學天則ファンタサイズ1
2012/12/24 00:18
1・都会の片隅の道路
夜十時を高級外車が走っていく。
雪の予報が出ている真冬の夜は澄み切って鋭利に暗い。
ドライバーは漆黒のレザーシートに身を沈め、左ハンドルを握る手は妙な余裕があふれている。
黒光りする高級外車は都会の夜景をボンネットに映して滑るように道路を疾走する。
クリスマスが近い街は淡い青のイルミネーションで飾りたてられていた。
摩天楼の中に一際高くそびえ立つランドマークには雪をイメージさせる光の粒がちらちらと降りしきる。
走り抜ける街灯の光がドライバーの横顔を白く照らした。
颯爽と駆ける高級外車の輝きとは裏腹に、ドライバー‥‥ハンドルを握る男の表情は重い。
端正な顔が憂鬱に曇り、苦々しげに本日数十本目の煙草をくわえた。
名前は曹丕。
御年二十七歳。
常に眉間に皺が寄って、異性に不自由しない精悍な容姿を持て余すようにふてぶてしく斜に構えている。
彼の職は身分上「会社役員」だ。
勤務しているのは世界的に有名な大手製薬会社、その薬学研究所‥所長のようなものを務めている。
ちなみに曹丕はバリバリの文系。
薬学どころか化学は高校受験レベルの門外漢、研究所勤務でもしていることは本社からやってきた幹部の食事相手と部下のプレゼンを聞いてゴーサインを出すだけの簡単なお仕事。
彼が「社長の御曹司」でなかったら余裕で首を飛ばされるレベルの給料泥棒だった。
本当はその程度の労働すら厭わしいのだが、現社長である父親と丸二日口論した結果曹丕が妥協した今の状態で落ち着いている。
勿論放蕩息子に父親が与えた代償は大きかったが、曹丕はそれすら淡々と黙認してみせた。
連日遊んでるのか働いてるのか分からないような時間を過ごす無為な職場を後にして、曹丕は愛車を飛ばし寄り道もせず自宅に逃げ帰る。
今日も取引先の重役を相手に好みでもないフレンチディナーに付き合わされていた。
だから曹丕の機嫌は悪い。
さっさと自宅マンションに引っ込んで、残り少なく短い夜を愛おしく抱え込んで一人の時間を過ごしたい。
それだけが寡黙な鉄面皮(二十七歳独身)が幸せを感じられる唯一のひとときだった。
今日は秘蔵のワインでも開けて鬱屈を晴らそう、曹丕は愚痴っぽく濁った煙を吐き出す。
ああ、億劫だ。
誰にともなくぶつけられた文句が口を突いた
―――矢先。
曹丕は視界に入ったモノに咄嗟にブレーキを踏み込んだ。
「‥‥っ!!」
煙草の灰が危うく揺れた。
時代は技術革新が進み今や車の大半が自動操縦機能(カーロボティクス)を搭載している。
優秀な機械は前方に障害物を察知すれば極端な話ヌイグルミを運転席に置いて百二十キロを出していようが車は直前で自動停止するが、曹丕はその機能よりも早く直感でブレーキに力を込めていた。
衝撃にがくりと身体が勢いよく前後に揺れる。
容赦なく締め付けるシートベルトに咳込みながら曹丕が顔を上げた
。危険運転注意のホログラフが明滅するフロントガラスの端、ヘッドライトに照らされた正面の道路。
何か白いものが道の真ん中に無造作に転がっていた。
轢き逃げ死体か。
荒んだ独身男の推測は実に毒っぽかった。
しかし実際死体でも踏み越えて通ったら共犯になってしまう。
何処ぞのベランダから落下した洗濯物でも不法投棄でも死体でも、蹴り飛ばしてでも退けないことにはここを通って帰れない。
自宅では秘蔵のワインが冷ややかな身体を露で濡らして待っているというのにだ。
曹丕は渋々煙草を灰皿に押し込みサイドブレーキを引いた。
エンジンはつけたまま、上着も羽織らずスーツ姿で降りたった夜は身を切るような寒さだった。
もしかしたら氷点下かも知れない。
痛いくらいの冷気を吸い込み、曹丕は不法投棄の白い塊に歩み寄る。
そして、絶句した。
「‥‥馬鹿か?こいつは」
白い塊は人だった。
幸か不幸かまだ生きている。
もし塊が死体なら荒んだ独身男は血も涙もなく蹴り飛ばしていた。
(実際それは犯罪だが彼は荒んでいるくせに大概の悪事をもみ消す権力という厄介な免罪符を持っていた、この世で一番性質の悪いタイプだ)
白い塊は百六十センチほど、白い布‥おそらく白衣にほぼ全身くるまったまま丸くなってアスファルトの上で倒れている。
しかもこのクソ寒い夜に素足。
怪我や轢かれた形跡もないことから簡潔に言ってただの行き倒れ状態だ。
「おい、邪魔だ」
曹丕はポケットに手を突っ込んだまま、無遠慮に行き倒れさんの肩あたりを足で小突いた。
むにゅ、と人間の肉の感触が革靴越しに伝わる。
柔らかさからして女だ、爛れた経験だけは豊富な独身男は即座に判断した。
「う‥ん‥」
女、と断定された行き倒れちゃんが身じろぐ。
白衣から覗いた黒髪が流れ素足がぴくぴく震えた。
さっさと起きろ迷惑防止条例違反者が。
曹丕は舌打ちしながら行き倒れちゃんを更に小突き回す。
荒んだ独身男は相手が女だろうが結構簡単に蹴りを入れる性格だった。
不意に小突く力の加減を誤り、あ。と曹丕が声をこぼす。
荒んでいようが根は礼儀正しい御曹司だった。
余程の事がなければ本気で蹴り飛ばすこともないのだ。
