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「お兄様!花火をしましょう!」
すぱーん!と勢いよく襖を開けたのはきらきらとした笑顔でそう告げる椿。と着物がはだけた状態で千羽陽に弄ばれている舞白を見て、引き攣った苦笑を浮かべたやまとだ。
「つ、椿…部屋に入る時はノックをしないと…」
「襖はノックしないわよ?」
舞白が何でもないような態度を心掛けながら慌てて服を直していれば、椿からそんな指摘を受けた。
…半裸で固まっている兄さんほどではないにしろ、僕も存外動揺しているらしい。最中でなくて良かったと、心の底から思う。
「りつや九十九も誘って、皆で色んな花火をしましょうよ」
明らかに一般的ではなかった千羽陽達の姿が見えていなかったと言われれば納得してしまう程、椿はいつもと変わらぬ様子で楽しげに花火の話を進めていく。
あまりにもいつも通りな椿の様子に舞白も千羽陽も困惑したまま、それでも兄としての意識か−もう随分と遅い気もするが−証拠の隠滅を図るように乱れている場を整えていく。
「ね?いいでしょ?」
可愛らしく小首を傾げおねだりをする椿に駄目だと言える者はこの場にはいなかった。
「きゃっ!?や、やまと、これは何!?」
「ねずみ花火ですね。椿嬢、危ないので暫くこの状態で眺めていてください」
「おい小僧。どさくさに紛れて椿を抱くな」
「椿嬢が怪我してもいいんですか」
「いいわけないだろうが」
「九十九は花火しないの?」
「兄さんがされるのであれば私も」
「2人共せっかくなんだから遊んで来ればいいのに」
「りつさん…すいません、お夜食まで用意していただいて…」
「好きでしてるだけだから気にしないで。揚げ出し豆腐もあるから食べてくれる?」
「マル、これ綺麗」
「うん、きれーだね!(オミちゃんのが綺麗だけど!!)」
花火や酒盛りを楽しみ終わった頃にはすっかり夜も更けていた。
はしゃぎつかれたのかオミマルは縁側で丸まって眠っており、椿はやまとの腕の中でうとうとと微睡みに身を委ねている。
「遅くまでありがとうございました」
「りつ、つまみを作れ」
「あんたは椿ちゃん達を見習って大人しく寝ろよ」
幾らか漫談のような会話を交わし、椿はやまとが、オミマルは千羽陽が運ぶという話になりその場は解散となった。
翌朝、椿が目を覚ますと見慣れた自室に寝かされていた。
あのままやまとに運ばれたのかと1人納得しながら身体を起こす。座ったまま全身に軽く力を入れて一度伸びをすると腕に赤が見えた。
「虫に刺されたのかしら」
椿の肌に赤い印を刻む者はもういないのだから。
朝食を食べ終えた椿は自室で1人寛いでいた。腕にちくりと小さな痛みを感じた。
虫に噛まれたのであろう赤がいつの間にか芯を持って固くなっている。
「肌が弱いのも困りものね…」
痒みは感じていたが掻いてはいない。なのにもう芯を持つなんて、なんて迷惑なのだろう。
痕にならないように薬を塗ってガーゼでも貼っておこうかしら。
「食べ過ぎたわね…」
いつも通りりつが作った夕飯を食べ終わり自室で寛いでいた椿が溜め息交じりに呟く。満たされた胃が張りつめて食後特有の苦しさと倦怠感を与えてくる。
そういえば、と思い出したように袖を捲り、朝に貼った絆創膏を剥がそうと手をかけた。が何かがおかしい。
ペリリ、と絆創膏を剥がすと白いガーゼが黄色く染まっていた。
反射的に患部へと目をやると赤く芯を持っていただけのソレの周囲は紫に染まり腫れ上がり、ソレは皮膚が捲れ白と黄色の液体を垂れ流していた。
「やっ…!?」
初めて椿の身体に出来たソレに対して否応なく生まれた恐怖と嫌悪に、椿は思わず小さな悲鳴を漏らした。
「椿嬢!?ご無事ですか!?」
椿の小さな悲鳴が聞こえたらしく、部屋の前に立っていたやまとが慌てて部屋へと入る。
「あ…む、虫がいたの、大きな…」
椿はやまとに見られぬよう反射的に、しかし自然に腕のソレを隠すと、適当な所を指差して嘘を吐いた。
