寂しがり屋の猫とその飼い主(他校先輩×不良後輩)


忘れよう。忘れるんだ。
あの人はもう此処にはいない。
俺の手の届かない場所へ行ってしまったんだ。

俺を置いて…。

ぎちりと握り締めた拳が悲鳴を上げるのも構わず、俺は背を向け逃げようとした目の前の男に向けて拳を振り上げた。


◇◆◇


「おい、大丈夫か?生きてるか?」

ペシペシと頬を叩かれる感触に意識が浮上する。重い瞼を何とか抉じ開け、俺は不吉な事を口にする声の主を見上げた。

「ん…、瑛士(えいじ)先輩…?」

「お前はまたやったのか戒(かい)。ほら、立てるか?」

ソッと目の前に差し出された右手。ぼんやりしていた意識が急速に覚醒し、俺は差し出された先輩の右手をパァンと強く左手の甲で払った。

「…うるせぇ。アンタにはもう関係ねぇだろ」

地べたに座り込んだまま俺は見下ろしてくる先輩を睨み上げて言う。

(俺を捨てた癖に…)

地元では有名な私立高校のブレザーを身に纏う先輩に対し、俺は地元でも下位の位置にランク付けされている県立高校の黒の学ランを着ていた。
中学までは同じ制服を着ていたのに。ずっと一緒だと思っていたのに。

俺に喧嘩の仕方を教えてくれたのは瑛士先輩だ。

(けど、先輩は俺を置いていったんだ…)

払われた右手でがしがしと頭を掻き、先輩は俺を見て困ったような表情を浮かべる。その様子に俺はグッと唇を噛み、先輩を睨み付けたまま口を開いた。

「俺なんかといるの学校にバレたら不味いんじゃねぇの?…さっさと行けよ」

(もう俺に構うな。優しくするな。声をかけてくるな。…期待させるな。俺はもう一人でだって戦えるんだ)

最後は暴れた疲れからここで意識を飛ばしてしまったが、数時間前、俺に喧嘩を吹っ掛けてきた連中は全員返り討ちにしてやった。
痛む体で立ち上がりながら未だ去る気配を見せない先輩に向けて俺は言葉を重ねた。

「もうアンタが居なくたって俺はへい…っ」

しかし、その言葉は最後まで言わせてもらえなかった。いきなり足払いを掛けられて、踏ん張れなかった俺は次にくるだろう衝撃に目を瞑った。

「――っ」

ふわりと思っていた衝撃とは違う柔らかな感触と柑橘系の香水の匂いに包まれて息が詰まる。

「お前はまた何を勘違いしてるんだ」

そして間近から聞こえる低い声。恐る恐る目を開けば俺は先輩の腕の中に倒れ込んでいた。

「っ離せ…!」

「駄目だ。毎日そんなに体を苛めてどうするんだ。俺はお前の身を壊す為に喧嘩の仕方を教えたわけじゃねぇぞ」

「ンなのどうしようが俺の勝手だろ!…もう俺の先輩じゃねぇ癖に、先輩面してんじゃねぇよ!」

ドンと先輩の胸を強く押して突き放す。その手を、逆に先輩に取られてキツく握り締められた。

「痛っ…、離せよっ!」

「戒。言ってくれなくちゃ分からねぇこともあるんだ。何でもう俺がお前の先輩じゃないなんて話になる?」

柔らかな口調とは裏腹に手首を掴む先輩の手の力が緩むことはない。
戒…、と瞳を覗き込まれて、俺は込み上げてくる感情を我慢出来ずにぶちまけた。

「だってそうだろ!先輩はもう俺の先輩じゃねぇ!学校行っても会えねぇし、昼休みも、放課後も、先輩は学校の何処にもいねぇ!そんなのっ…」

「戒、お前…」

先輩が目を見開く。
俺を見て何か呟いたが俺には聞こえない。聞きたくない。だって、どっちにしろ俺が先輩に捨てられたことに変わりはないんだ。

溜めていた感情を一気に爆発させると俺は息も荒く、先輩の手から逃れようともがく。

「馬鹿だな、お前は」

そこへ先輩の変わらぬ穏やかな声が落とされた。

「俺はお前が後輩だからって可愛がってたわけじゃねぇぞ。そもそもただの後輩に身を守る術を教えるほど親切でもない」

「じゃぁ何でっ…!」

「戒、お前だけが特別だ。俺に会いたいなら暴れる前に俺を呼べ。声が聞きたいなら電話しろ。俺はいつだってお前からの連絡なら応えてやる」

掴まれていた手首を引かれ、抱き締められる。
顎をとられて、上向かされたと思ったら見下ろしてきた先輩の穏やかな双眸が一瞬鋭さを帯び、笑った。

「戒…」

「せん…っン…!?…ふっ」

開きかけた口を唇で塞がれ、鼻から抜けるような変な声が漏れる。ぬるりと容易く口内への侵入を許した舌に、奥へ逃げた舌を絡めとられゾクリと背筋に震えが走った。

「ん…ァ…っ…」

鼻から漏れる甘ったるい声に羞恥を感じて顔に熱が集まる。

「ンッ…ふ…っ…」

くちゅりと絡む水音に、透明な糸を引いて先輩の唇が離れていった。

「お前が可愛いこと言うから我慢出来なくなっちまったじゃねぇか。…これでもう本当に先輩じゃなくなったな」

くたりと力の抜けた体を先輩の胸に凭れるようにして預け、俺はのろのろと先輩を見上げる。
クツリと口端を吊り上げ笑った先輩はどこか機嫌が良さそうで、俺は先輩の言った言葉の意味が理解出来なくて不安気に瞳を揺らした。
するとそれに気付いた先輩がまた馬鹿だなと優しく笑った。

「俺の恋人になるのは嫌か?」

「こい、びと…?」

「お前は変に関係に囚われてるみてぇだからな。恋人になれば学校じゃなくても会えるぞ。好きな時に好きなだけ。もう我慢しなくて良い」

「それって…でも、俺、先輩に捨てられたんじゃ…」

呆然と呟けば、先輩は何だそれと顔をしかめる。
いつ俺がお前を捨てたと、眉を寄せて怒った。

「じゃぁ、何で学校…違うとこ…」

「あー、それはまぁ、少し将来を考えてだな。まさかそれでこんなにお前が寂しがるとは思わなかったが」

「――っ…はは、何だ、俺の勘違い?」

「もしかしてお前、最近それで暴れまわってたのか?」

「だって、苦しかったんだ。悲しかった、辛かった。…先輩に捨てられたんだと思ったら」

抱き締められてるのを良いことに先輩の胸元に顔を押し付け、零れそうになる涙を隠す。なんて格好悪い。

「ったく、お前は一人にするとろくなこと考えねぇな。俺がどれだけお前を大事に想ってると思ってんだ。ほら、教えてやるから家行くぞ」

「先輩ん家…?」

「もう先輩じゃない。瑛士だ、戒」

「えい…じ」

小さく先輩の胸元で名前を繰り返せば、良い子だと茶色に染まった髪を撫でられる。

「それから当分の間喧嘩は禁止だ。っても、出来ねぇか」

「……?」

「次は喧嘩の仕方以外の事を教えてやるよ。…お前にだけ、な」

俺に、だけ。その言葉が何だか強く心を揺さぶって、嬉しくて、自然と笑みが零れた。


◇◆◇


胸につかえていた苦しさは、喧嘩をしている間だけは忘れていられた。
けれどもうその必要はない。

喧嘩で痛めた拳を温かな掌が包む。その手に手を引かれ、俺は先輩の家へと足を進めた。



END.

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