學天則ファンタサイズ3
2012/12/24 00:29

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聞いた話によると前世紀、水道の水はカルキ臭くて飲めたものではなかったらしい。

発ガン性物質トリハロメタンを含有し、大抵の家庭は湯冷ましか浄水器に通したものを飲んだと伝え聞く。

いま曹丕の目の前で蛇口から流れる水はそういう白っぽい不純物の一切ない超純水だ。

世界の水問題は海水淡水化技術であっさり解決し、いわゆるROシステムの普遍化で極限まで滅菌濾過された純水がアフリカの砂漠でも太平洋に浮かぶ船の中でも口に出来るようになっている。

そう言えばこの国では一時期「国民の口腔衛生のため」という触れ書きで水道水にフッ素を投入する王立科学開発機構主導の動きがあったが、国民を使った体の良い大規模治験はフッ化中毒による子供の大量死であっさりなかったことになった。

とにかく、そういうことが行われる程度に高度化した水インフラだが、安全性の高まりも、硬度の固定化で不味いコーヒーしか淹れられなくなった曹丕には恩恵として実感できたことはない。

グラスに汲んだ水に、二グラムほど精製塩を注ぎ入れる。

グラム計量器付きの高機能瓶は独身男の頼れる味方だ。

マドラーで混ぜられた適当食塩水は粉雪舞う空のように白い粒がグラスの中で乱舞している。

味見はしていない。

塩しか入れていないんだからどうせ塩の味しかしないだろう。


面倒そうにグラスの上半分をつまむように持って、曹丕は渋い顔でリビングに戻る。

いつの間に少女はスーツと白衣にくるまったまま床に座り込んでいた。

体勢から見るに、起きようとしたソファから服ごと落ちて、テーブルとソファの隙間に身を起こしたのだと見た。

ついでに言うと他人のスーツを胸の下で皺だらけにしている自覚もないと見た。

「‥‥ほら」

少女は肩から白衣がずり下がって恥ずかしげもなく胸がさらしっぱなしになっている。

「手ずから労働してやったぞ、感謝しろ」

「ありがとうございます」

目の前のテーブルにグラスを置いて、返す手で皺だらけのスーツを掴み、すとんと肩に掛けてやる。

くどいようだが十歳以上年下の裸に興味はない。

しかし常時目に入れていて衛生によい物でもない。

曹丕は至って大人の余裕を演じながら自然に少女の裸を遮った。


不思議な少女がそんな独身男の解りづらい気遣いに気付くこともなく。

彼女は曹丕の手の動きだったり、グラスの中で揺れる水の流れだったりを忙しなく目で追いかけた。

何の飾りもない極々ありきたりの合成ガラス製グラス。

少女は顔を近付けてまじまじそれを眺めている。

それは初めて見る物に興味を示す猫や幼児の反応によく似ていた。

「‥飲まないのか。経口補給するのだろう」

まごつく少女に苛立ってきて曹丕が吐き捨てると、少女は言葉を噛み砕くように何度か頷く。

「経口補給‥はい」


そして、何を吹っ切れたのかそのまま口をグラスに近付けた。


曹丕がぎょっと瞠目する目の前で、少女は床に手を突いたまま、グラスの水面に直接唇を持って行く。


垂れ下がった前髪の先がグラスの中に浸かったが、多分解っていない。


病的に赤い舌がちろりと食塩水を舐める。

皿のミルクを舐める子猫のように。


それはかなり猟奇的な光景だった。


心臓が嫌な脈拍を打つ。

この餓鬼は何をやっているのだ。


信じられなくて、信じたくなくて、曹丕はとっさに身を乗り出して少女からグラスを取り上げた。


「‥お前は馬鹿か?」

万感が入り交じった悪態が思わずこぼれる。

突然の翻心に、少女は不思議そうに曹丕を見つめていた。

「仰る意味が分かりかねます」

呟いた口の端と前髪の先から水が垂れ落ちた。

雫がぷくりと膨れて白衣に丸い染みを作る。

うっすら太腿の肌色が透けて見えた。


―――恐怖だ。


言い得ぬ感情に曹丕は恐怖を覚えた。

グラスを持つ手が震えているのは、決して変な情欲ではない。

正気が保てなくなる、異様な光景へのある種の興奮のせいだった。


「その肩から伸びた二本の手を使用しないのは何故かと聞いている。お前は犬か」


丁寧な口調につられるように曹丕の口調も中途半端に慇懃無礼なものになる。

苦し紛れに吐いた毒さえ、それをものともしない少女の一言に覆される。




「私は有機アンドロイドです」




「‥は。」


曹丕の身体が一瞬凍り付いた。

ぱたり、乾いた音を立てて二つ目の雫が白衣に染みを描く。

「素体識別番号000-3027311-5379724-EM、珪素製フェムトマシン搭載型軍事用有機アンドロイド、トランスジェニック処置は既にステージW全工程を完了しています、コードネームは司馬師子元。レコンキスタ計画の一環として王立科学開発機構本部直属バイオインフォマス研究室で制作されました」

