(不協和音)
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少し前から違和感はあった。でもそれは誰だって経験したことがあるような、そんな物忘れ程度のもので、まさか何かの病だったなんて思いもしなかった。



初めは小さなことだった。物を置き忘れる程度の、今までにも経験したことのあるような小さな物忘れ。けれど次第にその回数も増えていき、そのうち食事をしたことや人の名前、思い出まで忘れてしまうようになった。
ゆっくりと、けれど確実に私の中にあるものが消えていく感覚に、知っているはずのことを知らないという事実に、恐怖と得体のしれない気持ち悪さが私の心を蝕んでいく。
今日が終わればまた私の中から何か消えているかもしれない。そう思うだけで怖くて夜も眠れなくなってしまった。
それでも、眠らなければ生きられないことも、明日が来ることも変えようのない事実で、毎日1人きり夜空を見上げながらこれ以上私の中から消えてしまわぬよう過去を振り返ることが習慣となっていた。

「椿、起きてるかな?」

こんな時間に舞白兄様が私の元に来るなんて珍しいこともあるものね。
入室を促す言葉を返せば舞白兄様がお茶とお菓子を持って入ってきた。

「最近あまり眠れていないみたいだね。何かあったの?」

いつものように兄の微笑みを浮かべながら気遣う言葉をかけてくれる。
…いつかこの笑みも忘れてしまうのかしら。

「大丈夫よ。昼寝の心地よさに気付いてしまっただけだから」

私の中の異変は、まだ誰にも話していない。話す気もない。

「昼寝もいいけど、ちゃんと夜に寝ないと身体に悪いよ?」

いつものように苦笑を浮かべて優しく注意する舞白兄様。それでも眠れないものは仕方がないわ。

「大丈夫よ。それより舞白兄様こそちゃんと休まないとまた倒れるわよ」
「そうだね。僕も気を付けないと、また皆に迷惑をかけてしまうね」

同意はしてくれるけれど舞白兄様の気を付けるは当てにならないのよね…わかりきっていたことだし話を変えることが目的だったから今はいいけれど。

「ねぇ、舞白兄様。眠らないのなら昔話でもしない?」
「珍しいね、椿がそんなことを言うなんて。いつのことを話そうか?」
「そうね、私がまだ幼い頃がいいわ。昔の千羽陽兄様はまだ可愛かったのでしょう?」

悪戯な笑みを浮かべてそう言えば、舞白兄様もクスクスと笑って幼い頃のことを話し出した。時々切なそうな表情をしていたけれど、楽しそうに話しながら明け方まで私に付き合ってくれた。

「もうこんな時間か…ついたくさん話してしまったね」

一日の始まりを告げる光が窓から差し込み部屋に明かりを灯す。舞白兄様は眩しそうに太陽を見ると1つ大きな欠伸をした。

「色々な話が聞けて楽しかったわ。ありがとう舞白兄様」
「どういたしまして。僕も楽しかったよ」

舞白兄様はにこりと笑って私の頭を撫でると「そろそろ僕は寝ようかな。椿もおやすみ」と言って眠そうな表情をして出ていった。
確かに眠い。けれどやまとが来ないことには眠れない。

「今日はいつ頃来るのかしら…」

また忘れても大丈夫なようにと机の引き出しに入れてあるやまとの勤務表を手に取った。
あら…?今日はやまとは休みなのね…
このままでは眠れない。どうしたものかと考えていれば1つの答えに辿り着いた。
その答えを実行に移すためにすぐさま立ち上がる。


行き着いたのは気持ちよさそうに寝こけているであろう兄の部屋だ。
舞白兄様は眠りの邪魔をしてはいけないと選択肢から外したので結果的に千羽陽兄様しかいなかったのだ。
この時間はまだ眠っている筈なので意味をなさない断りはいれずに襖を開ける。
真っ先に届くアルコールのにおいに眉を顰める。布団の周りに転がっている酒瓶の数々にまた飲んだくれたのかと、溜め息しか出ない。
換気の為に外へと接している襖を開けてそのまま千羽陽兄様の布団へと潜り込んだ。やはり千羽陽兄様からもアルコールのにおいがする所為で若干不快ではあるけれど、1人で眠るよりは遥かにましだと妥協するしかない。

―目覚めたら混乱するであろう千羽陽の姿は睡魔に襲われている椿の脳裏を過ることもなかった。


――
「椿、大きな声を出したり突然抱き付いたりはやめてね…兄さんの心臓が止まってしまうかもしれない」
「コイツ恨まれて当然じゃん…下手に友情劇とか持ってこられんの腹立つわ。全員早くハラワタブチまけてとり殺されればいいのに…」




ぱちり、とふいに目を覚ませば何か夢を見ていた気がして、まだ靄のかかった頭で必死に思い出す。
…あれは珍しく皆で映画を見た時の?
普段であれはホラーなどという意味のわからない恐怖映像など思い出しても気分を損ねるだけだが、今はそれすら思い出せることが嬉しいと感じる。家族との思い出であれば尚更だ。
自然と緩んだ頬は至近距離から聞こえる呼吸音を発生させている人物のおかげで自然と引き締まった。そう、汗だくで浅い呼吸を繰り返しながら瞳孔が開いたまま固まっている愚兄の所為で。

