はちみつレモンの魔法2
2013/05/27 22:14
***
「……本当にこれでいいのか…?」
陽も沈みかけた春の夕暮れ、文鴦は釈然としない顔で少し先を歩く司馬昭にぽつんと呟いた。
その手には、パンダ柄の可愛い袋がぶら下がっている。
「良いって良いって、むしろそれが最高にベストな選択だから」
頭の後ろに手を組んだやる気のない司馬昭は、欠伸混じりに文鴦を振り返ってにぱっ☆と笑ってみせた。
明日に迫った(昭はすっかり存在を忘れていたが)ホワイトデーのお返しを見繕いに行ったはずなのに、"司馬師の好きなモノを"と司馬昭に相談した結果、文鴦はご当地グルメフェアで街のモールにやってきた有名店の肉まんを買わされて帰ってくる羽目になった。
ほとんど色恋沙汰に縁がないから詳しい事情は知らないが、文鴦的にはホワイトデーのお返しと言ったら水色の包装紙で飾られたクッキーとかチョコとか、そんなイメージだ。
現に司馬師は先月女の子らしい白と桜色のラッピングで初々しくも美味しいチョコケーキを贈ってくれたのだし(ちなみに文鴦はそのとき手作りケーキという代物の味に軽く雷で撃たれたような衝撃を覚えた)、いくら弟の司馬昭がお墨付きをくれても肉まんじゃさすがにちょっと釣り合いが取れないのでは…。
妙な不安が募る。
文鴦の無言の怪訝も知らず、司馬昭は惰性のような緩い歩みをぱたりと止めた。
「うげ…元姫来てる」
門のある立派な司馬家の車庫の前、その脇に止まった銀色の小さい自転車を目にするなり司馬昭に苦笑いが浮かんだ。
買っといて良かったー、と冗談めいた声で独語すると、彼は緩んだ顔をきりっと引き締め、おもむろに文鴦を振り返る。
「うん、よし。開戦の時間だブンブン、面倒ごとはさっさと終わらせようぜ」
「いや…別に面倒というわけでは」
もごもごと煮え切らない文鴦を引きずるようにして、司馬昭は自宅に帰るにしては緊張気味な足取りで門をくぐった。
「たっだいまー!いま帰りましたよーっと…」
「あの、お邪魔しますー…」
吹き抜けの広い玄関に男子二人の声が響いて、ぷつんと途切れた。
「やべえ、すっげーいい匂いする」
「…ああ」
挨拶もそこそこになるほどに芳しく鼻先をくすぐったのは、家中に充満する甘酸っぱく温かな焼き菓子の香り。
放課後の小腹が良い感じに刺激される。
そんな甘い香りをまとって、リビングのドアが開いた。
「お帰りなさい…あ…!次騫もいらっしゃい」
ちょこんと司馬師が顔を出した。
制服のシャツにチェック柄のエプロンが実に新鮮だ。
はっとした文鴦が何か言い掛けるより早く、司馬師の後ろからもう一つちょこんと金色のポニーテールが顔を出す。
「こんにちは、お邪魔してるわ」
「元姫」
司馬昭と文鴦のクラスメイトで、司馬昭とお付き合い真っ最中の王元姫。
彼の姉を"子元先輩"と慕う彼女は、今日のように司馬昭そっちのけで司馬家に遊びに来ていることがしょっちゅうあった。
「あー、うん、お邪魔されてる…」
元姫がいるのは嬉しいような、自分目当てでないのは複雑なような。
柄にもなく困り切った顔で頭を掻く司馬昭に、可憐な姉は鈴を鳴らすような声で笑ってみせた。
「今日はね、一緒にケーキ焼いてた。ホワイトデーだから作って交換しようって」
「ホワイトデー…ごくり」
本日幾度目かの単語に、司馬昭は鈍い文鴦でも苦笑いするほどあからさまに緊迫の息を飲む。
しかし、文鴦以上に鈍い司馬師は弟の緊張も察した風はなく。
ミトンをはめたモコモコの手のまま、二人に部屋に入るよう手招きした。
「もうそろそろ焼ける。二人も部屋にこもる前に味見していって」
「別に部屋にこもる訳じゃないって…」
頭を掻く手が中々戻ってこない。
自由奔放を絵に描いたようなフリーダム司馬昭が唯一、姉の前でだけは別人のようになっている姿は、文鴦と元姫には何度見ても滑稽だった。
……
「焼いてるのは何のケーキ?」
「うん?」
司馬師に付いてキッチンにお邪魔した文鴦の不意の問いかけに、彼女はのんびり間延びした返事をした。
この辺は弟に似てるな、なんて。
文鴦はぼんやりと頭一つ以上背の低い愛しい人の背を見つめる。
「今日はねぇ」
アンティークなデザインのティーポットを温めながら彼女は歌うようにささやく。
「はちみつレモンケーキ、初挑戦」
「美味しそうだ、聞いただけでも」
「分からないよ?色々めんどくせ、って。目分量にしちゃったから」
