學天則ファンタサイズ4
2012/12/24 00:40


眉間に深い皺が刻まれる。

やはり今からでも遅くないから元いた場所に捨ててきてくれようか、
荒んだ心が目の前の少女に容赦なく怒りの矛先を向けようとした、とき。

皮肉の一つも読み取れないはずの司馬師は曹丕のささくれ立った心を労るように、柔らかく穏やかな声で囁いた。


「一両日中に研究室の人員が私の回収に来ると思いますので、このまま保護していただけると幸いです」


狙い澄ましたような言葉に、曹丕は頬杖をついたままくく、と嫌な声で笑んだ。

「回収、か」

司馬師は微かに頷き、その穏やかさのままぽつんと告げる。

「研究室の正確な方針は断言できません。おそらく私は射殺処分されますが、」


曹丕の笑顔が消えた。

司馬師がその機微を読み取れたかは、定かではない。

「その際に私は眼前の人物に迷惑をかけないように最大限努力します。水分補給をして頂いた事項に対しての返礼です」


返す言葉どころか、胸の内に抱く反応すら浮かんでこなかった。

どうやって厄介払いしようかを考えていた曹丕に、司馬師の言葉は十分すぎる痛撃だった。

やわらかい食べ物の中で硬い異物の一欠片を噛んでしまったような、口の奥から背筋へとぞっとしない電気が走る感触。

そのくせ、電気はしばらくの間微弱に彼の背を這いずった。


「殺されると分かっていて逃げ出したのか?」

軋むようなぎこちなさで、目を背けたまま曹丕は問うた。

目を合わす気にはなれないのに、異常心理の所以はなぜか知りたいと思った。

人のエゴイズムだけで吐き出された疑問に、アンドロイドは首を傾げ、純粋な思考回路で答えを組み立てる。

「‥分かりません。研究室の方針に従わない素体が殺処分されることは知っていたのですが、気が付いたら水槽を這い出ていました。処分されてもいいから、私は逃げたかったのだと思います」

流れるように語られた司馬師の心理に、曹丕は背けていた目だけを向けて口を噤んでいた。


目的もなく抱いてしまったあまりにも強く些細な欲求と、明確な目的の下に命じられる方針との乖離。


アンドロイドの少女は世界の何が不満で逃げ出したのか。

どうして、そんな下手くそな生き方で自らを射殺処分に追い込むのか。


‥‥お前に与えられた世界は、不自由なくお前を満たしているのに。


‥問いかけて気付く。

本当は自らがその理由を一番理解しているということに。


それもそのはず、何よりも彼自身が不自由ない世界で些細な欲求のために下手くそに生きた挙句、堕落に墜ちた荒んだ独身男だったからだ。


だからこそ、曹丕は司馬師の答えにならない答えに心の奥底で強く強く共感を抱く。

その瞬間、彼女は彼が過去に足を踏み外したのと同じ深淵の縁にいた。

彼女はいずれ自分と同じところに落ちる。


ただ異なるのは、死んだように惰性を生き続ける彼と違い、彼女は実験動物そのままに射殺されるということ。


事実は、逃げ出したがっていた男の背中に固い壁の感触をもって立ちはだかった。


袋小路で行き止まった男は、その足元で逃げ惑い薄汚れ冷たい地面に転がっていたなにかを拾い上げ胸に抱く。



「‥‥馬鹿以外の何者でもないな」



それは本当の彼自身に告げた羨みなのか、
アンドロイドの少女への憐憫なのか、
今はまだ誰も分からなかった。


**


「居座るならシャワーくらい浴びろ、道端に転がっていた汚い身体でいられるのは迷惑だ」

そんな暴言と一緒に司馬師を掴んだ手は、強引に彼女から白衣を奪い、浴室に放り込んだ。

裸は見慣れても自分の手でそれに触る気にはなれなかったから、全ての機器に手を触れるなと厳命してシャワーだけ浴びせてみる。

頭は幼児でも従順さは機械のそれだから、その部分に関しては唯一安心できた。

しかし、曇りガラスのドアにうっすら映る肌色は身体を洗うことを知らないから手持ち無沙汰に突っ立っているだけだ。

艶めかしい仕草なんて、素振りさえ見せない。

アンドロイドにも効くのかは分からないが、浴室の天井には表皮代謝を促す頭のいいスチームシステムがついているからあれでも多少は綺麗になっているだろう。

曹丕がドアの横に付いたメインスイッチを切ると、司馬師は突然止まってしまったシャワーに首を傾げ、しかし命令で制止された浴室内のスイッチに触るわけにもいかず、ずぶ濡れのまま立ち尽くしていた。

