魔女とヴァンパイア(笠黄)



これは黄瀬には言わなかったことだが、笠松は黄瀬の家族に殴られることは覚悟していた。
それで黄瀬が手に入るなら安いものだと。

「さっ、センパイ、どうぞ」

「おぅ、お邪魔します」

黄瀬の手で開かれた玄関扉をくぐった途端ふわりと鼻腔を擽った、胸焼けがしそうなほど甘ったるい匂いに笠松は微かに眉を寄せた。


―魔女とヴァンパイア―


長方形のテーブルを間に挟んで、左側に黄瀬の姉涼華、涼乃。右側涼華の正面に笠松、涼乃の前に黄瀬が椅子に座って数分。
腹をくくってしまった笠松は初めましての挨拶と共に菓子折りを丁寧に涼華へと手渡し、黄瀬より淡い琥珀色の瞳を真摯な眼差しで見つめた。部活で指示を出している時と同じように凛とした声で相手へと話を切り出す。

「ご家族に承諾も無く、事後報告になってしまい申し訳有りません。お宅の大事な弟さん、涼太君を生涯のパートナーとしてお嫁に頂きました」

「もちろん涼太君が魔女であることも承知の上で、死が分かつ時まで共に生きることも誓わせて頂きました」

「何の挨拶もなしにいきなりそんなことと、怒りを覚えるのは当然です。それでも俺には涼太君が必要で、大切にしたいと思っています」

ちらりと向けられた愛しいと告げる眼差しに黄瀬はパッと頬を朱に染めて、センパイ…と呟いてふにゃりと相好を崩す。
視線を涼華と涼乃に戻した笠松は真剣な表情で頭を下げた。

「どうか涼太君との仲を認めて下さい。――涼太君を俺に下さい」

既に貰ってしまっているが形式的に筋は通さなくてはならない。
頭を下げた笠松の視界に入らない所で涼華と涼乃は目線で会話を交わす。

「せ、センパイ!別にそんなことしなくても良いっスよ!」

黄瀬は黄瀬で笠松の隣でおろおろと、頭を下げた笠松に戸惑い、慌てた。

「よくねぇよ。一人息子を嫁に貰うんだ。ケジメはきっちりつける」

誠実さを表すような真っ直ぐな声音。揺るがない薄墨色の双眸。
緊張で張り詰めていた空気をふわりと涼乃が優しく笑って崩した。

「良い旦那さん捕まえたね、涼ちゃん」

「そうね、間違っても手放すんじゃないわよ」

「…姉ちゃん?」

くすりと笑った涼華に顔を上げてと言われて笠松は面を上げる。
認めてもらえたのかと知らず力が入っていた肩から力が抜けた。 それと同時に黄瀬家に足を踏み入れてから身体に絡み付くように漂っていた甘ったるい匂いが細波のように引いていく。

「意地悪してごめんね。笠松くんのことは涼ちゃんから聞いてたけど、やっぱり自分の目で確かめたくて」

そのことに微かに反応を返せば涼乃が苦笑して謝る。

「でも、それでこそ合格よ。私達の誘惑の力にも引っ掛からないし、涼太の力にも引き摺られない。貴方、相当精神力が強いのね。それとも涼太一筋だからかしら」

涼乃の言葉を引き継ぐように涼華が満足気に笑って笠松をからかう。

「そんなことないですよ。俺はただ…」

「ちょっと待ってセンパイ!姉ちゃん達も!センパイに何してるんスか!誘惑って、いつの間にセンパイに力使ってんスか!じゃなくて、その前に俺のセンパイに何してんスかっ!」