淀みのない言葉。

例えるなら機械の音声案内のようなどんな単語も平等に滑舌よく告げる声音。

記憶に残らない響きなのに、おぞましい言葉の連続は脳に直接焼きごてを押し当てるような苦痛を伴って曹丕の記憶に刻み込まれた。

巷の噂を思い出す。


王立科学開発機構は変態並みにトチ狂った天才の巣窟。

倫理観がぶっ飛んだ彼らは量産型クローン人間を朝飯前で使い捨てるという。


ならば、有機アンドロイドは。


曹丕はごくりと息を飲んだ。

「私は有機アンドロイドなので犬ではありません」

自らを司馬師と名乗った少女は、曹丕の恐慌も関知せず、今更なような訂正を入れる。

「‥寒さで脳をやられたということにしておいてやる」

殊更に冷静を装った曹丕は、嫌な想像を振り払うように静かにかぶりを振った。

「アンドロイドも水を飲むくらい出来るだろ」

「出来ます。が、眼前の人物に制止されました」

司馬師は少し不服そうな顔で曹丕を見返す。

何を非難されているのか分かっていない。

何か根本から思考が噛み合わないのを彼は痛感した。

「もういい‥口を開けろ」

曹丕は司馬師の隣に膝をつき、静かな命令口調で告げる。


「‥‥あ」

従順に指一本入るほどに小さく開いた唇にグラスの縁を乗せ、食塩水を流し込む。

「気が済むまで飲め、人間らしい方法でな」

「んっ、う‥‥んくっ」

半ば無理矢理傾けたグラスを相手に司馬師は拒む素振りも見せず喉を鳴らした。

薄い胸が上下する。

静かな部屋にはこくこくと水を嚥下する濡れた音と忙しない息遣いだけが煩いくらいに響きわたった。

あっという間にグラスは空になる。

どれだけ喉が渇いていたんだか‥。

色々な意味で曹丕は疲れた息をつく。

「解せん‥なぜ私がこんなことを」

司馬師がさっきまで眠っていた横長のソファに座り、床に座る彼女を見やる。

司馬師は微かに満足げな様子を見せて、ひくん、としゃっくりみたいに喉を鳴らした。

改めて思うが、完全に小動物だ。

一連の彼女の仕草は給水器に吸いつくウサギを連想させる。

「まさかとは思うが、檻で飼われていたなどとは言わんだろうな」

「檻というのは分かりかねますが、研究室では実験用水槽で冷温保存されていました」

「‥‥金魚扱いか」

聞くんじゃなかった。

曹丕は本日数え切れない回数目の後悔をした。

「重ねて申し上げますが私は有機アンドロイド‥あぅ」

「何度も言わずとも分かる」

同じ語調で繰り返す司馬師に辟易し、曹丕は一言遮るなり肩に掛けたスーツを掴んで頭に被せる。

暗くなった視界に驚いたのか司馬師はすぐ大人しくなった。


ふう、と息を整えて。


「生け簀の魚が何故道路で行き倒れていた」

「ですから私は有機アンドr「黙れ、次同じ答えを返したらベランダから落とす」

皮肉の通じない司馬師は曹丕が何か言う度にすぐ顔を上げる。

小憎らしい口を黙らせていたスーツも艶やかな黒髪を滑りすとんと落ちた。

不本意ながら、色気のない裸もだんだん見慣れてきてしまった。

「もう一度聞く。何故行き倒れていた」

白衣に絡まったまま司馬師は曹丕に向き直ると、淡々と表情を変えず問いに答える。

「脱走したからです。具体的には水槽を出て研究室を抜け出し貨物輸送コンテナに紛れて機構の敷地から脱出しました」

そこまで一息に語り、むずむずと白い身体を震わせながら司馬師は更に続けた。

「途中でコンテナを出て半日ほど歩きましたが目的も体力もなかったので意識を遮断し冬眠状態に入りました‥おそらくはその間に眼前の人物に保護されたのかと」

「ああ、間違ってはいないな。ただ私が聞きたかったのは脱走理由なのだが」

ソファの脇息に頬杖をついて、曹丕はうんざりと司馬師を見つめた。

アンドロイドとの会話は難しい。

何度も遠回りと回り道をしなければ、彼女は中々彼が要求する答えまで辿り着いてくれないのだ。

成る程情報の処理速度は速い。

ただ、漠然とした問いに対しては彼女は答えと思うものを必要以上の範囲まで推測して処理しているから、トータルの思考能力は幼児のそれといい勝負だった。

そして曹丕は幼い子供という特徴を持つ種族が大嫌いだった。

「分かりません、ただ何となく逃げようと思い立ったとしか」

「何だそれは‥」

餓鬼の家出に付き合わされた。

あんまりにもあんまりな司馬師の答えを聞いた瞬間、曹丕の機嫌はどん底をぶち抜き本日最低値を更新した。




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