「‥出てくるという選択肢はないのか」

痺れを切らして、曹丕は浴室から司馬師を引っ張り出す。

手を取られ、とんとん、と軽やかな足取りで彼の目の前に立ち止まった司馬師は、身体から湯気を立ち上らせて無言で曹丕を見ていた。

上気して赤みを増した頬が、妙に幼くて小憎らしい。

「はあ‥お前を買い被りすぎていたようだ」

頭からバスタオルを被せて、粗雑な手つきでがしがし髪を拭く。

嫌々な感が露わになった、野菜でも洗うようないい加減さだった。

「帰納的思考は得意ではないので‥」

なすがままにされながら、司馬師は俯き、重たげな瞼を緩慢な動作で瞬かせる。

曹丕の筋張った大きな手が司馬師の背中を上から下へ撫でつけた。

ゆで卵みたく、力の加減を間違えたら肌がずるっといってしまいそうな、薄い背中だった。


不意に、司馬師の身体がぽすん、と曹丕の胸板にもたれ掛かる。

「‥‥おい」

低い非難の声を上げた時は既に遅く。

濡れた髪と身体がシャツにじわりと生温い染みを作った。

布の冷たさの向こうに感じる温度は、発熱する司馬師の体温そのものだろう。


「‥申し訳ありま、せ‥‥通常サイクルでは‥午前零時、を過ぎると‥肉体は強制的に休眠状態に‥なります」

司馬師は瞼の重みにほとんど負けつつある。

煙る湯気が彼女の視界を優しく遮った。

「お手数ですが‥室温の安定した場所に‥寝かせた状態で‥安静を、維持して‥頂けると‥」

そこまで言って、司馬師の言葉は途切れた。

同時に全身の力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

滑り落ちそうになった身体を曹丕がとっさに支えた。

掌をすり抜けて、バスタオルだけが床に落ちる。

生温さが腹部を覆う。

シャツの染みはもう開き直るしかない域に広がっていた。

「お手数だな、実際」

眉間の皺も収まらない鉄面皮のまま、曹丕は肩を揺らすほど大きく息を吐いた。

その腕の中で、司馬師はすやすや寝息を立てている。


華奢な肩にのし掛かる惨い現実全てを忘れたように。

嫌になるほど安らかに。


力の抜けた身体を抱き上げ、彼は無言のままドアを開けた。

面倒だからリビングに投げておいてやろうか。

ひねくれた性格は相変わらずだった。

しかし、荒んだ人間の内でまだ存在していたのが奇跡なくらい終ぞ使われることがなかった曹丕の中の良心のようなものが、ギリギリのところで彼の服の裾を引っ張る。


自分でも意外だ、と思うくらい。


彼は司馬師を手酷く扱うのを躊躇うようになっていた。


ああ嫌だ。

愚かしい。

思いつく限りの罵詈雑言で甘い自分を嘲りながら、曹丕は寝室のドアを開けて、薄暗い部屋のベッドに司馬師を横たえた。

裸の身体はまだしっとり湿っぽい。

マンションごと一括管理された空調はどの部屋の温度も湿度も一定の快適範囲に保ち続けている。

このまま放っておいても風邪を引くことはないだろう。

アンドロイドが風邪を引くのかは知らないが。


ようやく司馬師が静かに落ち着いたのを確認して、曹丕はその場を離れようとした。

とりあえず一服して、ソファで仮眠でも取ろう。

なんて、思いつつ離した身体がつっかえる。


「‥‥ちっ」

反射で舌打ちが出た。

いつのまの犯行か、曹丕のシャツを司馬師が掴んでいた。

湿って色が暗く変わった裾を、子供みたいなあどけない力強さで握り締めている。


表情こそ、他人事のような素知らぬ振りをしているくせに。

不安を知らないような寝顔を前に、独身男の心が折れるのは意外に早かった。


「鬱陶しい‥こういうタイプの女が一番嫌いだ」

負け惜しみのように毒づいて、曹丕はベッドに潜り込む。

先客の司馬師を腕と足でぐいぐい奥へと押しやって、隣で渋々横になる。


誰にも邪魔されず一人で広々寝そべるためにわざわざ買ったダブルベッドなのに、今夜のここは狭苦しい。

美女と愉しむホテルのベッドの優雅さもない、相手はアンドロイドだ。

せめて、あと五歳ほど外見年齢が大人なら、そういう気分にもなれたのだが。


「人の気も知らずに‥」

溜息混じりに囁いて曹丕は横目に司馬師を見た。

身じろいだ彼女は彼の方に身体を向けて、シャツを握り締めたまま「休眠状態」を保っている。


おもむろに、自らの腕を枕に曹丕も司馬師に向かい合ってみた。


滑り落ちたシーツを掛け直しながら、生乾きの髪に指を滑らせる。

ほんのり熱が伝わってきた。


何歳(アンドロイドの場合は作られて何年、と言うべきか?)なのかは分からないが、若く幼い熱。


アンドロイドの分際で、一丁前に生きている彼女の証。

司馬師の身体に染み着いて取れないのであろう、うっすら曹丕の鼻先を突く塩素のような薬品の匂いと相反するように、それは彼の神経を甘く痺れさせた。


‥この温もりは、深淵に落としてはいけない、と、思う。

荒んだ大人の価値観が、それは無理な話だと一蹴してもなお、兆した想いは振り払えないレベルまで深く深く根を下ろす。


曹丕は声にならない声で呟いた。


君を救えたら、俺も変われるだろうか。






…………
とりあえずここまで



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