カツカツ、音が響いた。それは革靴、という舞白がたまに履いている靴の音。
「っーーーっ!!」
頬の上に生暖かいものが滴っている、汚い、汚らわしい。
「っ!!」
椿の襟首が掴まれる。なんて無礼なことをするのか、だけど、頭は靄が掛かって目を開けるのがやっと。
「…あ…」
一面の彼岸花。この間とは景観が違うけど、分かった。ということは自分の襟首を掴んでいるのは。
「あんたは、いやっ…私はっ!」
「…つ、ばき…」
渇いた喉が悲鳴を上げながら音を綴る。目の前のあの椿ははっと気付いて、ふるふると震える手で椿の襟首を握り締めていた。自分はどうしたのだろう、リツと話していた所から記憶がない。ぽやんとした頭で考える、自分はリツに酷いことを感情の思うままにまるで獣のように八つ当たりしてしまったと、でも、今の落ち着いた心の中でもリツが悪いと叫ぶ自分もいる。本当に冷静になったいまでも、だ。目の前の椿を見つめながらさらに考える、どうして泣いているのだろう、と。そのまま疑問を口にすれば目の前の椿は奥歯を噛み締めて、どうにもならないという表情をしている。それは自分だから分かる、本当に相手にイラついている表情、となると椿は目の前の椿になにかしらの悪いことをしてしまったのだろう。でも、分からない。分からないから、といかける。他の人間に聞くのは癪だが、目の前にいるのは自分自身。なら、問いかけてもいいだろう。でも、問いかけると椿はことさら悔しそうに顔をゆがめるのだ。そして、悲しそうに?怒りによって?手首をふるわせる。
「あんたは…私は、なんで気付けないのよぉ…」
泣きたいほど傷ついているのは椿のはずなのに、目の前の椿の方が椿より数十倍数百倍傷ついているように見えた。
(ねえ)
なんで?貴方の方が悲しいの?私のほうが悲しいわ、だってヤマトと報われないのだもの。どうせ、貴方はヤマトと報われたのでしょう?その言葉を弱弱しく綴れば、目の前の椿の表情が固まった。
「そう、そうなの…貴方はそういう風に解釈していたの…」
目の前の椿はゆらりと幽鬼のように立ち上がった。その瞳は温度を感じさせず、ただただ醒めていた。悲しみの冷たさも、怒りの熱さも感じさせない。その瞳はただただ醒めている。なにが起こったかわからずに上半身を起こせば、目の前の椿はゆらりと歩いて、今椿がいる位置と逆側の白い板の端まで歩き、立ち止まった。
「椿、私は貴方に真実を見せたはずよ」
椿を見下ろす椿の瞳は語る。思い出せ、と。その瞳に気圧されるようにあのてれびを映像を思い出す。なんだ、なにを思い出せといっているのだ。あたふたあたふたと記憶をまき戻す、椿が見せ付けた幸せの光景を、炎天下に微笑む強かな少女を。ああ、なりたかった姿を。
「な、なにを思い出せというのよ…」
思い出す事柄を指定されていない以上、思い出しようがない。ただただ記憶をまき戻したところで、それはただ流し見になってしまう。椿をじっと見つめれば、その醒めた瞳は音を奏でた。
「私は貴方にカンニングまでさせたわ」
かんにんぐ、それはてすとというものの答えを事前に知る反則行為、だと辞書に書かれていた。首を傾げる、かんにんぐなんて広義に受け取ればこの部屋自体がかんにんぐではないか、と。目の前の椿は一歩踏み出した。雰囲気が奏でる、もういい、という諦めの雰囲気。気圧される、自分がいったいなにを忘れたのだというのだ。そもそも意義をちゃんと指定しないのがいけないんじゃないか、反論が口を継いででない。一歩進んでこられるたびに一歩後ずさってしまう。5歩、椿の両腕が土についた時点で目の前の椿は立ち止まった。
「ねえ」
触れたら火傷してしまいそうな音。
「私は貴方に最初にあったとき」
目の前の椿の視線が椿を固定する、近づかれているのに動けない。まるで手足に杭を打たれたような、感覚。
「ヤマトと結ばれるなんて言ったかしら?」
例えるなら雷。思い至る、思い出す。自分は自分の都合のいいようにあの白昼夢を解釈していたことを。そうだ、そうだ。あのとき。
「あ…あ、うそ…」
「嘘じゃないわ、嘘なんかついていない」
幸せそうに笑っていたから、幸福そうな未来をヤマトと共にいたから。勘違いしていた、自分は自分に都合のいいように解釈していた。ヤマトと共に人生を歩め、尚且つあの少年とも仲良くすごせているのだと。そんなこと一言も言われてない、とんだ、勘違い。
「私は諦めたわ、私はヤマトに何も差し出せないもの。…ねえ、椿」
