*舞い落ちる
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 昔は無邪気に笑えたような気がする。昔という言葉を使うには若輩者かもしれないが、それでも僕にとっては昔。その頃は、自分というものが確立していたような気もする。いつからそうなったのか、あるいはずっと前からそうだったのか知らないが、今の僕は空虚な鏡でしかない。
 ふと目を開けると、そこに広がるのは本に囲まれた部屋。天窓から射し込む日の光に目を細める。重い頭を軽く振って、目を閉じる前のことを思い出すが、ぼんやりとしか浮かばない。途切れ途切れのそれらを寄せ集めて、なんとか仕事をやりきったようだということを悟る。
「今日はお休み・・・」
小さく呟いたはずの声が静かな空間では思いの外響く。居心地の良いこの空間の中では自分を肯定できるような気がしてほっとする。仕事のない日は食事の用意を頼んでいないから、時間を気にする必要はない。・・・というよりも、仕事のある日はきっと『自分』以外の誰かが担当しているだろうから、そもそもこうして目を覚ましているはずがないのだが。とりあえず何もする気になれず、ただ空っぽなままに切り取られた空を見上げた。

 父は厳格な人だった。舞白を『跡継ぎ』と定義し、あらゆる知識と役目を与えた。それらすべては、この家を、店を守り、父の宝物を守るための技術だった。教育は厳しかったし、失敗すると庭に向かう柱にくくりつけられ、雪の降る中、何時間も放置されていた。殴られたことも、舞白の分だけ食事が用意されていなかったこともあった。そういう時、決まって父は弟を甘やかした。まるで舞白が失敗した分の不機嫌を弟の愛らしさで補うかのように。最初はそれを見る度に心が痛んでいたような気もする。しかし、人間は慣れる生き物だ。
 いつしかその痛みにも慣れ、仕置きを受けることも日常となり、気づいたら『舞白』という人間の中身はなくなっていた。空っぽなまま、周りに求められるがままに踊る道化。それが『舞白』という存在だ。

 兄は自由気ままな性格をしている。舞白を『哀れで可愛い弟』と定義し、空虚な心を求める。無気力に呼吸という生命活動を繰り返す、ただの人形のような舞白を愛しているとさえ言う。その兄の視線は、父と同じく弟にしか向いていない。兄弟の中で一番父に似た兄は中身も父に似たのだろうか。
 何も求めない兄だからこそ、彼の前では何かが生まれるような気がする。しかし、それが成立してはいけないものであることも理解している。なぜなら、何もない空虚な状況でなければ、舞白は成立しないから。

 弟は愛されている。故に守られなければ生きていけない。舞白はこの弟を守るために作られたと言っても過言ではないのではないかと思う。父の愛を受け、兄の視線を集める。いつでも中心にいるような存在である。
 別に舞白はこの弟が嫌いでは無かった。この弟がいなければ、今の舞白が違った形で存在していたかもしれないが、そんなものは所詮、想像の域を出ない。愛されれば、その分だけ愛嬌を振りまこうともがく弟を舞白は気に入っている。

 ゆっくりと起き上がれば目の前には所狭しと本が並べられた本棚。その中から舞白は1冊の本を取り出す。何度も読んでいるその本のとあるページを開き、文章を指でなぞる。
『人は、たいていのことには慣れてしまうものだという』
『どんな劣悪な環境でも、虐げられた人間関係でも、慣れてしまえば我慢できるものだと』
『悲しみも怒りも、時と共に自分の一部になり、そして色あせる』
『慣れと忘却は、人にとって生きてゆくために必要な福音なのかも知れない』
しかし、そうやって忘れて自分と自分の狭間へ落ちていった記憶は、感情は、果たして本当にいらないものだったのか。何度も何度も考えたところで、答えを出す前に記憶が途切れる。それは自己防衛本能というやつの仕業か。もしそうなら、こんな歪な形でも舞白が成立している裏打ちになるのに。

厳格な父も自由な兄も箱入り弟も、結局は舞白を必要としていた。
頑固な父もバカな兄も愚図な弟も、舞白がいないと何もできない。

――貴方は誰を僕に重ねていますか。どんな舞白を求めていますか。


   

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