ぱしん、と僕の荒い息が響く中、渇いた音がなった。
本当に軽く、優しい手つきだったけれど、頬を叩かれたのだ。
それは少し予想外で、ぽかん、と安原を見上げた。
瞬間、今までぼんやりしていた頭が、火照っていた身体がさあっと冷めたのがわかった。
──僕はいま、彼に、
(全てを許そう、と──)
その時点で自分は薬に負けていたのだと、そこまで気づいて今度は羞恥に瞳が潤んだ。
もちろん、薬だって抜けていないから身体は熱いままだし、息だって乱れたままだったけれど、僕に理性が戻ったことがわかったのか、安原が苦笑するのが見えた。
「…どいてもらえます?」
それがなんだか悔しくて、未だ馬乗り状態だった安原を睨み上げれば、かわいいと呟かれた。
かわいくない、かわいいはずがない。恥ずかしい。
いつも変態、変態と罵っていた安原ではなく、こんなにも欲望にかられていたのは僕の方だった。
「大体あなた何しに来たの。今更来て、何がしたいの。薬に喘ぐ僕を笑いにでも来たの、趣味悪い気持ち悪い」
とりあえず何か話さなければ恥ずかしくてどうしようもない。
勝手に動く口はいつものように可愛くない言葉を吐き出した。
「そうですね、少し…というか、かなり、説教をしに」
「……はい?」
珍しく。
彼が喧嘩腰の僕の言葉をまともに拾い上げた。
「…自分から、行ったそうですね」
「!」
「その結果が、これですか」
すす、と肌蹴た胸元を安原の人差し指が伝う。
「…っ、………」
それだけで肩を震わせた僕をどう思ったか。
どうして、と小さな声がした。
「…あんた無防備だって、言いましたよね、何度も、何度も」
「い、っ…」
彼の手が僕の腕を握り締める。
いつものように落ち着いた声だったけれど、隠した彼の激情を表すかのように、ギリギリと遠慮なく力が込められた。
「俺の言葉は聞けなくて、名前も知らない男の言葉はホイホイ聞くんですか」
「!」
──ホイホイ?
馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの!
行くわけがない、普通だったら。
今日は?
だって場所が、第3音楽室だったから。メモに書かれた字は意外と綺麗で、それが誰かと重なって。
僕にとって第三音楽室は人気のない助けの呼べない場所じゃなくて、あなたと出会った場所だった。
だから僕は。
「……あなたの時は行って、今日は行かないなんて、あなたを特別扱いしてるみたいじゃない」
とっさに出るのは嘘。
「…直……」
ずるい、ずるい。どうして、今更そんな顔をするの。泣きたいのは、僕の方なのに。
「せめて相談とか、報告くらい、……」
言いかけて、安原がベットのサイドテーブルへ手を伸ばした。力強い拘束から解放されてもなお痺れる腕を僅かに動かす。
「安原?」
安原が手にしたのは僕の携帯。
「あなた…プライバシーというものを知っていますか…」
つう、と流れる汗を拭って、身体の上で携帯を操作し続ける安原を睨む。
しばらく中身を眺めた後、目的は果たしたのか携帯を手放して、彼は大きく溜息をついた。
「携帯に登録すら、して下さらないんですね。は、そりゃあんたから連絡が来ないはずだ」
自責の念を含んだそれは、どく、と僕の心までを刺す。
「…、………」
「何も、言って下さらないんですね」
あ、一応「隊長」とか「変態」の登録名も探しましたけれど。と、彼も微妙な空気を作りたくはなかったのか、少しおどけてみせた。
「……登録するなんて、言ってませんよ」
けれど、ねえ安原、しなかったのではなく出来なかったんですよ。
なんて、そう甘えてみたいけれど。
どうせ、彼は分かりはしないのだ、僕がどんな思いであなたから受け取った紙を見つめていたか、どんな思いで僕があなたを思い出していたかなんて。
「そんなに、俺は頼りないですか」
どうして、ともう一度安原が呟いた。
「会長から連絡来たとき、俺がどんな気持ちだったかわかりますか」
静かに呟きながら。安原が枕元に落ちていたタオルを拾って、僕の首筋を拭う。
「…っ…、……?」
「あんたが襲われたって、会長に教えられることがどんな気分かわかりますかと聞いているんです」
「…そんなの…っ、…!」
ゆるゆると安原の手が下りて胸元に触れる。
どきりと心臓が跳ねた。
あつい。
「言っておきますけれど、いくらあなたに甘いとはいえ俺だって怒りますよ」
「…?」
「わけわかんねーって顔…ああもう本当に、」
「っぁ、」
「…こうやって薬飲まされて…頭ぐちゃぐちゃにされて…わかってくれよ、あんたこの学園のアイドルなんですよ」
少しだけ口調を崩した安原は、淡々としたものより僕が望んでいたものだけれど、それより何も知らない安原に苛立ちが募った。
「…自覚してくれ、頼むから」
「…っ…」
ねえ、でも本当は。
もしかしたら、あなたが来てくれるんじゃないかって、思ってたんですよ。
何もわからなくても、音楽室以外の場所で、会わなくとも。
『守ります』
あなたがそう言った、第三音楽室なら、きっと。
そんな空想じみた思い上がりはいとも簡単にくずされてしまったけれど。
はあ、と熱い息が漏れる。
彼が触れる度身体の熱が増して、余計頭が働こうとしなくなる。
「…あなたこそ。いつもベタベタしてくるくせに大切な時は僕を守りもしないで」
それでも可愛くない口は止まらない。
いつもと変わりない顔が僕を見下ろす。
「……あなたは、こんな僕を見ても、随分余裕、なんですね…」
襲ってきた人たちでさえ、僕が少しでも反応を返せばいとも簡単にその目に情欲を映したというのに。
それなのに、安原千尋、この男は。
飄々として、無表情で、こんなときだって、いつもと変わらず。
ずっとずっと振りまわされるのは僕ばかり、わからないまま、苦しいまま、今まで何ヶ月も。
それでも自分は、素直になんてなれはしないから。ただただ、南の言う通り、受け止めて、でもそれももう。
──限界、なのかもしれなかった。
ぼろ、と涙が零れる。
震えた口で、なんとか息を吸い込んで。
(それでも)
「あなた、ほんとに、僕の親衛隊長…なの?」
(僕が好きなの、とは意地でも口にしなかった)
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