*伝わる熱
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 腕時計で時間を確認して舞白はそっとため息をつく。上手くいけば今日でこの交渉も切り上げられるだろうかと思っていたのだが、その認識は甘かったようだ。手元の資料をそれとなく纏めて、困ったような笑みを浮かべて提案する。
「そろそろ時間も時間ですし、ここから先の話はまた次の機会でいかがでしょうか」
「あぁ、これはすみません。もうこんな時間になっていたのですね。長い時間お付き合いさせてしまいまして、随分とお疲れでしょう。えぇ、ぜひ、また詳しい話をさせていただきたい」
困ったような顔というのは汎用性が高い。人はその顔に理由をつけたがるから。どうしてその顔をしているのだろう。そう考えた上で自分を反映させた答えや、相手の状況に合わせた答えを導き出す。この場合はきっと相手も疲れていたというところだろうか。
「いえ。こちらこそお時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。もう少し検討を重ねてみたいと思います」
あるかどうか分からない次回の話でもう一花咲かせたら、あとはすんなりとその場を後にする。次の話が始まってしまったらせっかくの機会を逃してしまう。
 深く頭を下げて部屋を出る。秘書の男性に案内されてビルの入り口へ向かえば、そこには律の姿があった。屋敷の中で見慣れたラフな格好ではなくて、スーツ姿だ。
「律さん」
「お疲れ様でした」
にこりと笑う律は仕事用の笑顔と言葉遣いで応える。男性にもう一度礼を言って外へ出ると、そこには見慣れた車が停まっていた。律が開けてくれたドアから後部座席に乗り込めば、律はそっとドアを閉めて運転席へ向かう。
 車が走り出して少しすると律が言う。
「お疲れ様。随分と長引いてたみたいだったけど大丈夫だった?」
「はい。お待たせしてしまってすみませんでした」
「俺は下のカフェで休憩してただけだから」
バックミラー越しににこりと笑う律と目があう。舞白はその優しさに
「ありがとうございます」
と笑顔で言った。
 今回は大きな取引を控えての交渉という形で、舞白と律は泊まりがけで出張に来ている。今までにも泊まりがけで出張に出ることはあったし、舞白は今回もいつもと同じ秘書や運転手と共に行くことを考えていたのだが、予定がいくつか重なってしまったため、その対応に人員を割かなければいけないという事態になった。それならば1人で行くといった舞白に律が言ったのだ。たまには元々の仕事もさせて、と。
 普段、千羽陽の面倒を見たり、三兄弟の食事を作ったりと何かと世話を焼いてくれている律だが、元々の仕事は舞白の父・・・陽水の傍にいた頃から変わらず、当主の護衛というものだ。陽水が死去した後は家を舞白が継いでいるため、本来ならば、舞白と行動を共にしてその身を守る・・・ということが本業であるのだが、どうしても最近は、より手のかかる長兄の世話が本業になりつつある。
 そんなわけで久々に律と舞白で出かけているというわけだった。
「この時間だと、今から戻るのはあれだから、もう一泊するので大丈夫かな?」
「はい。明日も予備日としてとってありますから、それで問題ないです。・・・あ、でも律さんは大丈夫ですか?」
「元々、そうなるだろうとは思ってたから大丈夫だよ。色々と家のことは心配だろうけど、この時間から帰って余計な心配もかけたくないところだしね」
「ありがとうございます」
元々は一泊の予定だった出張は先ほどの交渉が長引いたせいで、もう一泊することになりそうだが、元よりホテルではなくて別荘を使っているので、千羽陽や椿の事は心配だが、宿に関しては問題ない。
 今では一年に一度使われるかどうかという別荘だが、管理人に任せてあるので、いつでも快適に保たれている。
「それじゃあ、おやすみ。舞白くん」
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい、律さん」
中に入ったところでそんな会話を交わして舞白と律はそれぞれの使う部屋へと向かう。
客人を招くという役割を持っていることから、この別荘の客間は各部屋にバスルームがある。普段暮らしている屋敷とは違って洋風ということもあってどこか慣れないが、それでも何回も来ているから使い勝手は悪くない。
 舞白はささっと風呂に入ると屋敷で着るものとは違うラフなルームウェアに着替える。寝間着というと浴衣という固定観念が強かったのだが、持ち運ぶことを考えると出先ではこちらの方が楽なのだ。濡れた髪はとりあえず軽く纏めてバスタオルを巻いて固定しておく。頭が重くなるが、せっかく拭いた体が濡れてしまうよりは良い。カーペットの上を裸足で歩いて行ってソファーに腰をかけて、スマートフォンを手に取る。
 時間が時間だから屋敷に連絡を入れるのは明日にした方が良いだろうか。・・・と思ったところで、ふと舞白の頭を記憶が過ぎる。前に同じような状況になった時、連絡を翌朝にしようと思ってそのまま寝て、起きたらスマートフォンの着信履歴が屋敷からのものでいっぱいになっていたということがあったのだ。その時、昔からずっといる使用人の一人に、大抵は誰かしらが起きているから遅くなっても連絡はしてほしいと言われた。つまり、こんな時間ではあるが連絡はすべきということになる。
 舞白は躊躇いがちにスマートフォンを操作して、屋敷の番号を呼び出す。発信ボタンを押せばすぐにコール音が鳴る。
「もしもし?・・・うん。こんな時間にすみません。さっき別荘の方に着いて。・・・そうですね、今日はもう一泊こっちに泊まってからそっちに」
すぐに電話が繋がり、聞き慣れた使用人の声に少しほっとしながら報告をする。
「・・・ありがとう。兄さんや椿は変わりないです?・・・あ、え?分かりました」
労いの言葉に小さく笑って千羽陽と椿の近況を聞けば、変わりないことが告げられ、それから転送することを告げられる。曰く、千羽陽から舞白の連絡があった場合には離宮へ転送しろという指示があったらしい。
 保留音に耳をすませる。そわそわとどこか落ち着かない。
『・・・舞白』
保留音が途絶えた直後、千羽陽の声がした。
「・・・はい、兄さん」
スマートフォンを今まで以上に強く耳に押しつける。音を一つも聞き逃さないように。自分の呼吸音や胸の鼓動音さえもうるさいと思ってしまうくらいだ。
『仕事は終わったか』
「はい。でも遅くなってしまったので、明日には帰ります。あ、もう今日、ですね」
『そうか』
「兄さんは変わったことなどないですか?」
『あぁ。・・・ただ静か、だな』
「・・・そうですか」
静かというその一言で傍に必要とされている気がして少し嬉しくなる。
「すぐに、帰りますから」
『あぁ』
「あまり夜更かしせずに休んでくださいね」
返事はなかったが、電話の向こうで小さく笑う声がする。
『舞白』
「はい」
『舞白』
「・・・はい、兄さん。もう少しだけ待っててくださいね」
それから二言三言交わして名残惜しさを感じながら、電話を切った。
 舞白は耳から離したスマートフォンをそのままぎゅっと抱きしめる。そして、千羽陽の呼ぶ声を忘れないうちにと急いで支度をしてベッドに入った。


 

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