嬉しそうにしていた顔から一転、サッと顔色を青くした黄瀬が勢いよく椅子から立ち上がって捲し立てる。

「例え姉ちゃんでも笠松センパイは渡さねっスよ!」

そして全てを一息で言い放った黄瀬はぜぇぜぇと息を切らせながらも、笠松は絶対に離さないと、隣に座っていた笠松の頭をぎゅっと腕の中に抱き締めた。
思いもよらぬ黄瀬の行動に三人が呆気にとられたのも束の間 、涼華と涼乃はくすくすと笑い出す。笠松も自分の頭に回された黄瀬の腕を、落ち着くように言いながらぽんぽんと軽く叩いた。

「大丈夫だから椅子に座れ、黄瀬」

「でも、センパイ」

「本当に大丈夫だから。心配すんな。例え相手がお前のお姉さんでも、他の見知らぬ女子でも、今後俺が誘惑されんのはお前しかいねぇから」

「え…?どういう意味っスか?」

疑問符を飛ばす黄瀬を一旦椅子に座らせ、黄瀬と同じく説明が欲しいと笑いを納めた眼差しで訴えてきた涼華と涼乃にも笠松は説明する。

「これはヴァンパイアでもうちの家系だけかもしれないけど、…伴侶を持った笠松家のヴァンパイアは伴侶に定めた嫁から誘惑されることはあっても、その他のヒトから誘惑されることはないんです。だから例え誰かに誘惑されてもお前以外には反応しないし、応えることも絶対にない」

お前の血しか要らないのと同じだ。分かったか?と目線を流されて、黄瀬はぐっと押し黙る。

だって、それって、センパイは、俺しかいらないってことっスよね?

辿り着いた答えに、究極の告白に、じりじりと黄瀬の頬が赤く染まっていく。
こくりと一つ頷き返すのが黄瀬の精一杯だった。

うわ、うわわっ!嬉しいと、とくとくと心臓が震える。制御下にあるはずの魔女の力がふんわりと甘く漏れる。

「おい、どうした?大丈夫か?」

「あんまり大丈夫じゃないっス…心臓が」

そんな二人の様子をにやにやと涼華が頬を緩めて眺める。涼乃も微笑ましいとにこにこと見守っていた。

冷めてしまったお茶を涼乃が淹れ直し、お茶請けに出したクッキーに涼華が手を伸ばす。

「…あっ、そういえば、涼華ちゃん。うちにも確か何かあったよね?」

「ん?あー…魔女の呪い?」

「何ですか、それ?」

「姉ちゃん。俺、それ初耳なんスけど…」

のほほんとした穏やかな空気を取り戻したリビングに、再びおかしな空気が流れ出す。

「そりゃ涼太は知らなくて当然よ。まだ教えてないし、魔女の呪いはお嫁に行く魔女にだけ伝えられるものだから」

「でも涼ちゃんもお嫁に行くんだから教えてあげよう?笠松くんの場合は心配いらなそうだけど」

魔女の呪いと笠松にどう関係があるというのか。聞き捨てならない台詞に黄瀬は神妙な顔をして涼華の言葉を待った。

「涼太を見れば分かるけど、魔女って基本的に一途なのよ。私達にだって笠松くんは渡さないって涼太言ったでしょ?」

「うっ…まぁ…本当のことだし」

思い返して恥ずかしくなった黄瀬は涼華の笑みを含んだ眼差しにぷいと目を反らす。

「その分、嫉妬も強いの。独占欲って言うのかな?」

涼華の視線が同じく真面目な顔で話を聞いている笠松に向けられる。

「魔女の呪いなんて名前で呼んでるけど本来は魔女の祝福っていうの。魔女が心から愛した相手にかけるの。その相手と幸せになりますようにって想いを込めて」

さくさくと涼華は手に持っていたクッキーを咀嚼して、お茶に口を付ける。それから一拍間を空けて言った。

「それだけならまぁ、何も問題はなかったんだけど。時の流れのせいか何時しか魔女の力も弱まってきてしまって。あ、家は依然として強いけどね。そんなわけで、ヒトは魔女の力を持ってしても魔女を裏切るようになってしまったのよ。だから魔女は祝福と同時に相手に呪いをかけるようになってしまった」

