喋るのが苦手だった。
けど、人はすきだった。
あの人がだいすきだった。
うん?間違えた?
うん、間違えた。
あの人がだいすきです。
「ふく、……かい、ちょー」
ぷるぷると震える手で差し出された書類に、自然と副会長の眉間にしわがよった。生徒会の仲間である書記の大きな手に握られた書類は力が入ったせいでよれていた。疲れきったように、歪んでいた。
「あなたねぇ、」
副会長がため息をついてそれを素直に(いや、少しばかり嫌味ったらしく)言及してやれば、書記は大きな身体ごとびくっと震えた。
「ふくっ、かいちょ、」
舌ったらずに涙目。
びくびくと様子を伺う長身の男に、副会長と呼ばれた男の青い目が楽しげに細められる。
「それにしてもあなたはさっきから、副、会長だなんていちいち副を強調した呼び方をしてくれますね。わざとですか?」
この役員で仕事を始めてもう随分経つ。ただでさえ学園上位者が選ばれるメンバーの中で、さらにNo.2の副会長が、書記の性格に気付かない洞察力のわけがない。
つまり、このような物言いはわざとだった。
書記がうまく喋れないことを知りながら、わざと責めるように言い放ったのだ。
それでいて書記の反応を窺うように、宝石と例えられる瞳を動かした。
なぜなら。
「…?ふく、かいちょ、は…ふく、かいちょー…?」
「…遊びがいのない子」
どうも鈍い長身の彼には、いまいちそれが通じないことが多いからだ。
「あそ、ぶ?の?遊ぶっ!……たいっ」
どころか、会話が上手くできなかった。
最後のたいって、なに。
疑問を笑みに変えて、副会長はしっしっと犬を追い払うかのように手を振った。
「用がすんだなら戻りなさい。でかい図体が邪魔」
「…ま、だ」
「なら早く。時間の無駄はなるべく無くしたいんですよね」
今度ははっきりと伝わった。ほとんど書記の表情は変わらないけれど、わずかに悲しげな雰囲気が醸し出されている。
ならちょうどいい。
優しくしようだなんて思うどころか、それを見るともっと言ってやりたくなる。
悪い、癖だ。
悪い、性格。性癖。
十分自覚はしている。
「高校生になって母国語すら話せませんか」
「あ、」
「本当、なんであなたみたいな何も出来ない子が生徒会なんだか」
「わ、」
「わ?なあに、何が言いたいの、鳴きたいなら鳴いてもいいんですよ、犬のように跪いてね」
つい、言われた通り膝を折ってしまいそうになるのを書記はかろうじて耐える。唇を噛んで。手を握って。そのくらい、絶対的なまでに染み込んでしまった声。自分を見る瞳に食べられてしまいそうで、つい俯いた。
それに、副会長は楽しげに笑うのだけど。
「ふく、…かい、ちょ、俺…嫌い…?」
「好かれてるとでも?」
そう返されて、ついに書記の目が潤む。
好かれてると、思ったわけでは、ないけれど。
だって、書記はすきだったから。
あ、また間違えた、すきだから。
そう心の中で訂正して、書記は潤んだ目のまま俯いていた顔をあげた。ちなみに座る副会長の横に立つ書記が俯いたところでその表情は隠せていなかったのだけれど、副会長はそれを指摘してやらない。
精々馬鹿な子だなあと内心思っただけだ。
「…俺、…これ…大変、」
「はい?この程度が?」
書記の振り絞った言葉に、またすぐ言葉が返される。
口では、勝てるはずもないのだ。書記に限らず、会長だって。
口の上手くない書記には、それがどんな屈辱かはわからないけれど。何でも一番になりたがる会長が忌々しげにしていた、から、副会長は話が上手いと、それだけ思っていた。
だからこそ、こうして何を言われても会話ができるのかもしれない。
もちろん一番の理由は、副会長への好意。
と、いうよりそれだけが書記の支えだったかもしれない。
「が、んばった…、から」
「仕事をするのは当たり前ですよ、まああなたみたいな子には重荷かもしれませんが?」
「が、んばったか、らっ」
副会長の言葉に飲み込まれそうになって。
書記は同じことを繰り返した。
彼にしては珍しく、語尾を荒げて。
そのことに副会長の片眉が上がる。何も言わないあたり、聞く態度なのだろう、けれど。
「から、…だから、」
光る青に見つめられて、すぐに言葉がひっこんでしまった。
意思の疎通が出来ないのなら、言うことをよく聞く犬以下だ。
副会長は結局そう結論づけて退屈げに頬づえをついた。
「…言えないのなら、身体でもなんでも使いなさい」
投げやりなアドバイスはけれど、書記にとっては画期的なもので。
行動なら。
長い手足なら。
華美な役員の、誰にも負けない。
「い、いの?」
「同じことを言わせないで」
あってないような確認だった。
それでも、書記の中に安心が広がって。ふわっとした雰囲気になったことを、副会長が書記に問う前に、長い手が副会長に伸ばされた。
「は、?」
がしっと副会長の腕をとった書記は、それをそのまま自分の頭へと導く。
さら、と短いなりに滑りのいい髪を手のひらに感じて、ようやく副会長も合点がいった。
