?」
「ええ」
なんだそんなこと、と笑いながら。これは二人だけの秘密だよ、と念を押して語られる蓋を開けられるのだ。主観は日向だけれども、それは間違いなく兄の物語。

紐を解かれ語られる物語はただひたすらの衝撃しかなかった。語り終えた日向は途中で持ってきた湯のみを静かにおいて、遠い、遠い目をするのだ。兄が椿に触れられないこと、触れられなくなった理由、そして、兄がどうしてああなってしまったか。兄が今恐らく何を考えているのか。その物語は酷く悲観的で、絶望的で、そんなモノの淵で生きていたのか、と椿を圧倒した。そして、改めて椿は兄の、ちはやの幸せの箱庭を壊そうとしていることに気付いてしまう。
「怖気づいたかい?」
日向の言葉に首を沈めてしまう。正直、怖気づいたのもある。だけれど。日向を見据えてゆっくりながら首を振る。
「いいえ、だからこそ…」
「だからこそ」
間をおく、見定めるような日向の目。その目は今まで、この数週間で幾度も遭遇してきた目。今思えばきっとその目は、個人の目ではなく世界の目であったのではないだろうか。世界が椿の運命を決めるために問いただす目。だからといって、怖気づくことはない。椿は椿のできることをするだけなのだから。
「私は兄を箱庭から引きずり出すわ」
それは誓いにも等しい宣言。もう華ではない、箱庭の華ではない。そして、椿がちはやを引っ張って護るのだ、と。そう、護る。物語を紐解かれた今だからこそ、胸を張って言おう。哀しきちはや兄様を護る、と。それはおみやマルのような物理的な防護壁ではない、精神的な防護壁になると。だけど、今のままではダメだ、と。
「…よう言い張った、それでこそやな」
乾いた拍手が響く。それは暖かく、まるで椿がやっと認められたかのように思える響き。
「もうお嬢ちゃんは大丈夫やな…だけど、無理はせんときよ」
「お嬢ちゃんの、体も心も一つや…ちはやのぼんに挑むなら尚更」
「全てを折られる覚悟をせにゃあかん、だけど、根を折られたらそれはもう取り返しがつかんのや」
一つ一つ、噛み砕くように。椿の芯にまで通すように。その雪のような言葉たちは椿という大地に染み渡っていく。
「もう1回はない、やけど、芯を折られると思ったら逃げなあかんで」
「なりふりかまわんでええ、リツの兄ちゃんやヤマトの兄ちゃんはきっと嬢ちゃんを逃がしてくれはる」
「だから、本当にダメだったら。逃げや、おばちゃんとの約束やで」
今度は日向が椿の手をきつく握って言うのだ。お願いだから、心は折れてくれるな、と。まるでそれさえ叶えば、逃げても叶わないと。何処までも優しく、ずっと兄弟を見続けた人にそんなことを言われちゃ首をふれるはずもない。だけど、負ける気も毛頭ない。
「ありがとう、本当に…今まで貴方に辛く当たってきたこと、今、本当に後悔しているわ」
震える声で、悔恨を告げればそれでも日向は優しくしてくれるのだ。どこまでも優しく母のような、きっと女性の強さはこういうのを言うのではないかとすら思う。大らかで、やさしく、だけども強い。
「ええんよ、おばちゃんもちゃんとは知らんが事情の輪郭ぐらいは知ってはる。それで責めるのは鬼の所業やろ?」
そういって椿の頭に優しく触れてくれる手。いつもは無礼だ何だと跳ね除けてきたその手は椿の知る中で一番暖かく、優しい手であった。
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