「簡単にいうとお嫁さんにした魔女を裏切ったら、相手には重い罰が下るってことね。一途な魔女の純情を弄んだんだから当然の報いだけどね」

涼華の後を継いで穏やかな笑顔で言い切った涼乃に、黄瀬は背筋を震わせる。
涼華はともかく普段は温厚な涼乃にまで断言されて嫌にリアルに感じてしまった。その上、黄瀬にも心当たりがないとは言えなかったから余計だ。
笠松に告白する前から笠松の周囲にいるヒト達に、少なからず黄瀬は嫉妬を覚えていた。
だからといって笠松に重い罰が下るのは嫌だ。笠松以外のヒトならば可哀想だと思いはしてもきっと嫌だとは思わないのに。

笠松は今の話を聞いてどう思っただろうか。
自分の気持ちは笠松にとって重いのかもしれない。不安になって黄瀬は隣に座る笠松を見た。
すると偶然こちらを向いた笠松と目が合い、笠松はふっと薄墨色の双眸を和らげると口元を綻ばせた。

「俺は別に掛けられてもいいぜ。魔女の呪い」

「えっ、でも…罰が下るって。もし命に関わるようなことだったら…」

「大丈夫だ。俺は絶対にお前を裏切らねぇ。だからそんな心配する必要もねぇ」

「っ、せんぱい!」

ぶわわっと黄瀬の顔が一瞬で赤く染まる。
もう何回目だろう。嬉しさできゅぅっと胸が苦しくなって、笠松のストレートな愛に殺されそうだ。

「涼太が言ってた通り超男前ねぇ。あーぁ、涼太と出会う前に私が笠松くんと出会いたかったわ」

「涼華ちゃん…。でも、私も分からなくはないなぁ。涼ちゃん本当に笠松くんに愛されてるもんね。…良かったね、涼ちゃん」

涼華と涼乃の温かな眼差しに黄瀬は恥ずかしそうにしながらも嬉しげに頷く。

「父さんと母さんには私から言っとくわ。笠松くんなら大丈夫だって」

「うん。涼ちゃん、家のことは心配しないで笠松くんと幸せになってね。笠松くんも涼ちゃんのこと宜しくお願いします」

姉二人に認められて、隣で笑って頷く黄瀬に笠松は双眸を和らげて、もう一度涼華と涼乃に向かって頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございます。必ず涼太君と一緒に幸せになります」

「俺も…絶対、センパイと一緒に幸せになるっス!」

ふにゃりと蕩けた顔で笑う黄瀬に笠松も優しく表情を崩し、黄瀬から蜂蜜のような甘い香りが漂いだす。

「よし。そうと決まれば涼太。さっさと笠松くんに魔女の祝福かけて来なさい」

呪いというよりは祝福と言った方が良い甘い空気を纏いだした二人に涼華がズバリと物を言う。

「こういうのは早い方がいいわ」

「でも俺、掛け方知らないっスよ?」

「あっ、そうだったわね。涼乃、教えてあげて」

「ん、分かった。じゃぁ…その前に、笠松くんは涼ちゃんの部屋に移動してもらってもいいかな?」

魔女のみに伝えられる方法なら笠松が聞いていい話ではないだろう。涼乃の言葉に従って笠松は席を立つ。

「お前の部屋で待ってるな」

「はい」

隣にあった黄色い頭をさらりと撫でて、笠松は以前案内された二階にある黄瀬の部屋に向かった。








毛足の長いラグの上に座り、ベッドに寄り掛かって黄瀬の持ち物であるファッション雑誌を捲る。
笠松は然程ファッションに興味はないが、そこに載っているのが黄瀬ならば話は別だ。

