チスターチェアへようこそ!
2013/06/03 22:52
今朝はトマトと茄子が大収穫だ。
緑の生い茂る七月の畑はむせかえるような生気に満ちている。
35℃を越える日が続く毎日でも、今くらいの早朝ならば日差しの割に酷暑にうだることはない。
世界は眠たげな目を擦って少しずつ動き始める。
とはいえ、田舎の静かな町外れのここでは、脇の道をちんたら走っていく軽トラと、大きなバッグを背負った朝練に向かう学生の他は、一時間に一度ローカル線が通過する遠い線路の響きくらいしか人の生活を感じる音というのもないのだが。
遠慮なしに四方八方葉を広げるズッキーニの出来もまずまず、この様子なら夕方には一回り大きくなって収穫できるだろう。
この季節、夏野菜は植物らしからぬアクティブさですくすく育つのだ。
慣れた手つきで支柱に絡む葉をかき分け、赤い実に鋏を入れる。
朝露を受けて緑鮮やかな葉はきらきら輝いた。
「ええと、とりあえずこのくらいでいいかな」
籠一杯の夏野菜を抱えて徐庶はよいしょ、と立ち上がった。
整然と立ち並ぶ緑の列の真ん中。
寝癖が抜けきらないくしゃくしゃの黒髪と無精髭と、何処となく冴えない容貌が田舎の空気によく馴染んでいた。
攻撃性とか威圧感とか、そういうものを感じさせない穏やかな、悪く言えば積極性の牙を抜かれてしまったような柔和な横顔だった。
徐庶は畑の一角に声を投げかける。
「そろそろ戻ろう」
返事のように、生い茂るハーブの葉ががさがさ揺れた。
ちょこんと現れたのは、口を結んだままの寡黙な少女。
片手に持ったお庭のハーブ図鑑、ページの間に栞のように指を挟んだまま、何か尋ねるように徐庶を見返していた。
「子元、見分けは付くようになったかな」
近付きながら問うた徐庶に、彼女は言葉を発さないまま浅く頷く。
しゃがみこんで拾い上げたシリコンバスケットには丁寧にも一枚ずつ摘まれたハーブの葉やら枝やらが種類ごとに束にまとめた形で積まれていた。
「うん、上出来だ」
ぽん、と頭を撫でると彼女は吐息だけで小さく笑った。
促されるままに徐庶の隣を歩きながら、ちらりと籠の中のトマトを見やる。
気付いた徐庶は軽く肩を竦めた。
「これはしばらくメニューに困らないよ…却ってどう使おうか迷うね」
「……」
無言の彼女に徐庶が穏和に問いかける。
「何が食べたい?」
訊ねられた斜め下の視線が緩慢に彼を上目遣いに見上げた。
「…肉まん」
「ええと…トマトを使う料理を聞いたんだけども」
消え入りそうなほど掠れた一言に徐庶は困ったように頭を掻いた。
しかし、その姿を見て薄く笑んだ彼女を見て、彼の表情もまた苦笑に緩んだのだった。
チスターチェアでランチはいかが
都会から大分離れ、自然に抱かれた山麓の片田舎、ローカル線の最寄り駅から徒歩10分ほどの長閑な田畑の広がる小さな町の外れ。
その最寄り駅というのも、実にひなびた小さな駅舎。
可哀想なくらいささやかな駅前商店街の他には、家か田畑か山しかない。
コンビニは駅の近くにローソンが一軒と、麓近くにセブンが一軒。
全国チェーンのスーパーなんて隣町まで行かないとお目に掛かれないし、ファミレスも上に同じだ。
しかしここは人が去り鈍りながら朽ちる過疎の町というよりも、狭い世界なりに持続しながらゆっくり時間を刻む、少し不思議な田舎町だった。
人口そのものは少ないが、隣駅の名前にもなっている大学キャンパスに通う下宿のアパートやら、Iターン支援を受ける研修者やら、若い人の姿もちらほら見える。
そんな牧歌的情緒あふれる町に、徐庶の切り盛りするカフェ「チスターチェア」はあった。