「……愚兄、気持ちが悪いわ」

思わず言葉を失ってしまった。確かに私に触れられると怯えたり奇行に走ることが少なくない愚兄だけれど、まさかここまで気持ちの悪い状態になっているだなんて誰が想像するというのか。

「…椿、はやく、離れ」

掠れた、今にも死にそうな声で懇願する愚兄。
…いつの間に抱き付いていたのかしら?離れることなくぎゅっと抱きしめてみると面白いくらい大きく身体を跳ねさせ呼吸を詰まらせる愚兄に情けなさしか感じないわ…。

「椿はまだ千羽陽兄様と寝ていたいわ」

本来ならやまとと寝ればいいのだけど、今日は来ないのだから暇な千羽陽兄様に回ってくるのは仕方のないことよね。
最早死んでしまうのではないかと思う程情けない姿を晒している千羽陽兄様は無視して瞳を閉じる。また皆の夢を見られるように、目覚めても何も忘れていないように、小さな祈りを捧げながらもう一度眠りについた。


目覚めると千羽陽兄様が消えていた。

「…兄様?」

あの状態で1人で私から離れられると思っていなかっただけに傍に居ないことが意外だった。りつにでも助けてもらったのかしら?
もう充分に眠れたし、ご飯を貰いに行こうかしら…
ぐうーと空腹を訴える腹部をさすりながらぺたぺたと台所へと向かった。


「あら?兄様」

台所には私の声を聴くなりびくり、と肩を震わせる千羽陽兄様とそれを呆れたように見るりつが居た。
やっぱりりつに助けてもらったのね。

「りつ、お腹が空いたわ」
「何が食べたい?」
「オムライス」
「わかった。ちょっと待っててね」

早速調理にかかったりつを眺めながら、こそこそと逃げようとする千羽陽兄様目掛けて近くにあったお盆を投げつけた。

「ごふっ!?」
「椿ちゃん!?」
「愚兄、椿は珈琲ゼリーが食べたいわ」

今すぐに買ってこい。という意味を込めて発した言葉をしっかりと理解した千羽陽兄様は了承の返事をして出ていった。
勝手に逃げた罰よ。



そんなやりとりが、私がまだまともでいられた最後の時だった。





ずっと隠していたのか、急に発病したのか、ある日椿が変わってしまった。
俺は今日も重い気持ちを抱えながら椿の部屋の襖を開ける。

「おかえりなさい、お父様」

いつもと変わらない、筈だったある日、俺は椿に「お父様」と呼ばれた。
子供-椿-らしくない、昔椿と父親の関係を告げられた時のような歪な笑顔を浮かべて。

「ねぇ、お父様。今日は何のお話をしてくれるの?」

俺を「お父様」と呼ぶ日の椿は終始笑顔でいる。
お父様、お父様、と愛らしい声で俺を呼ぶ。淀んだ瞳で俺を見る。歪な笑みを張り付け、艶やかな仕草で俺を、「お父様」をもてなす様は男を惑わす女のそれだ。
…幼い椿をそう躾けたあの男の悪趣味加減に毎度のことながら吐き気を覚える。

「…お父様?どうしたの?」

…しまった。俺としたことが今の椿の前で黙り込むなどという愚行を犯すとは。

「いや、なんでもない。そうだな…今日は…」

「お父様」といる椿は女そのものだ。俺を「お父様」と呼び始めた頃は俺が椿の部屋を訪ねる度に情交を求められた。いや、そうであることが自然だというように「お父様」に身体を開こうとしていた。
まさかこの俺が椿からの誘いを必死に躱し諭すことになるとは誰が想像しただろうか。
血の滲むような説得のおかげで椿から誘うことは少なくなったが、俺-お父様-が黙り込んだり機嫌が悪いと必ずその身を差し出そうとしてくる。「お父様」になっている今だからこそあの男が椿にどのように接していたか、その片鱗が兄としての俺に突き刺さる。

「…お兄様?変な顔してどうしたの?」
「…椿、何かしたいことや欲しいものはあるか?」

偶に何の前触れもなく、唐突に、元の椿に戻ることがある。俺はその度に、椿に同じことを問い掛ける。何かしてやりたい、その一心で。だがそれも結局は何もできない自分を慰めたいだけなのだろう。

「別に、何もいらないわ」

椿はその度、少し考える素振りを見せ、同じ答えを返してくる。

「それより、最近舞白兄様を見ていないけどそんなにお忙しいの?」
「…ああ。今少し立て込んでいてな。落ち着いたら会いに来るだろう」
「そう…」

椿は寂しそうな表情で小さく息を吐く。

どうやら今朝のことも忘れてしまったらしい。


 

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