「ふぅん…、格好良いじゃねぇか」

笠松センパイ!と笑顔全開でなついてくる顔とはまた違う、モデルとしての顔。挑発的な眼差しだったり、愁いを帯びた横顔。甘い笑顔に、少し大人びた顔。

「でも、黄瀬の一番良い顔はこんなんじゃねぇな」

笠松の知る黄瀬の一番は、ぺらぺらな雑誌に載るような顔では無くて、頬を赤く染めあげて蕩けるように笑う愛らしい笑顔だ。もしくは抜き身の刃のように鋭く、触れれば火傷してしまいそうなほど熱の籠った真剣な眼差しでバスケをしている時の黄瀬の顔だ。

「………」

そして程無くして笠松が頭の中で思い描いていた人物が笠松のいる部屋へと入ってくる。

「お待たせしちゃってスミマセン」

「いや…」

リビングで出されたお茶とお茶請けを持っていたトレイからローテーブルの上に下ろすと、黄瀬は心なしか緊張した様子で笠松を見下ろしてきた。

「…?どうした黄瀬?お姉さんに教えて貰ったんだろ?」

「はい…。それで、その…。センパイ、ちょっとベッドの方に座ってもらえますか?」

特に否やはなかったので笠松は開いていた雑誌を閉じてローテーブルの上に戻すと、言われた通り腰を持ち上げて、黄瀬のベッドに腰かけた。

「これで良いか?」

「っス」

見上げて聞いた笠松に黄瀬は頷きながら笠松の前まで歩み寄ると、笠松の正面で足を止め、ラグの上に膝をつく。

「黄瀬…?」

伏し目がちにしている黄瀬は目は笠松の瞳と重ならずに、笠松の喉元あたりをじっと見ている。
それからよく見ると黄瀬の耳はほんのりと赤く色付いていた。

「センパイ」

「ん?で、俺はどうすればいいんだ?」

「その…シャツ、脱いでもらえるっスか?」

ちらりと上がった琥珀色の瞳が、とろりと溶け出して蜂蜜色へと変わっていく。それに感化されるように笠松の瞳の奥にも紅い光が宿ったが、瞬きの間に消え失せる。笠松は蜂蜜色の瞳を見つめ返して、羽織っていた七分袖のシャツを肩から落とす。

「これもか?」

そして下に着ていたVネックの半袖Tシャツを引っ張って、笠松は挙動不審気味に視線を彷徨かせた黄瀬に聞き返す。

「それは…良いっス。俺がやるんで…」

「……?」

「じゃぁ、失礼するっス」

そう言って黄瀬は笠松が着ているTシャツに手をかけた。シャツを捲り上げれば、程よく鍛えられた引き締まった腹筋が露になる。
それこそ部室で着替える時に何度も見たことがあるはずなのに、場所や目的が違うとこうもドキドキするものなのか。
意識しないように、しないようにと、自分に言い聞かせるほど、余計に意識が目の前の肌に向かってしまう。

「〜〜っ」

かぁっと頭に血が上り、顔だけでなく、身体の奥からじわじわと全身が熱くなる。蜂蜜色の瞳の奥に紅い光がちらつき、甘い匂いに混じって微かに薔薇の芳醇な香りが黄瀬から滲みだす。

「っ、黄瀬…!お前…少しは力を抑えろ!」

黄瀬の薬指に填められている、魔力を制御する指輪が高まる力に合わせて小さく震える。

「すぐ済むんでちょっと待って下さい!」

呼び掛けられて我に返った黄瀬は慌てて笠松のシャツを胸元まで捲り上げると、目的を再確認する。

『いい、涼ちゃん?魔女の祝福の掛け方はね、相手の心臓の真上に指先でこう呪を描いてから口付けるの。そこから息を吹き込むように魔女の力を注ぎ込んで、おしまい』

簡単でしょ?と涼乃に教わった呪文を頭の中でなぞって、笠松の心臓の真上で呪文を描く。

『涼ちゃんは笠松くんにヴァンパイアのお嫁さんになる儀式をしてもらったんだよね?…それならこれも大丈夫だとは思うんだけど』

描いた呪文の上に唇を寄せる。
とくとくと、少し早めの鼓動を刻む笠松の心臓に息を吹き込むように想いを込めて魔女の力を注ぎ込んだ。

センパイ、大好き。これからもずっと一緒にいて。一緒に幸せになろう。
ぜったい、俺を離さないで。俺もぜったいにセンパイを離さないから。
センパイ、笠松センパイ。笠松 幸男さん…、俺の唯一のヒト。

