思い立ったら即行動、ということで。
「ごめんなさい」
出会って開口一番彼に断りの言葉を放ってみた。
「何の話でしょう、俺の魅力に今まで気づかなくてごめんなさいってことですか」
いつも通り第三音楽室で僕を出迎えた安原は、表情もいつも通り淡々としたまま。
意味が伝わっていないのか、伝わった上で冗談を言ってるのか判断がしづらい。
「あなたに魅力なんてあったんですか初耳です。そうではなくて、あなたの気持ちは受け取れないということです」
「副会長、俺言いませんでしたか」
敢えて言葉にしてみても、落ち着いた黒い瞳に見返される。
「人の気持ちは変わるものですから、と」
「そうですね、ですからもしかしたら僕剣先輩好きになるかもしれないですね」
「なら良かったです」
「はい?」
こう言って喜ばれるのは新しいパターンだ。
少しばかり思考が飛んだ僕を引き戻すかのように安原が僕の手を握った。
「つまり今は元親衛隊長に好意を抱いてる、というわけではないんですね」
「!」
握った手に図々しく指を絡ませようとするものだから、素早く振り払う。
「今そうだとしても、」
「今あなたの心が奪われてないならいいんです」
振り払ったはずの手が再び戻ってきて、今度こそ強く握りしめられる。夢ではない、現実の体温。ずっとずっと熱い。
「こうして今あなたに触れることが出来るのは俺ですから」
剣先輩にも、言った言葉。
優位に立とうと誰かを牽制する言葉。
(それをどうして僕に言うの)
顔を覗きこまれて、自然と瞳が彼から逃げる。
それでもこの距離では、安原の薄い唇が動くのが見えた。
元親衛隊長も、あんたを想う大勢も。
「精々羨めばいい」
彼の瞳に見据えられて身体が固まった僕とは対照的に、彼の手はよく動く。
前髪を撫でて瞼をなぞり、最終的に大きな掌が僕の頬を包んだ。
逃げた視線を咎めるように彼の手が僕の肌を擽る。その手付きにたまらず視線を安原と絡ませたけれど、彼の手は僕の肌を滑り続けた。
「今あんたの隣にいるのは俺だ」
「…っ、」
彼の熱い手が僕の頬を赤く染める。
その手が首筋を辿って鎖骨に僅かに触れた瞬間、固まっていた身体が安原を押し退けた。
「っ、調子にのらないでもらえますか」
「のってませんよ、ただの事実でしょう」
「そうではなく触るなということです」
「副会長が俺を見ないからですよ」
何故だか責められるように言われたけれど、誰だって至近距離の彼の瞳からは逃げる。
「俺が触らなくとも副会長がちゃんと聞いてくれるなら触りませんが」
「何だかいろいろ釈然としませんが、いいです、続けてください」
「もっと俺を見て下さい」
「は、」
反射的に漏れた声は掠れていて、彼に聞こえていたかはわからない。
「逃がしませんよ、俺は」
「気持ち悪い」
どうして、ここにはいない誰かを牽制するようなことを言ったのか。
どうして、「俺は」と付け加えたのか。
そんなこと考えるまでもない。
結局、淡々としたこの男も影響を受けたのだ。
(剣先輩の)
あの人の優しさに甘えたのは事実だけれど、剣先輩から逃げたわけではない。
ただ、気持ちを受け取らなかったことが、結果として剣先輩にとっては僕を「逃がした」ことになるのだろうか。
(…言葉が悪い)
そんな言い方は不愉快だった、主導権は彼にあるとでも言うような、そんな物言いは。
(それに、それこそ本当にペット扱いみたいだ)
僕が捻くれているからそう思うのだろうか。
「……帰ります」
そう言えば目の前の大きな身体は簡単に道をあけるのだから笑ってしまう。
彼が僕を引きとめないのはいつものことで、もちろん引きとめられたいわけではないけれど。
(逃がさないと口では言うくせに)
それがただたんに物理的な意味ではないとは分かっていても、こうしてあっさりと離されてしまったら、その言葉の重みも減るというもの。
ぐっと力を込めて開ける防音の扉の方が、たかだか記憶のなかの誰かの方が重いんじゃないかと思うほどだ。
「今日も、あの元隊長のことを考えるんですか」
一歩踏み出した僕の背中に珍しく安原の声がかかる。
そういえば、前はそんなことを言い残したのだった。
少しでも僕の言葉を気にしていたのかと思えば多少気も晴れるけれど、いかんせんタイミングが悪い。
空気を読めないのか読まないのか。声をかけて欲しかったのは今日じゃなかったのに。
情けなく悩み続けていた思考に戻りそうになって、八つ当たりと知りつつ安原を睨み上げる。
「まさか」
先輩のことは、一応の区切りはつけたのだ。
だから。
視線を戻して、さらに一歩進む。
「今日はあなたのことです」
というかそもそもこの僕に散々つきまとう問題児はあなたくらいだ。
続けるはずだったその言葉は言えなかった。
彼が僕に声をかけることが珍しいのと同じくらい、僕は別れ際振り返るということをしなかった。ただ今日はたまたま、たまたま、安原を振りかえった、そうしたら。
いつもは僕の顔を包む大きな手が彼自身の顔を覆い隠していて。それでも見えるその顔が、赤く染まっていたから。
目を見開いた僕から彼の姿を隠すように、手から離れた重い扉はがちゃりとしまった。
「え、」
だって彼が、いつも顔色ひとつ変えようとしない彼が、あんな。
(嬉しそうに、笑うなんて)
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