*糸遊の絆し
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 天を仰いだ。ただ、何を見る訳でもなく、顔を上げる。顔にかかっていた髪の毛がさらりと頬を撫でていく。それがどこかくすぐったくて、そっと顔を横に振った。改めて前を見る。いや、前というにはやや上方。その場所にあるのは、空。雲一つない空というわけでもなければ、曇り空というわけでもなくて。青い空にいくつかの雲が浮かんでいる。そうか、空とはこのようなものだったのか、なんてため息のひとつでもついてみれば、自分がいかに、周りを見ずに生活してきたのかを再度思い知らされるような気がした。


 思えば、この屋敷の中が自分にとっての居場所であり、この屋敷の外にある、居るべき場所は、自分であって自分ではない舞白のものだったのだと思う。
舞白。その名前は確かに自分を表すものであり、生まれてから今の今まで、そう認識をして生きてきた。しかしながら、時々思うのだ。それは今、自認している自分だけのものなのかと。求められる自分であるために、求められる自分となるために。選んだのは、求められる自分になることだった。多くの人と関わる日常で、求められる自分の姿は、相手によって大きく異なっていて、自分ではそれに成れないと思った時、無意識に自我は分裂した。
そんなことを考えているこの自分も、もしかしたら、自己分析をすべきであると求められた故の自分なのかもしれないが、多くの舞白が忙しなく入れ替わる今となってはそのようなことは些事と言える。

 自分は本来、求められなかった存在なのだと思う。そこに在るべきであったのは『当主』であり、その地位に必要とされていたのは血縁と資質。もっとも、資質に関しては後の教育に耐えうる資質であって、優秀であることは関係すらしていなかったようにも思えるが。結局のところ、空いた場所にたまたま当てはまったというだけなのだ。これが、榊の家の目的であるのだろうけれども。
 望月の家と榊の家。両方から望まれた現在の地位はおそらく、最も求められるべき自分が在る場所なのだということに疑いはない。しかし、自分がそこに在るべきなのか、もっと適役がいるのではないかということに関しては、これもまた疑いようがない。どうやったって、舞白は代用品にしかなれないのだから。

 もちろん、当主として、店主として、兄として、・・・そして弟として、わずかばかりの達成感や満足感を得ることもある。しかし、それは空虚を埋める糧とは成りえず、やがて指の隙間から零れ落ちていってしまうのだ。まるで、お前のものではないとでもいうかのように。

 なぜ、自分はここにいるのだろうか。それに対する答えはもちろん、必要とされているから。これに尽きてしまう。だから、その理由が消えてしまった時、ここにいる権利は消え失せてしまう。それもまた、ずっと感じていた事だ。


 青空の中で一際強い光を放つ太陽へと手を伸ばす。掴めないとは知っていても、無性にしてみたくなったのだ。無駄なことだからこそしてみたい。そんな矛盾した思考が巡る。目の前に伸ばした手はみっともなく小刻みに震えていて、無意識のうちにため息をつく。これだから、出来そこないなのだと。まっすぐに手を伸ばすことさえできやしないなんて。いや、もうずっとそうだったか。いつだって、本当に欲しい物へ手を伸ばす勇気なんて持ち合わせてはいなかった。


 人形が意志を持つことの愚かさを知ってはいたはずだ。それによって起こることの恐怖だって、この身には刻まれているはずだ。それでも、あの時、手を伸ばすことができなかった。もう人形に、この縋り付いている場所に、地位に、戻れないのだとしても。自分自身へではない誰かに伸ばされていると分かり切った救いの手を奪うことはできなかった。いや、そんな綺麗なものではない。自分を選んでくれないのであれば、壊してくれ、そう思ってしまったのだろう。我侭だ。ただの。
 その報いが今の自分であるというのなら、それもまた当然の帰結というやつなのだろう。

