偽りの綻び
ガタゴトと何やら物音が聞こえる。
ふと浮上した意識にぼんやりと瞼を押し上げれば見慣れない天井が目に映った。
「ん…、ここ…どこ?」
横たわっていた身体をゆっくり起こし、室内を見回す。薄暗い部屋に、枕元に灯る淡いオレンジ色の光。窓にはカーテンが引かれている。
どうやら俺は誰かのベッドの上で寝ていたらしい。
唯一の光源であるランプに目を向ければその側に時計が置かれていた。
「七時…?」
何時のと首を傾げて、眠る前の記憶が一気に蘇る。蘇った瞬間さぁっと顔から血の気が引いた。
「どこってここ、…まさか、玲士さん家!?」
やばい、ってことはコレ玲士さんのベッド!?
引いた血の気が逆流してカァッと顔が熱くなる。
誰も見ていないのに俺は後ろめたさを感じて慌ててベッドから下りた。
むしろ慌てすぎて枕を落としてしまった。
「――っ」
ばふっと床に落ちた枕を急いで拾い上げ、汚れなかったかとぱたぱたと叩く。
枕を元の位置に戻そうと手を伸ばして俺は…見てはいけないものを見てしまった。
淡い光に照らされたソレは、
「っ、やっぱり」
俺の胸を締め付けた。
ぎゅぅっと枕を握る手に力が籠る。
「そう、だよな。大人な玲士さんが俺なんか…」
シーツに浮かび上がる紅い口紅の痕。
初めて自覚した想いが叶わないと知った瞬間、ずきりと走った胸の痛みに視界が滲んだ。
俺は何で此処にいるんだろう?
枕を手にしたまま立ち尽くしていれば、俺の背後で静かに扉が開けられた。
「晴海…?起きたのか?」
優しいその声。
近付いてくる気配に俺は零れそうになる涙をグッと堪えた。
枕を元の位置に戻し、何でもない顔をして振り向く。
「ごめんなさい。俺、いつの間にか寝ちゃったみたいで」
「別に構わないよ。疲れたんだろう」
「それと、やっぱり俺、家に帰ります。じぃちゃんには俺が何とか…」
「晴海」
喋っている途中で遮られる。鋭く呼ばれた名前に肩が跳ねた。
「れ、玲士…さん?」
すっと頬に触れるように伸ばされた手。混乱していた俺は思わず身を退き、気付けばその手が触れてくることを拒否していた。
「…ここまで来て俺に触れられるのは嫌か?」
「え…ちがっ…」
自分のことでいっぱいいっぱいだった俺は向けられた双眸が鋭さを増したことに気付かない。
俺は玲士さんに触れられるのは嬉しい。けど、フリの為とはいえ玲士さんが俺に触れるのは嫌だろうと首を横に振る。
「だって、」
「だって?何だ」
低い声に先を促されて、俺は声が震えないようにぎゅっと唇を噛んでから口を開いた。
「玲士さん、彼女いるのに…。俺が家になんかいたら邪魔でしょ…ぅン!?」
話の最中にいきなり腰を浚われる。強い力で引き寄せられ、唇に噛み付かれた。合わさった唇に思考が追い付かない。
「ン…あっ…れい…さ…」
性急に唇を割って忍び込んできた舌に奥へと逃げた舌を絡めとられ翻弄される。
「ゃ…、まっ…ぁ…ン」
息継ぎもままならぬ濃厚な口付けに俺はすがるように玲士さんのシャツを掴んだ。
「ん…やっ…ぁ…」
そっと後頭部に添えられた手にますます逃げられなくなる。
くちゅりと絡まる熱い舌に口腔を愛撫され、足が震える。初めて感じる熱にどうしていいのか分からずただ俺は玲士さんのシャツを握り締めていた。
「れい…さぁ…ふっ…」
次第に呼吸も胸も苦しくなってきて視界が滲む。鋭く細められた双眸は俺を見ているはずなのに、何も言ってくれない玲士さんにとうとう涙が零れた。
「うっ…っ…ふ…」
どうして…?
なんで?