色々と控えめで大人しい二人の笑い声と一緒に、スプーンからさらさらとアールグレイがこぼれ落ちる。
芳醇な香りの奔流、それは司馬師自身の甘やかな空気と混じって文鴦の頭の中を強烈にくらくらさせた。
「……あ」
ふと、司馬師が紅茶を淹れる手を止める。
背中と頭と、彼女の体をすっぽり包みこむような体温が滲んで伝わった。
「次騫」
躊躇いがちな筋張った腕が司馬師を捕らえる。
何処までも優しい彼の檻の中。
「子元が作ったケーキは絶対に美味しい。私は好きだな…だから嬉しいよ、また作って貰えるなんて」
子供がぬいぐるみを愛おしむような幼い仕草で、文鴦は司馬師の柔らかい髪に頬擦りする。
キスしたり髪を梳いたり、そういう大人びた芸当はまだまだ出来なくて、それでも伝えたいと思ったがゆえの、稚拙な愛情表現。
司馬師は心地良さそうに目を細め、自らを抱きしめる彼の腕に触れた。
「いくらでも作る。次騫が喜ぶなら、食べたいもの何でも作ってあげる」
「やっぱり肉まんじゃ割に合わないな、私は子元にお礼をしきれない」
くす、と文鴦が苦笑を漏らした直後。
「……にくまん?」
ぱちぱちと忙しなく瞬きをしながら、何に触れたのか妙に浮ついた表情で司馬師が文鴦を顧みた。
「ホワイトデーだから、お礼に好きな物を贈ろうと思ったんだけども…昭に聞いたら子元には肉まんが一番って言って譲らなくて」
「………」
続ける文鴦を司馬師は瞠目したまま呆然と見つめている。
「一応有名らしい店の物を買ってきたけど、あれじゃ足りない気がする……」
「はうう、だめっ…!!」
言葉を遮るように、司馬師はふるふるかぶりを振った。
強く瞼を閉じ、心なしか目尻に涙が浮かんでいる。
「な…なに」
突然の変貌に慌てて文鴦が腕を緩めると、彼女は潤んで赤らめた瞳を揺らがせながら覗き込む彼を恥じらい気味に見上げた。
「昭…簡単にバラすなんてひどい…あとで断罪を」
「いきなり物騒な…」
言い掛けて、はっと気付く。
「もしかして嫌だった…?」
「そっ、それは違う!」
思わず表情を曇らせた文鴦に、焦って司馬師は反駁する。
…が、何が引っかかっているのか、次の言葉が続かない。
「けど、その、うぅ…」
肩を抱いたままの文鴦に目を合わせられず、司馬師は彼の胸の辺りでしばらく視線をまごまごさせ、やがて観念したように下を向いた。
そうして届く俯いたままの、消え入るような掠れ声。
「に、にくまんが好きだなんて…かわいくない、って…嫌われる」
ひくん、と言葉尻に嗚咽が混じった。
言葉を聞いたまま唖然としていた文鴦は、二、三秒ののち、堪えきれない、とばかりに破顔する。
「っ…あはは!」
「次騫…?」
珍しく声を上げて笑う彼を、司馬師は意外そうな顔でおずおずと見上げた。
「いや、違うんだ…すまない」
普段以上に幼く表情を緩ませながら、文鴦は壊れ物を扱うような繊細さで司馬師を再び抱き寄せる。
「そんなことで、私は子元を嫌ったりしない。だから、泣かないで」
そうして衣擦れにまぎれるくらいの小さな囁きが司馬師の耳元をくすぐった。
「むしろ、好きな物をたくさん食べる方が好きだな…無理して我慢するよりは」
はっと瞬きして、"本当に?"と問うた彼女に、"本当に。"と彼は至極誠実に頷く。
服だけが邪魔をするゼロ距離、遠回りする心の内も漸く手を繋げた…そんな気分だった。
「でもケーキがあるからさすがに今は食べられないか」
「ケーキ後回し。にくまん」
「え、即答」
***
おまけ
「もう…先輩に次騫君ったら…キッチンであんなことされたらケーキの様子を見に行けないじゃない……」
その頃元姫は、リビングの陰からこっそりとキッチンを…正しくは抱き合う司馬師と文鴦の後ろにあるオーブンを心配そうに見つめていた。
そんな彼女の後ろでもまた、心配そうに見つめる視線がひとつ。
「ったく…タイミングが掴めねえ…元姫に"春限定くまモンぬいぐるみストラップ"渡したいけど…姉上に見られるの何か照れるし…あー、どうしよ」
…ケーキが焼きあがるまであと一分と少し。
こちらの関係の焼き加減も、あと一息と言ったところ。
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はちみつれもん!!
かじゅぎんが別行動なのはスイーツデートの先約があったからとかそういう感じで…
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