「んっ…」

熱に浮かされた蜂蜜色の瞳をうっとりと細め、そっと唇を離す。口付けた笠松の胸元にすり寄るように頬を押し付けた。

これで笠松センパイは…俺のもの。

綺麗な弧を描いた唇から笑みが溢れる。
気付かぬうちに持ち上げられた笠松の手が、黄瀬の肩を強く抱き寄せ、ぐしゃぐしゃと黄色い頭をかき混ぜられる。

「センパイっ」

ぱぁっと嬉しさに華やいだ顔が笠松の胸元から上げられた。

「−−きせ」

応えた声は低く掠れ、絡んだ笠松の双眸はいつの間にか深い紅に染まっていた。
ぞくりと黄瀬の肌が粟立つ。
しかし、それよりも、なによりも。

「っセンパイ、どうしたんスか!?苦しいんスか!?」

黄瀬は大きく蜂蜜色の瞳を見開いた。
笠松は眉間にしわを寄せ、額に汗を浮かべていた。どことなく呼吸も荒く、黄瀬を見つめる眼差しも射るように鋭く切迫した様子だった。

「ばかっ、落ち着け。…大丈夫、だから」

「センパイっ。全然、大丈夫じゃないっスよ!」

おろおろと泣き出しそうになった身体を笠松はベッドに座ったまま強く強く腕の中に抱き締める。

「はっ…、本当、大丈夫だから。落ち着け…」

「センパイ…っ」

荒い呼吸のまま告げられても全然信用できない。笠松の苦しそうな様子に、黄瀬は笠松を支えながら何がいけなかったんだろうかと必死に考える。

「センパイの身体…熱い。もしかして俺の時みたいに俺の力とセンパイの力が反発してるんスか?」

「あぁ…、かもな」

「俺、どうしたら!」

「…一つ、…頼みがある」

「何スか?何でも言って下さい」

「お前の血…飲ませてくれ」

「血?血でいいんスか?他に何か…」

「ん。それで、多少は…良くなるはずだ。…多分」

黄瀬は急いで羽織っていたシャツをずらし、着ていたTシャツを下に引っ張ると首筋を露出させて、笠松の目の前に晒す。
あまり日に焼けていない瑞々しい肌に、その下で脈打つ血潮。黄瀬から立ち上る美味しそうな甘い匂いに、くらりと目眩がした。

これが欲しいと、喉が鳴る。

「っ…せ」

黄瀬が言った通り、魔女の祝福は笠松が黄瀬に施した吸血の儀式と同じ様な現象を引き起こしているのだろう。
黄瀬の力が笠松の中に入ってきた瞬間、小さな反発が笠松の本能を揺さぶった。
元来、魔女というは魔性の存在であり、ヒトを誘惑し堕落させる力を持つ。

直に身の内に流れ込んできた魔女の力により、理性で抑えていたヴァンパイアの本性が表へと押し上げられ、自分の意思とは関係無く薄墨色の瞳は一瞬で紅玉へと変化していた。本能が己の半身を求めて無意識に黄瀬を腕の中に閉じ込めていた。