わけが分からなくて、悲しくてぽろぽろと涙が落ちる。
ずきずきと胸が痛くて熱い。
「ふ…ぁっ…」
最後に甘い痺れるような余韻を残して唇が離される。離れた唇をとろりと伸びた透明な糸が繋ぎ、ぷつりとゆっくり途切れた。
「ぅ…くっ…」
眦から零れた涙を一度離れた舌先が優しく掬いとる。
「泣くな」
今度は目元に優しく触れて玲士さんは強い口調で言う。
「何度も言うが俺に女はいない」
「でもっ…」
自然と口紅の痕を見つけた枕元へと目が向く。
つられて目を向けた玲士さんは眉を寄せ、俺の腰を抱いたまま片手で枕を退かした。
そしてシーツに残された痕を見つけて玲士さんは酷く低い声で忌々しげに舌打ちする。
「……佳奈の奴」
柄の悪さよりも俺は玲士さんの口から出た女の人の名前にショックを隠しきれなかった。
「だからっ、俺、もう家に帰り…」
「帰さない。帰せるはずがねぇだろ」
「え…?」
いきなり乱暴な口調になった玲士さんに驚いて涙が止まる。腰を抱かれたまま見上げた玲士さんは俺の知らない顔をしていた。
逃げられない頬に手が這わされる。
「可愛く嫉妬されて黙ってる男がいると思うか?」
「え…あの…」
間近から見つめられて心臓が全力疾走した後のように激しく乱れる。
心なしか頬に触れる手が熱い。
「佳奈は妹だ。昨日突然押し掛けてきて一泊して帰った」
その痕だろうと玲士さんはさらりと言う。
頬に添えられていた指がゆっくりと涙の痕を残す目元に触れる。
「いもうと…」
呆然と繰り返した俺に玲士さんはふっと男らしい笑みを浮かべた。
「安心したか?」
「う…」
ほっと息を吐いて、問われた言葉に頷きかけて俺ははたと動きを止めた。
気付いた自分の勘違いと言動にかぁっと耳まで真っ赤に染まる。
「ちがっ…これは…そうじゃないんです!」
「なにが?」
「その…あのっ…だから…」
腰に回された腕だとか、触れてくる手だとか、一気に意識してしまって頭に血が昇り過ぎてくらくらする。
忙しなく変わる表情に玲士さんはクッと低い笑い声を漏らした。
腰を支え直され、耳元に寄せられた唇が耳朶を擽る。そして甘く惑わせるような声音が耳の中へ流し込まれた。
「帰らないよな?」
「うっ…」
誤解は解けた。でも、俺は恥ずかしくて今すぐにでも此処から離れたい衝動に駆られた。
思いきり動揺して目元を赤く染めたままうろうろと視線をさ迷わせていれば、何だか逆らえない力強さで名前を呼ばれる。
「晴海」
それに俺は促されるようにこくりと頷き返してしまった。
「…っ…はい」
「良い子だ」
頷けば腰から離れた手がふわりと優しく頭を撫でてくる。まるで褒めるように何度か撫でたあと玲士さんは俺から離れた。
「それじゃ夕飯にしようか」
「…はい」
準備は出来てるんだと背を向けた玲士さんに俺はほっと息を吐き出す。
それでもまだ顔から引かない熱に、どきどきと煩い鼓動。
優しく撫でられた頭に右手で触れて、次に無意識に唇に触れる。まだ残る濡れた感触。激しく奪うような、それでいて甘く溶けるような…。
「〜〜〜っ」
生々しく思い返してボッと顔が熱くなる。
何でキスしたのかとか思うより先に羞恥に襲われ頭が回らない。
後をついて来ない俺に気付いたのか扉の脇で足を止めた玲士さんが振り返る。
待って、振り返らないで!
「晴海?」
「っ先に…行ってて下さい。後から、行きます」
真っ赤になった顔を見られたくなくて咄嗟に俯いた俺が言えたのはそれだけだった。
「………」
すぐに返るかと思った了承の言葉が返らないことで妙な沈黙が生まれる。顔を上げられないでいる俺の耳に小さくため息を吐く音が聞こえた。
「そんなあからさまに意識されると余計煽られる」
「え…」
呟かれた台詞に思わず顔を上げれば、体を反転させ室内に戻ってきた玲士さんと視線がぶつかる。交わった熱っぽい眼差しに寒くもないのにぞくりと背筋が震えた。
無意識に一歩後ずさり、足がベッドにぶつかる。
何だか危ない雰囲気を醸し出す玲士さんが俺のすぐ側で足を止め、自然な動作で手を伸ばしてきた時…間抜けにもくぅとお腹が鳴った。
「――っ」
あまりの恥ずかしさに俺は咄嗟に音の出所である自分のお腹を押さえる。
玲士さんは伸ばしかけていた手を自分の前髪に持っていくと、軽くセットしていた髪をくしゃりと崩して細く息を吐いた。
「早いとこ夕飯にしようか」
「…はい」
綺麗に払拭された怪しげな空気に安堵しつつ、俺は今度こそこの場から姿を消したくなった。どこか穴があったら入りたい。
そんなことを思いながら項垂れた俺の手を玲士さんが掬い上げる。
「リビングはこっちだ」
指先を絡められ、手を引かれるままに俺はリビングへと案内された。
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