「とりあえずこの大量発生したトマトをなんとかしないと…パスタとスープと…いや全部トマト尽くしというのも…」
北欧のログハウスを思わせる明るい無垢材の内装と質素な木製家具でまとめられた、カウンターとテーブル合わせても10席ほどのアットホームなカフェ。
諸事情で田舎の実家を継ぐことになった徐庶がどうせなら、と始めた店だけに、あまり規模も大きくなければ宣伝に力を入れてるわけでもない。
それでも手作り野菜と美味しい料理は口コミで広まり、小さな町で小さな人気を博していた。
開店前の店内で、相変わらず黙りこくったまま、彼女は黙々と机を拭いている。
彼女は一応店員、らしい。
黒髪を短く整えた楚々とした容姿こそ美しいが、寡黙で感情もごく微かにしか表に出ない。
ウェイトレスらしい愛想も談笑もないどころか声を出すことすら少ないから、徐庶が呼ぶ「子元」という名前以外はほとんど何も分からない。
対して、話好きな常連客に乗せられた結果大体の身の上を熟知されてしまっている店長兼シェフの徐庶は、カウンターキッチンでぶつぶつ独り言を呟きながら朝採れたばかりのトマトを無造作に切っていた。
うーん、と唸る手は難しい顔の割に器用に湯剥き→刻み→オリーブオイルと調味料で和える一連の手順をこなしていく。
とりあえずブルスケッタのサラダ完成。
「うーん仕方ない…子元、メニュー書いて貰っていいかな」
呼ばれて彼女はぱっと顔を上げ、浅く頷いた。
本日のランチ、と書かれた黒板を掛けた看板の前にしゃがみ込むと、彼女は言葉を待つように徐庶を見つめる。
「ええと…まず和風トマトの冷製…」
バゲットを切りながら徐庶は斜め上を向いてボソボソぼやく。
「…一昨日出した」
「あれそうだっけ?ごめん…ええと…じゃあ茄子とトマトのシチリアーナで」
間を置かずつっこみどころを鋭く突く彼女に徐庶はちょっと情けなく緩んだ顔で笑う。
彼女はふわりと双眸を和らげ首を縦に振った。
「あとは鶏のハーブグリル…でいいかな…あれ?これは被ってないよね、大丈夫だよね」
半分疑問形で告げられた言葉には辛うじて聞き取れるような"うん"、の声が返ってきた。
白いチョークが、少女らしい丸っこい筆跡で美味しそうな名前を記していく。
同じものをカウンターに置かれた卓上イーゼルに掛かった黒板にも書いて。
トールペイントを施した花柄の小箱に彼女がチョークを置くのとほぼ同時。
種々の缶瓶が並ぶ向こうのキッチンから徐庶もまた手を伸ばし、白いプレートをカウンターテーブルに並べた。
「ありがとう子元…さ、手洗ってご飯にしよう」
差し出されたのは、オリーブ油をかけたバゲットにトマトとバジルを和えたブルスケッタを載せたオープンサンドイッチ。
濃いめに淹れたダージリンティーと一緒に、開店前の腹拵えだ。
彼女は少し高めのカウンターチェアに腰掛け、湯気の立つ紅茶に息を吹きかける。
恐る恐るカップに唇を付け、温もりにほっとついた溜息はキッチンで彼女に背を向けてトマトを煮込む徐庶の耳にも届いていた。
「…味はどうかな」
振り向かないまま訊ねた言葉に、バゲットにかぶりついていた横顔がほんの少し跳ねた。
しばらくの間口をもぐもぐさせて、彼女は指先で口端を拭うと躊躇いがちに声を発した。
「…辛い」
「あはは…ごめん」
トマトソースが香る静かなカフェ。
チスターチェアの開店時間は午前11時30分。
食事を終えたら、今日も忙しいランチタイムが始まる。
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