口調は穏やかに、でも瞳はこの世の裁定者といわんばかりの冷ややかさ。傲慢ではあるが無知ではない瞳が語りかける。
「貴方はヤマトに何を差し出せるかしら?」
「は…?」
ヤマトに何を差し出せる?そんなもの。
「逆じゃない、ヤマトは私のものよ、差し出すべきは私ではない」
ヤマトよ、その次の言葉を紡ごうとした瞬間。目の前の椿は目線を合わせるようにしゃがんだ、それはまるで威圧。次の言葉を紡がせないための行為。
「それが敗因よ、私たちの傲慢な敗因」
「え…?」
それが敗因、負けた原因?意味が分からない。だってそもそも、ヤマトは椿に命を捧げる契約であったじゃないか、なのに。途端、頭の中でなにか黄色い信号が点滅を繰り返す。目の前の椿は哀れみの視線を持って椿を射抜く。
「愛というのはね、基本的に等価なの」
「注げばなくなるし、注がれなくなればなくなる」
「如雨露の中の水よ、もちろん例外もあるけれど」
目の前の椿の手にはいつの間にか如雨露が握られていて彼岸花にやられるそれはどんどん無くなっていく。目の前の椿はそれを愛だという。
「違うわ…だって、私は愛を注いだことなんてない、だけど、皆は愛してくれたわ」
心のどこかで言い訳をする子供のようだ、と笑う自分がいた。でも、そんな心を無視して言葉を紡げば目の前の椿はいやに綺麗な顔で微笑んだ。
「ねえ、じゃあ、聞いてもいいかしら?」
その言葉を聴いてはいけない。
「なによ」
聞き返してはいけない。だってそれは。
「じゃあ、貴方の元に最後まで誰かが残ったかしら?」
ずうっと、見てみぬフリしてきた事柄だ。最初は椿を花よと持て囃したものも短くて数日、長くて数年で消えた。その事実は揺るがない。みんなみんな、最後には椿に飽いたのだ。だけど、過去の椿はそれを気にも留めなかった、そして、今それを考えさせられる。
「っ…」
だが、椿は考える前に反論をしなければいけない、反論をしなければそれを認めたことになる。記憶を遡って、答えを打ち出す。
「お、お父様がいたわ、お父様が死ぬまで私を…」
何処か声が震えてしまう、だってそれは最後の砦。一番最後までとっておかなければいけないカード。つまり、これを破られれば椿は目の前の椿の言の葉を認めなければいけなくなる。
「それは貴方がいくつかのルールを護る、という愛を注ぐ上で成り立っていたものよ」
きっと言葉が弾丸だったのであれば椿の右胸は血に濡れていた。頭が真っ白になる、そうだ、自分は学んだじゃないか愛の形は種類は沢山あると。自分はルールを護るという愛をもってして父に愛を注いだ、だから、父も愛してくれた。気付いてしまう、ヤマトもリツも。椿とはいわずとも椿の家から何か対価を貰っている、だから椿のことを愛してくれる。でも、それは椿自身が払っている対価ではなく。
「分かったかしら?椿個人、椿自身として私達は何も差し出せない」
「あの少年、あおたというの。彼はねその目をその体を文字通り差し出したの」
なんだそれ、体を差し出すそれを愛玩的にではなく文字通り。そんなことしたって。
「私たちの目には無意味に映るわ、でも、ヤマトにとってあおたにとってそれは愛を注ぎ受け取るという行為だったわ」
「無論それだけじゃないわ、ヤマトの心はあおたに支えられていた、きっとそれは椿という人間じゃなし得ないことよ」
「ねえ」
目の前の椿は椿に問う。それが自分たちにできるか、と。答えは無理だ、椿にとって此の体は完成している、完成した乙女でいるためにこの体は差し出せない。一部分も失えないのだ。そして、人の心を支えられるほど椿は人間として成熟しておらず。それが答え。自分たちはそんな簡単なものですらも差し出せない、支えられない、それが負けた原因なのだと。目の前で朽ちた筈の言葉の弾丸が力を持って現実味を持って椿の体を貫く。頭が理解し、指の先まで実感をさせ、涙腺を緩ませる。だが緩んだ涙腺からは滴は毀れない、滴をこぼすという機能を奪うほどのその事実は椿にとって非情だった。そんな簡単で一番難しく、誰も教えてくれなかったことで自分たちは負けたのだと。
「ねえ、簡単なことでしょう…?」
だけど、私たちには決してできないこと、音はなくとも語られる。目の前の椿の声は心なしか泣いているように聞こえた。
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