諦めるつもりで会いにきたのに、乾かない絵の具が混ざってぐちゃぐちゃになってしまいました。

剣先輩はそう零してから立ちあがった。

瞬間、もしかして一思いに切り捨てた方が良かったのかと、この期に及んで怯えた心を抑え込むように、僕も合わせて立ちあがった。
もちろん、横からすっと差し出された手は無視だ。剣先輩は取り残された安原の手を、目を細めて見やる。

「……安原千尋」

「…はい」

話しかけられるとは思わなかったのか、少し間をおいて安原が先輩に目を移した。

にこ、と可愛らしく笑った先輩が、その表情とは反対に荒々しい手つきで安原の胸ぐらをつかんで引き寄せる。

「少し意地悪をさせてくださいな」

「は?」

「直さんは鎖骨が弱いのですよ」

「!」

さらりと落とされたその意地悪に、僕の身体が跳ねた。

「さ、こつ」

「ええ、それはもう、可愛らしい様子で…」

「剣先輩……!」

弱点をいとも簡単にバラされて、赤くなるどころかもはや青冷める。

「たしか、初等部の時から鎖骨苦手でしたよね」

「っ……!」

これだから、一貫学校というのは本当にっ…!

注目されるようになってきてからは、必要以上に自分の情報を出さないようにはしているけれど、さすがにそんな小さい頃からそんなことを考えられるわけもない。

目を見開いたまま鎖骨鎖骨と呟き続ける安原のオーラがなんだか恐ろしくて、恥ずかしさを誤魔化すように安原の頭を殴った。

「うっ…」

「これで記憶とんだりとかしませんか…?」

僅かに呻いた安原を見上げて窺えばいつも通りの真顔で見返された。

「弱点は鎖骨」

「ばか」

自分でも理不尽と知りながら安原の足を踏む。

「副会長、もう少し可愛らしい照れ隠しでお願いします」

「照れてないです」

しょうもない言い争いを先輩の小さな笑い声が止めた。

「可愛らしいですよ、子猫が反抗してるみたいで」

「え、」

見るからに剣先輩の方が子猫では、なんて口にはしなかったけれど。

きら、と意味ありげに先輩の目が光る。

「あなたはこういうこと、御自分で暴きたい方でしょう」

「まあ…そうですね。でもいいんですか?そんな情報俺に与えてしまっても」

「ふふ、構いませぬ」

にこにこと笑う先輩に対して、安原は真顔のままで、どことなく空気が重い。
視線を彷徨わせる僕の腕を安原が掴んだ。

「!」

「こうして副会長に触れられるのはあなたではなく俺なんですよ」

「あ、安原…?」

見せつけるように僕に触れる安原に、剣先輩はそれがどうしたと言わんばかりに鼻で笑った。

「何を勘違いなされているかわかりませぬが、もとより直さんは高嶺の花。あなたのような悪い虫がつくことくらい想定内です。…想いに水を落とした私よりも、あなたが気にしなければならぬことがあるでしょう」

なんというか、僕の話題であるはずなのに、僕は置いてけぼりというか、どうも勝手に僕の評価が上がってしまっているような気がする……。

とりあえず安原に掴まれたままの腕を振り払おうとするも、彼の手は僕の腕から離れなかった。

それを見てかはわからないけれど、最後に一つだけを忠告を、と先輩が安原を見据えた。

「伝わらなければ意味がありませぬ。恋は一人でも出来てしまうゆえ、あなたは満足されるかもしれませぬが。本当に手に入れたいと思うのなら、自分の欲を満たしたいと思うのなら、傷つける覚悟も持たなければなりませぬ」

この私のように。

そう堂々と言い放ってから、剣先輩は僕に綺麗にお辞儀をして重い第三音楽室の扉を開き、そっと静かに閉めた。

「……副会長、どうして赤くなってるんですか」

「……いえ、別に、なってないです」

最後に。

「お慕いしておりますよ」、ともう一度笑った剣先輩に、涙がでるどころか今度こそ少し心臓が跳ねたなんて、彼にわざわざ言う必要はない。

「……今日はもう、帰ります」

6時の鐘もなったことだし、今はそこまで生徒会の仕事は立て込んでいない。
よくサボる先輩達とは違って、仕事をため込んでもいないからきっとでなくても大丈夫だろう。

少し、南に揶揄されるくらいで。

「副会長、」

「鍵、よろしくおねがいします」

安原が何か言おうとするのを、ひたすら遮った。

何も聞きたくなかった。
比べたくはなかったのだ、彼と剣先輩を。
いつものようにふざけた言葉も、淡々とした表情も、見れば見るほど剣先輩が思い浮かぶ。

僕が剣先輩のもとへ行ったら、先輩は笑ってくれるだろうか、安原はその淡々とした表情を変えるだろうか。

今、剣先輩は泣いていないだろうか。

2回目のあの言葉に心臓が跳ねたのだって、安心したからに違いない。先輩は大丈夫なんだ、と。
想いを返せなくとも、先輩は今までと変わらない。

自分を守らなくていい、ただ素直に受け止めていいのだと、強がっていた言葉を吐いてもなお弱々しい心が、ようやく動いたに違いない。

いつでも僕は自分を守ることに精一杯で、その余裕のなさが周りまで不安にさせてしまう。

「……最低だ」

傷つけているのは僕の方なのに、綺麗なものを貰っているのに、気を遣わせて、あまつさえそれを怖いと思うなんて。


「副会長」

伸ばされた手を押し返す(気持ちにも、触れることができるなら)。


(きっと僕はそれも、押し返すのだろう)


「今は、剣先輩のことだけ。…考えたいんです」


うそにも程がある。
まだ僕は、自分のことしか考えられないのに。

言って音楽室の扉を閉めたあと、ああ、これはもしかしたら彼を傷つける言葉だっただろうかと思ったけれど。

立ち止まる扉の前。

背にしたそれが、再び開くことはない。
追いかけてほしかったわけじゃない、彼と一緒にいたくなかったのは本当だ。

でも彼はどうなのだろう。
何もわからなかった、彼が何を言おうとしたのかさえ。

結局、何事もなかったようにいつもと同じように、彼と別れた。


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