やまとは一層白くなっている椿の顔を見て余程怖かったのだろうと、いるはずのない虫を駆除する為に急いで探し始める。
「…申し訳ありません、姿が見当たらないので今夜は別室でお休みいただけますか?明日の朝には必ず駆除しますから」
やまとは座ったままの椿の目線に合わせる為に跪くと申し訳なさそうにそう言った。
「…ええ、そうするわ。悪いわね」
「いえ、此方こそ申し訳ありません。失礼致します」
顔色悪く座り込んでいる椿を気遣い、やまとは慣れた手つきで椿の膝裏へと手を回して抱き上げた。
客間へと運ばれた椿は何故かやまとに添い寝をされていた。
「…あの、やまと?」
「はい?」
「これはどういう状況かしら?」
「椿嬢が眠るまでお傍に居ようかと」
困惑する椿など知らぬ顔でー寧ろ楽しんでいるようにも見えるーにっこりと笑うやまと。
「…貴方にはやらなければいけない仕事があるでしょう」
「そうですね。では添い寝はまたの機会に」
腕の状態を知られたくないと名残惜しさを感じながらも拒否する椿に従うように立ち上がるやまとは、相も変わらず語尾にハートマークでも付いていそうな軽薄具合である。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
痒い。痒い。痒い痒い痒い痒い、熱い。
熱い、痒い、痛い、痛い。
痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い熱い。
単純で乱雑な思考に溺れて腕のソレをただ只管に掻き毟っていた。
薄皮が剥がれ、赤い線を描き、整えられた爪が皮膚を突き破る。
嗚呼、もう、私は何をしているのかしら。
赤と白と黄ばんだ液体で汚れた指を漠然とした気持ちで見詰めるしかない。私は何をしているのかしら。
それ以来、椿は1人自室に引き籠るようになった。
痒い。痛い。痒い痛い痒い痒い。
熱い、痒い、痛い、痛い。
痛い熱い痛い痛い痒い痒い痛い熱い。
単純で乱雑な思考に溺れて足のソレをただ只管に掻き毟る。
掻いて硬くなった皮膚がまた剥がれ、赤と白の線を描き、整えられた爪が皮膚を突き破る。
嗚呼、また、私は何をしているのかしら。
赤と白と黄ばんだ液体で汚れた指を呆然と見詰めるしかない。
「…気持ち悪い」
椿はソレへ爪を立てる。ぐ…と力を込めれば更に汚れていく。椿の頬を一筋の汗が伝った。
歯を食いしばり声を殺し、更に先へと進めば激痛が椿を襲った。
「くだ、らない」
たった一つ取り除いたところで何も変わりはしないのに。
ふと、椿は顔の違和感に気付く。鏡は見ない。鏡は全て壊してしまった。
無意識に震える指でそっと、そっと、頬に触れてみる。
くちゅん。
ぞわり、全身の毛が逆立つ。
どろり、殺意にも似た嫌悪感に襲われる。
あぁ、とうとう顔にまで広がってしまったのね。
ぼとり。落ちる音がした。
「こんな醜い姿じゃ誰も愛してくれないわ」
ぼとり。椿の落ちる音がした。
椿は小棚の引き出しを開け、以前千羽陽からくすねていた酒瓶へと手を伸ばす。
酒瓶から流れ出る液体は椿へと降る。降る。ゆっくりと染み渡っていく。
椿の身体は膿み、爛れ、醜いというのに、その姿はまるで天女の水浴びのような、美しき絵画のような、倒錯的な美を感じさせる。
椿に降り、空になった瓶は投げ捨てられた。すっと手を伸ばした先にはお気に入りのジッポ。
小さな音を奏で浮かび上がるは揺らめく光。真っ赤な淀んだ瞳は清らかな光を映しだす。
椿は光と濡れた袖とを触れ合わせた。ちり、という音を立てて光が袖を侵食し椿へと迫っていく。
椿の堕ちる音がした。
自然に上がる口端。歪な笑み。
涙は流れない。涙は見せない。
「美しくいられないのなら、死んでいるのと同じよ」
ゆらゆらと、あたたかい光-冷たい世界-に包まれる。
「…ずっと、貴方が羨ましかった」
ぽつり。誰に向けた言葉なのか、空気を震わせる言の葉は誰にも届かない。
椿の落ちる音がした。