チスターチェアへようこそ!9
2013/08/07 23:41
彼女ちゃんの憂鬱
「うわわわ凄いわ!賈充さん!スイーツ伯爵の名刺!やだ手が震えちゃうわ」
「なんですかその鳥肌が立つような寒い名前は」
「店長さん知らないの?この人、全国の激ウマスイーツを知り尽くした通称スイーツ伯爵よ。よく夕方のワイドショーで"伯爵の漆黒ショコラ食い倒れ地獄"とかやってるじゃない」
「そんな物騒な特集見たことないですよ…」
フライパンがじゅうじゅう弾ける音を立てている。
「チスターチェア」は、猛暑まっただ中でものんびりと営業中だ。
無口な看板娘ちゃんは真夏日にも関わらず庭で草むしりに勤しんでいる。
そんな今日のお客様は地元ローカル局に勤める尚香さん、町内イベントニュースの収録を終えてちょっと遅めのランチにやって来ていた。
本日のランチはきのことベーコンのキッシュ、ついでに夏野菜のバターソテー。
フライパンの上で鮮やかな緑と赤が踊っている。
器用にフライパンを煽る徐庶の向かいで、尚香さんは先日襲来した賈充さんの名刺にハイテンションでキャッキャしていた。
流行に疎い徐庶にはついていけない話だが、どうやら賈充さんは巷でも有名なスイーツ狂で、全国区で美食スイーツ家として有名らしい。
「伯爵が来たってことは…子元ちゃんのケーキをジャッジメントしたわけね」
すっかり「チスターチェア」名物になった冷蔵ガラスケースに並ぶ彼女手作りケーキにちらりと目をやって、尚香さんはにやりと笑う。
「それで名刺を貰うほどってことだから、高評価!」
「ああ…何だかよく分からない賞賛は頂いたよ」
無地の白い陶器のプレート、温かみのあるクリーム色のキッシュと濃厚なソテーが良く映える。
朝採りのイタリアンパセリを一房添えて、カウンターにことりと差し出した。
焦がしバターの香りが鼻先をしょっぱく擽る。
「交響曲だとか究極の云々言っていた…かなあ」
「んもう、それって凄いことなのよー…伯爵が雑誌やテレビで紹介した店は大行列の途切れない人気店になるんだから!」
もちろん取材を受けたんでしょ?とか、私もあの雑誌やこの雑誌のインタビューきちゃうかしら?とか、尚香さんは頬を押さえて勝手に盛り上がっていたが。
「ああ…そのことならお断りしまして」
「ええ!?」
思わずフォークからズッキーニがころりと落ちた。
何か言い掛けた尚香さんを遮って、徐庶はいつも通りのカフェオレを注ぐ。
「あくまで子元が好きでやっていることだからね、あまり急かすような真似はしたくないんだ」
押しか弱い苦笑いで肩を竦めた徐庶に、尚香さんは反論を飲み込んで、ほっと息を吐いた。
「そっか…でも、なんだかその方がこのお店らしいっていうか、店長さんらしいかも」
そう言ってかぶりを振った尚香さんは、何かを思い出したように小さく声を上げ、脇のバッグを探り始めた。
「そうそう…忘れてたわ」
引っ張り出したのは、A4版の薄い冊子。
件のローカル局で出している地元情報のフリーマガジンだ。
その表紙を徐庶に向け、尚香さんはじゃーん!と満面の笑みを向ける。
「これは…」
徐庶さんが思わず手を止めた。
表紙に写っていたのは、紛れもない彼女だ。
ノースリーブのシンプルな白いワンピース、リボンのついた麦わら帽子、胸元に小振りな向日葵の花束を抱いている彼女の姿が冊子の表紙を飾っていた。
洒落っけのない格好なのに、どこか憂いた彼女の表情も相まってちょっとした短編映画のワンシーンのようにすら見える。
「この間子元ちゃんを撮った写真、今月号の表紙になったの!編集部の人たちも一目見るなりべた惚れしちゃったんだから」
「先週庭でキャッキャしてたやつですか…」
冊子を手に取り、改めて彼女の姿を見つめる。
「……かわいい」
「店長さん鼻の下伸びてる」
「え、あ…錯覚ですよそんな」
しつこい夏の太陽も沈みかけた頃。
「チスターチェア」からは一駅離れた、例の「駅名にもなっている大学」。
田舎に似合わない新築の構内で5限を終えた文鴦くんがふと足を止めた。
彼の横を学生達が談笑しながら通り過ぎていく。
薄手な露出過多の女子大生も、暑い中リクルートスーツの就活生も、暑さにちょっとうんざりしながら若々しい騒々しさを存分に放出しまくっていた。
そんな集団で無個性シャツに細身ジーンズ姿の文鴦くんは見事に埋没していた。
いや、背丈は頭一つずば抜けていたが。
だから、彼がおもむろに掲示板の横に並ぶフリーマガジンのラックに手を伸ばしたのも、誰の目にも留まらないはずだった。
(あ、子元さんだ)
彼女の姿をぼんやり見つめ、何気なく心中で呟いた途端。
「これは…!!」
「…うわ」
突然真横から突き出した手が文鴦くんからフリーマガジンをひったくった。
「ちょっと…何するんですか、ご自由にお取り下さいの対象は棚にある方ですよ」
むっと口を尖らせ、文鴦くんが振り返り無遠慮な手に文句を付ける。
しかし、謝罪も逆ギレすらも返っては来ない。
「どうして…姉上が…」
「あ、あねうえ…?」
その代わりとばかりに呆然とこぼれた声に、文鴦くんは直感で何かややこしいものを感じ、次いでぎくりと硬直してしまったのだった。
なんかこう急展開的な
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