「は…っ…」

だが、黄瀬から微かに香った自身の匂いが笠松の理性をぎりぎりの所で引き止めた。もしここで理性を手放していたら、きっと自分は後悔しただろう。
この腕の中にいる存在は笠松にとっての唯一で、愛すべき存在で、決して己の衝動のままに傷つけ、泣かせていい存在ではない。
そんなことは絶対にごめんだ。
黄瀬に触れる時はいつだって優しくしてやりたい。怖がらせることなく、甘くぐずぐすに溶かして、泣かせるなら嬉し涙が良い。
それでも眼前に晒された瑞々しくて健康的な肌に、ごくりと渇いた喉が鳴る。

「センパイ…、早く。苦しいんでしょ?」

中々動こうとしない笠松に焦れて黄瀬は促すように笠松の頭を両手で抱き締め、首筋へと引き寄せる。
更に強くなった誘惑の香りに笠松は本能に引き摺られそうになる意識を何とか保って、黄瀬の頭を優しく撫でた。

「っ、この…ばか」

人がせっかく優しくしようとしているのに。台無しにする気か。変なとこで思い切りがいいと言うか鈍感だ。

舌打ちを漏らして、首筋に唇を寄せる。
ピクリと反射で跳ねた肩を宥めるように首筋に口付けて、やわやわとその肌を唇で食む。

「あっ…」

これはもしかしたら反発というよりは互いの力が混じったことで相乗効果が起きているのかも知れない。
過敏に反応した黄瀬に頭の片隅でそんなことを思いながら、触れてしまったらもう止まらない。
極め細かい肌に舌を這わせ、その下で脈打つ血の道を辿る。

「んっ…せんぱい…、」

黄瀬の口から零れるあまやかな吐息とも声ともつかぬ微かな震えが、直ぐ側にある笠松の鼓膜を揺らす。
鼻にかかったようなとろりと溶けた甘い声に、これ以上ないぐらい美味しそうな匂い。
無意識にも全身でぐいぐいと理性を突き崩しにくる黄瀬に、笠松は急く心を抑え、そっと首筋に牙を宛がう。

「…きせっ、…俺の唯一」

「んっ…そうっ…す、おれは…せんぱいの…っす」

耳元で囁かれた言葉にふにゃりと黄瀬が笑み崩れる。

「っ、あんま、かわいいこと言うな」

ぐしゃぐしゃと黄色い頭を掻き交ぜることで込み上げてくる衝動を散らし、ゆっくりと柔肌に牙を突き立てた。瞬間、びくりと黄瀬の身体が跳ねる。

「っ…あ!」

じわりと溢れ出した甘い血を啜る。

「ん…っ…、ぁ…あ…あっ…せんぱい…ッ」

味わうように啜り上げた血を舌の上で転がせば、病み付きになりそうなほど芳醇で濃厚な良質の血に、腹の奥底がじわじわと満たされ熱くなる。身体が、心が、歓喜に震える。
そして、それに比例するように笠松の頭に回されていた黄瀬の腕には力が籠り、堪らないと閉じきれなくなった口から艶を帯びた声が零れ落ちる。

「…ふぅ…ぅ…、…ぁ…ン…」

「きせっ…、好きだ」

「ぁ…あ…せん、ぱい…、おれも…すき…っす…」

ぐっと膝に擦り付けられた熱に、落ち着きかけた体温が上昇する。
本人にそのつもりはなくともゆらゆらと膝に擦り付けるように揺れる腰が笠松を誘惑してくる。

「せんぱ…っ…ン…、は…っ、ぁ…あ、あつい…」

でも、もっと、きもちいいと…吐息混じりに耳元で囁かれ、ほんの少し尖った犬歯ががぶりと笠松の耳朶を噛む。

「−−っ」

ぴりっと疼くような甘い痛みが走り、次にちゅぅっと耳朶を吸われる。

…これ以上は危険だ。
冷静さを取り戻した頭が笠松に危険だと訴えてくる。
これ以上の吸血は黄瀬の負担になる。
魔女の性か、未だヴァンパイアの力に馴れていないせいか、どうやら身体は感じすぎるらしい。かくゆう笠松自身も吸血しただけで緩く反応を示しているが、今問題なのは黄瀬の方だ。
笠松は突き立てていた牙を抜くと、首筋にできた二つの穴に唾液を塗り込むように丁寧に舌を這わせ、穴を塞ぐ。首筋を伝い落ちる赤い滴を舌を伸ばして舐めとった。