 震える手で、ハンドリムを握る。前へ、前へと力を込める。自分の足で歩くことがどんなに素晴らしい事だったかは失くしてから知った。人間は、持っているものの幸せを自覚できないというけれど、まさにこういうことを言うのかもしれない。
 後ろは振り返らない。この時間だから、誰かに見つかることもないとは思うけれど。いや、そもそも探しもしないかもしれない。もうこの屋敷には必要がないのだろうから。


 そんなことを考えていても、心はどこか正直で、我侭で、思ってしまう。呼び止めてくれる誰かが、止めてくれる誰かが、いたらいいのに、と。


 日が昇るのを横目に、ただひたすらに手を動かす。寒さで手の感覚が段々となくなっていく。そのせいか、進む速度はゆっくりだ。でも、それでも、構いやしない。どうせ急ぐものでもないのだから、さいごくらいゆったり進むのもいいかもしれない。常々、時間に追われ、役目に追われていたのだから。

 行く先はなんとなく決めていた。いつか、やたらと居心地の良い背に負われて見た海。ふわふわとした気持ちで見た朝焼けは神々しく、安心感を纏っていたけれど、今は凍てつく寒さと激しい波が在るばかり。
 あの時はきっと、幸せすぎたから。幸福の欠片が包み込んでいてくれたから。だからきっと、とても綺麗に見えたのだろう。

 見た印象は違っていても、そこは確かに選んだ場所で。思い出の中へと浸れるのなら、別に構いやしなかった。どうせ、現実などすぐに見えなくなるのだから。


 人はその人生において二度死ぬという。一度目は肉体や精神の死。二度目は記憶からの死。できることなら、二度目の死もすぐに訪れますように。そう祈るばかりだ。

 誰かの記憶の中で生きることに意味があるのかと問われれば、意味はないのだと答えたい。その記憶に縛られてしまうくらいなら、そのようなものはないに越したことはない。今、自分の中に、何人もの自分の中に大きく在って、その言動を統制していたあの人のように、誰かの心を縛る権利なんてないし、縛りたくもなかったから。できることなら、この世から消える瞬間に、自分と関わった人たちの中からも消えることができたらいいのにと思うほどだ。こんな出来そこないを覚えていたって何一つ良い事なんてないのだから。


 ハンドリムから手を離す。ブレーキをかけて、前へ倒れ込むようにして、地面へと降りる。せっかくの新品だから、一緒に連れていくのは忍びない。きっと置いて行けば、何かしらの使い道はあるだろう。着ている物はいつもと同じ袴だから、これくらいは持っていってもいいだろうか。さすがに、着衣していない状態はこれまた忍びない。
 この行動を取ることですでに、後に迷惑を残すことは重々承知なのだけれども、少しくらいそれを減らす足掻きはしておきたいところだ。

 地面に爪を立ててずるずると前へ進む。その道の端まで来て、一度止まる。なんとか腕の力で身体を起こし、その先端に座る。だらりと下された足をやや自嘲気味に見て、それならいっそ泡にでもなれたらいいのにと思う。


 あぁそういえば、今の自分を見たら彼はなんというのだろうか。今はもうあの部屋に行ってもそこに居ない彼は。呆れるだろうか、笑うだろうか、怒るだろうか。今だけは無性に彼に会いたかった。

 そして、他の誰にも会いたくはなかった。結局、自分はどこまでも汚い人間だったのだ。自分の求めるものにすら気づかない振りをした。その償いが今だというのであれば、どうか。泡なんて綺麗なものにはなれないかもしれないけれど、波間に溶けて行きたいと願う。


 そっと、手に力を込める。
これで、さいごだからと。
いつか、願ったことさえ。
ずっと、求めた物でさえ。


 身体が前へと傾く。ふらりと上半身が揺れれば、あとは重力に導かれるだけ。


 波間に消える波紋がひとつ。
 後は静寂がそこに在るだけ。
 荒れる波は勢いを増してく。
 そうすれば自然と消えいく。
 その痕跡も想いも消えいく。
 さいごの言葉さえ留まらず。





2017.12.21 HAPPY BIRTHDAY.
I feel honored to call you my counterpart.


   

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