しかし不用意に蹴られた細い身体は、溶け落ちる氷山のようなゆったりした挙動で仰向けになった。
‥‥露わになった顔と身体に、曹丕は今日一番の嫌な顔をする。
行き倒れていたのは女、どころか少女だった。
冬の夜に丸裸の少女。
顔形は二十歳前‥下手したら高校生だ。
幼さを多分に残した可憐な寝顔は一見して美しくまず欠点が見当たらない。
だが、それより何より薄っぺらい白衣にくるまれていた裸体は異様なほど白い。
美貌より裸の肉体より、曹丕はその白さに目を奪われ、恐怖すら覚えた。
生まれてから一度も陽に当たっていないんじゃないかと思うような、いわゆる「アルビノ」的色合いの身体。
不謹慎な例えだが、それはまるで血が通わなくなった死体のようだった。
「‥ああ」
美少女拉致監禁事件の被害者か。
たまにそういうトチ狂った変態が虫酸の走るような事件を起こすからな。
意外にニュースに通じた独身男は行き倒れた全裸少女を見るなりそういう結論を叩き出した。
いくら美少女でも曹丕は十歳以上離れた女に興味はなかった。
全裸だろうが発展途上の肉体に欲情するほど異性に不自由もしていない。
変態の毒牙にかかりながらも(その割には傷一つないが)身一つで逃げ出した勇気ある少女の心のケアは警察にお任せしよう。
曹丕は至って他人事然とそこまで考えて、ふと違和感に眉を顰めた。
なぜ警察が来ない。
機械化が最大限進んだ「近未来」そのものの時代。
今や街はそこかしこを高性能カメラが死角なく監視している。
技術レベルと逆行するような古めかしい王政が布かれたこの国では「叛逆者や内通者を未然に防ぐため」に最新鋭の技術が用いられ、国による監視が常時行われている。
息が詰まるような話だが、実際のところ全うに暮らす一般人には何一つ不都合はないし、高性能カメラは画面内に異変を見つけると即座に警察に連絡を入れる。
例えば道ばたで泣く迷子の兄弟も路肩で眠りこけた泥酔者でも、三分すれば最寄りの警察が派遣され適切な処置を受けられるのだ。
息つく暇もない監視社会はそういうセーフティネットとしての側面から、割と便利に受け入れられていた。
だからこそ、曹丕は現状を訝る。
明らかに行き倒れている少女に、なぜカメラが気付かない。
この状態でまだ倒れて三分経っていないとでも言うのだろうか。
それとも、曹丕は理解しがたい仮定を腕組みしながら独語した。
「カメラがこいつを「人間だと認識していない」‥?」
じゃあこの少女は何なんだ。
息をして身じろぐ死体か。
随分な世の中になったものだ。
理解しがたいことだらけで、これ以上関わるのも気が重い。
曹丕は逃げたかった。
一刻も早くこの場を去りたかった。
早くも胸の内では後悔のレクイエムオーケストラが始まっている。
「‥うう‥」
少女がまた身じろぎ唸った。
細い眉が震え長い艶黒の睫毛が揺れる。
ほんの数センチに満たない感覚反応だが、背を向けた男の後ろ髪を引くには十分すぎる破壊力があった。
しばらく逡巡したのち、曹丕は盛大に舌打ちした。
「この‥雌餓鬼が」
毒づきながらも、足で白衣を少女に被せる。
本来外で出しちゃいけない部分を隠すと、曹丕はしゃがみ込んで少女を抱き上げた。
蹴り飛ばして無視した方が良いに決まっている。
見殺しにしたのがカメラに撮られていようが曹丕の身分なら何束か積めばもみ消せる。
それなのに。
曹丕は何故か冬の夜中に全裸で行き倒れた少女を拾ってしまったのだった。
抱き上げた身体は拍子抜けするほど軽い。
全身が細く引き締まり、余計な脂肪は全くついていない。
人に必要な最低限の脂肪量すらないのかも知れない。
わずかな胸の膨らみと二の腕と太腿にだけ、辛うじて女らしい柔らかさがあった。
芯まで冷え切った氷のような身体を姫君のように抱えて、曹丕は車の後部ドアを空いた指だけで器用に開く。
革張りのベンチシートに白衣に包んだ少女をぞんざいに放り込んだ。
俯せでお腹と顔が座席に直撃したにも関わらず少女は反応がない。
トドメだったか?
曹丕は嘯いてドアを閉めた。
吐いた息が白い。
スーツのポケットから煙草を取り出そうとして、肝心のそれを運転席に置いたままだったのを思い出す。
溜め息が続いた。
ふと、視界に白い物が横切った。
顔を上げ、曹丕は呟く。
「‥‥雪か」
果てのない闇夜に粉雪が舞い始めた。
天気予報は大当たりのようだ。
佇む曹丕に、スモークの効いた愛車の窓は中を見せてくれない。
正直、少女の反応などどうでもいい。
ただ、荒んだ心は珍しく安堵の心地を覚えていた。
曹丕は相変わらずの鉄面皮で運転席へ戻る。
座席に座ってまず煙草に手が行った。
行き倒れが後ろにいる?知ったことか。
白い煙がシートベルトを締める手にまとわりついて曹丕の姿を靄に霞ませる。
待ちくたびれたサイドを下ろし、ギアにやりかけた手が一瞬止まって、オート設定だったエアコンの温度設定ボタンに向いた。
適当に三十度くらいまで設定され、熱風が吹き出したと同時。
曹丕は愛車のアクセルを踏み込んだ。
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