「…待て、黄瀬」

耳朶から口を離した黄瀬の顔を覗き込めば、とろりと甘く溶けて潤んだ蜂蜜色の瞳と目が合う。

「んぅ…なんスか…せんぱい…?」

赤く染まった頬がむぅっとむくれるように膨らんだ。

「……かわいいな、お前」

「え、そうっスか?うれしいっス!」

ぱぁっと大輪の花が咲くように頬を染めたまま綺麗に笑った黄瀬に笠松はほぅっと見惚れる。
しかし、今はのんびり見惚れている場合ではなかった。

「…今日はここまでだ、黄瀬」

「えー、なんでっスか?おれならだいじょーぶっス!」

「大丈夫じゃねぇんだよ。目的忘れたのか?」

ぱちりと甘い蜂蜜色の瞳が瞬き、笠松の胸に浮かび上がった刻印を見る。通常のヒトから見れば何ら変わりない肌だ。

「えっと…せんぱいに俺のってシルシつけることっス!」

「ちょっと違うけど、そうだな。んで、それはもう終わっただろ」

「うっ…でも、俺…」

せんぱいが欲しいんスと、ごにょごにょと小さい声で続けられ、笠松はグッと言葉を詰まらせる。ざわざわと背筋を撫でるように駆け上がってくる誘惑の香りに細く息を吐いて、蜂蜜色の双眸を嗜めるように見つめ返す。

「色々と準備が出来てないから駄目だ。それに下にはお姉さん達だっているだろ?」

「いないっス!二人ともなんかこれから用事があるって言って出て行ったっス。センパイによろしくねって。ゆっくりしていって、って伝言ももらってるっス!」

「伝言って…、もしかしてその『ゆっくりしていって』って言ったの、涼華さんじゃないか?」

黄瀬の姉達に会うのは今日が初めてだが、何となく涼華さんの方の言葉らしく思えた。つまり、涼華さん達はこうなることを見通していたのか。思い切りの良さが黄瀬とよく似ている。

「そうっス。…せんぱい、なんで姉ちゃんのことは名前で呼ぶのに俺のことは名前で呼んでくれないんスか?」

さっきは涼太君って呼んでくれてたのに。
むぅっと再びむくれた顔をする黄瀬に笠松も再び可愛いなと口許を緩ませた。
さらさらと黄色い髪を撫でて、赤く染まった頬に右手を滑らせる。

「…涼太。これで良いか?」

「っス!」

名前で呼べば嬉しそうに破顔してぎゅっと抱き付いてくる。

「それでお前は俺のことセンパイって呼ぶのか?」

「っえ、あ…あの、…呼んでもいいんスか?」

「先輩だけど、今はお前の恋人だからな」

「じゃ、じゃぁ…ゆ、ゆきおさん。幸男さんって呼んでもいいっスか?」

「いいぜ」

だだし、学校の奴らがいないところでな。

「っス。…あの、幸男さん」

「ん、なんだ?」

「もう一つ…お願いしてもいいっスか?」

「言ってみろ」

「…き、キスして欲しいっス」

「ばーか。そんなのお願いしなくてもしてやるよ」

抱き付いてきたその背中を緩く抱き締め、鼻先に唇で触れる。それから額、瞼、頬に唇と、黄瀬の気が落ち着くまでふわりふわりと唇を落とした。

「ふへへ…、何かもうこれだけで幸せっス!」

「俺はお前がいるだけで結構幸せだぞ」

こうやって毎日二人で幸せを紡いで行こう。
今日はその第一歩の日だ。


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