*闇路
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 使用人から千羽陽が呼んでいるらしいことを聞いて、舞白は開いていた本に栞を挟んで机の上に置くと、自室を出た。確か、離宮の方には今日、客人が来ているはずだ。それが誰なのか、どのような用件なのかを千羽陽が話さなかったから、舞白は知らないが。その辺の使用人に聞けば分かったのかもしれないが、千羽陽が話さないことに関してわざわざ詮索する必要もないだろう。
 中庭の生い茂った木々を避けながら、歩みを進める。この辺も本当ならば庭師を入れるべきなのだろうが、千羽陽が良しとしないのでそのままだ。この家の当主は舞白だが、最終的な決定権を持つのはどちらかといえば、千羽陽の方だ。それ故に、当主としての舞白の判断基準は、基本的に千羽陽がどう考えるか、千羽陽や椿に害がないかという所に帰結する。
 離宮の入り口から中へ入り、廊下を進む。状況から察するに客間だろうか。襖の前に膝をついて、中へ向けて声をかける。
「兄さん。舞白です。入ってもよろしいでしょうか」
返事の変わりに聞こえるのは、何やら物騒な音。どうすべきか迷ったが、おそらくこれでは自分の声は聞こえていないだろうと判断して、舞白はもう一度、今度は
「失礼します」
とだけ声をかけて襖を開く。それと同時に飛んできた何かが舞白の顔のすぐ横を通り過ぎて、廊下の壁にぶつかり、派手な音を立てる。
 あぁ、またか。そんな思いが舞白の頭をよぎる。ちらりと視線をやれば、割れてしまった一升瓶が散らばっている。中身は飲んでしまったようで、水分はないから、片付けは後でも良いだろう。そう判断して、部屋の中へと視線を戻す。
 畳に這いつくばるそれなりに高級なスーツを身に纏った男性と、その男性の頭を踏みつけている千羽陽の姿を確認する。男性の方が今日の客人だろうか。どこか見覚えがあるような気もするが、何せぼこぼこに腫れてしまった顔では、彼が誰なのかなんていう判別がつくはずもない。
「・・・舞白か」
「はい」
名前を呼ばれたので、千羽陽の方に顔を向けて返事を返す。こういう時の千羽陽は余計な会話を好まないので、返事をするだけだ。
「ここを片付けて、奥へこい」
舞白が来たことで、男性への興味を無くしたらしい千羽陽がそう言い置いて、部屋を出て行く。
「分かりました」
千羽陽の姿が見えなくなってしまう前に素早く返事だけしておく。舞白が姿を見せてからというもの、男性は助けを求めているのか、何なのか、ずっと喋り続けている。しかし、その声は舞白の耳には届かない。いや、届いてはいるのだが、舞白がそれを認識していないというべきか。残念ながら、ここは離宮だ。母屋ならばともかく、ここでは相手が客人であろうとも優先されるのは主である千羽陽となる。その上、人を招くなんてことをしない千羽陽なので、ここへ入ることを許されたということは、よほど彼の逆鱗に触れたということか。おそらく椿に何らかのちょっかいをかけたのだろう。千羽陽が感情を露わにする時、その要因はたいていが椿なのだ。
 そんな思考が頭の隅を流れていくのをどこかで感知しながら、舞白は、目を開けてゆっくりと立ち上がる。そして、廊下の先をのぞき込んで、入り口の辺りで待っていたらしい使用人に声をかける。念のためと思って、待たせておいて良かった。
 それなりの年数、ここで務めている使用人に、部屋と廊下の片付け、それから客人にお帰り頂くようにと指示を出す。血の染みこんでしまった畳は仕方ないので、新しい物を頼んで欲しいことも言っておく。
「何かあったら、いつも通りに対処をお願い」
申し訳なさそうな顔で頼めば、使用人は真剣な顔で返してくる。
「かしこまりました」
そんなやりとりをして、舞白は廊下を奥へ進む。
 向かう先は千羽陽の自室。先ほどのように、襖の前で膝をついて、声をかける。
「兄さん。舞白です。遅くなりました」
「入れ」
今度はきちんと返事が返ってきたことに少し安心して、失礼しますと襖を開けて、中へ入る。襖を静かにきっちりと閉めて、千羽陽の傍へ歩いて行く。そして、少し離れた定位置に正座をする。
千羽陽は新しく出してきたらしい酒瓶を呷る。舞白はその手に小さな傷があるのを見つけた。先ほどの一件でできたものだろうか。
「兄さん。手に傷が。・・・救急箱を取ってきますね」
そう言って立ち上がろうとする舞白を千羽陽が止める。
「このくらい放っておけば治る」
「そう、ですか?」
心配そうに千羽陽を見る舞白をちらりと見て、
「それよりももっと近くに来い」
空いた手で手招きをする。舞白は少し迷った様子を見せるが、すぐに千羽陽の方へやってきた。そんな舞白の手を引っ張って、強引に引き寄せる。案の定、バランスを崩した舞白がつんのめるようにして、千羽陽の膝の上に落ちてくる。
「余計なことは考えなくて良い。あれは、お前には関係のない、考える必要すらないものだ」
下を向いている状態の舞白の耳元で囁く。ゆっくりとこちらを見上げる瞳に仄暗い光が宿されたのを見て、千羽陽は満足そうに口元を歪めた。


 

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