副会長だから合点がいったものの、他の人ならちんぷんかんぷんだろう。
それくらい、唐突だった。
「頑張ったから、頭を撫でろと?本当に犬にでもなったの?犬のほうが賢いみたいだけれど」
「撫で、る!…ろ?」
無表情なくせに、きょとんと首を傾げて命じた。言葉は足りてなくとも、それは明らかに命令形で、そんな口調は副会長が最も嫌いなものだ。
命令するのは、自分の方であるべきだから。
「お願い、する態度では」
だからこそ、わざわざお願いを強調して。書記がそうするように言葉を区切って。
「ないですよね」
身に宿す宝石を熾烈に煌めかせて一言返した。
怒り、といえばまるで副会長の懐の狭さを露呈するようだから、それこそ誇るべき自尊心だと、赤い唇も歪めて。
自分と書記では違うのは役職だけではないと、表すかのように。
そんな風に見下げられても、書記はぐりぐりと頭を手に押し付けた。
だって、すきだから。
そんな副会長が、すきだから。
理由なんてそれだけだ。
「行動、…した、から」
「不合格」
「や」
「不十分」
何が?と書記は首を傾げた。
口の上手くない自分は話すのも飲み込むのも、上手くない。
でも、行動だけは出来るから。
行動だけは受け止められるから。
乗せた手を離さない副会長は、優しい、し、撫でてくれるでしょ?と、疑うこともない。
不十分、なのは、じゃあ。
と、書記は苦手な考える、ということをして。
すきだということ?
という、答えを出した。
「…だめ」
それは、だめ。
だって副会長への好意が、書記の全てだから。
伝えなきゃ、だめ。
伝わってなきゃ、だめ。
「あなた、さっきから何が言いたいの」
書記の胸中なんて知らない、知る気もない副会長には、言葉の意味は通じない。
けど、書記にとっては今更で。
言葉がうまく通じないのはいつものことで。
すきと言えないのはいつものことで。
でも、今は、方法があるから。
だいすきな副会長が教えてくれた方法が。
「ふくっ、かいちょ、」
「だか、っ」
相変わらず、副を強調して呼んだ書記は、なんの戸惑いもなく、自分の唇と副会長の唇とを合わせた。
「!」
びくりと身体を強張らせて、すぐに離そうと抵抗する副会長の身体を縫い止めるかのように、椅子に押し付けて。
「っこ、の、」
離した途端に聞こえる声はだいすきな副会長のものだから、書記はちゃんと聞く。
「あなたは、何を考えてっ…!」
今度こそ明確な怒りだった。プライド云々よりも、自分の唇が、書記に奪われたことへの。
けれど、行動で示せといったのは副会長だから。どうして怒るのかなんて、書記は考えない。考えられない。
一番大事なことは、副会長に好意を伝えることだから。
何を考えているのか、通じるまで、行動で示さなきゃ。
今のじゃ、足りなかったんだなんて一人頷いてもう一度。
「っン、」
抵抗を長い手足で封じて、副会長の唇に自分のそれを寄せる。
でも、不思議だ。
書記は、恋愛経験がない。疎いというか、そういった欲が限りなく薄かった。
だから好意を伝えるときも、みんなそうするからという理由で唇を合わせることを選んだ。
それだけの理由だった、のに。
甘いと、思った。
柔らかくて、初めて知る、感触。
美味し、かった。
今まで食べてきた、どんなものよりも。
どきどきと激しく打つ心臓が、感情を表す自分の行動。
すきなんだな、と確信して。
唇を合わせるのは好意を伝えるものだけではなくて、好意を増やすものなのだと、書記は初めて知った。
「ふ、…」
息が苦しくなって、一回離して。自分を見つめる副会長の宝石が涙で輝くのに、心臓が高なる。
「っふく、かいちょっ」
「〜〜〜っバカ犬がっ…!!」
副会長の細い腕が、擦り寄る書記の身体を押し退ける。
上下した肩に、震えた声は、女王と密かに呼ばれる副会長には似つかわしくない。
こんなことは、あってはならないことだ。書記に唇を奪われるなぞ、この、自分が。
「は、ざまあねぇなあ、副会長様よぉ」
鼻で笑う集団のトップに余計、怒りが募る。
よりにもよって。自分が決して弱みを握られたくない人たちの前で、いいように、されたのだ。
がたん!と荒々しく立ち上がった副会長に、何もわかっていない書記が上機嫌に従う。
だって、通じたはずだから。
自分の、想いが。
たくさんたくさん、唇を合わせたのだから。
「来なさい」
呼ばれるまでもなく、書記は副会長の後ろにいる。
あからさまに怒りのオーラを纏う副会長と楽しげな書記の二人が部屋を出ていくのを役員は見送って、ぼんやりと経過を見ていた会計は。
こーゆーのなんて言うんだっけ。
ああ、飼い犬に手を噛まれる?…まあ、噛まれるどころか食べられちゃうんだろうけどね。
と、下世話な感想を抱いて、何事もなかったように仕事に戻ったのだった。
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