02


「お前が子猫に餌をやってじゃれてる姿をな」

「っ、忘れろ」

「無理だな。…子猫以上にお前の方が可愛かったぜ」

煙草を唇に挟み立浪はにやりと笑う。

「あんな緩んだ顔も出来るんだな」

神楽は立浪の視線にいたたまれなくなり、ふぃと顔を反らすと椅子から立ち上がった。

「手当て、有難う御座いました」

そして床につけてももう痛まない足に神楽は御礼を言って立浪の前から去ろうとした。
だが、それよりも素早く腕を掴まれ神楽は引き留められる。

「神楽」

「な…っ」

椅子から立ち上がった立浪に、掴まれた腕を引っ張られて僅かに身を屈めた立浪の吐息が唇に触れる。

「ふ…」

やんわりと重なった唇は煙草の味がして。目を見開いた神楽に立浪は密やかに喉を鳴らすと唇を離す。

「礼ならこれで良い」

言いながら吸いかけの指に挟んだ煙草を神楽の唇に挿し込んだ。

「後はやる。煙草が欲しくなったら社会科教諭室に来い」

「……っ」

ぐしゃりと神楽の頭を撫で、神楽の唇に吸いかけの煙草を残して立浪は踵を返した。

「………」

保健室に残された神楽はじんわりと目元を赤く染めると、唇に挿し込まれた煙草を指先で挟んで口から離す。

「何なんだアイツ…」

ぽろりと煙草の先から落ちた灰が保健室の床を汚した。

その後神楽は教室に鞄を取りに行き、寮へと戻る前に校舎裏へと足を向けた。
銀杏の木の下に立ち、ぐるりと頭上を見回す。

「社会科教諭室ってどの辺だ…?」

立浪に指摘されて確認に来たのだが、神楽には肝心の部屋の位置が分からなかった。そうしている間に神楽の足元に子猫が寄って来た。

みぃと鳴く白と黒の模様が入った子猫に神楽はその場にしゃがみこむ。そっと出した人差し指で喉元を擽ってやれば子猫は気持ち良さそうにみぃみぃと小さく鳴いた。







それから数日後、神楽はわざわざ社会科教諭室の場所を仲間に教えてもらい、ふらりと気の向くままに足を向けた。

「足は治ったか」

「…どうも」

そして目的地に辿り着く前に神楽は立浪に遭遇していた。
茜色の光に横顔を照らされながら神楽は素っ気なく返す。

「ちょうど良い、来い」

放課後の廊下はシンと静まり返っており、人の意見を聞かない立浪に神楽は社会科教諭室に引き摺り込まれた。

机の上には乱雑に置かれた資料と思わしき紙の束に教科書。棚には授業で使う教材が収められており、何が入っているのか分からない段ボール箱等が部屋の片隅に置かれていた。

「適当に座れ」

言われて神楽は教材の棚の前に置かれていた椅子に腰を下ろす。立浪は部屋の中にあった小型冷蔵庫を開けると中から缶コーヒーを二本取り出して、その内の一本を神楽に向けて投げてきた。

「ほら」

「っ、どうも」

ひやりと冷たい缶を受け取り、神楽は机の前の椅子を引いて座った立浪を眺める。今日も盛大に襟元を開けたシャツに、大人の色気を纏う精悍な顔付き。
カシッとプルトップを持ち上げ、蓋を開けた立浪は神楽の視線に気付いて口を開いた。

「なんだ?」

「…別に」

なんだと聞かれても神楽自身答えを持っていない。何となく、この風変わりな教師を見ていただけだ。

投げ渡された缶コーヒーを開け、無言で神楽も口を付ける。
立浪から視線を外して茜色に染まる窓へと目を向けて、神楽はあ…と声を漏らした。

椅子から立ち上がり、窓辺へと足を進める。そこから窓の下の景色を見下ろして、ぎりぎりの位置で銀杏の木を視界に入れた。

窓辺に立った神楽の背後に立浪が静かに歩み寄る。

「見えるだろう?」

「………」

「お前が高等部に上がってきてからここでお前を見てきた」

肩を揺らし振り向いた神楽を立浪は窓に手を付き、腕の中に囲う。
鋭い眼差しに見下ろされ、神楽の心は喧嘩の時とは違った妙なざわめきに晒された。

「神楽…、お前には煙草よりも良いことを教えてやるよ」

艶を増した声で囁かれて、神楽は立浪の指先に顎を掬われる。
そして近付く距離に神楽は目を見開いたものの、あまり動じる様子も無く立浪の唇を受け止めた。

「ん…っ」

そっと唇を舐められて、生暖かい立浪の舌が神楽の口腔へと侵入してくる。

「んンッ…ン…」

硝子窓へと後頭部を押し付けられ、立浪に見つめられたまま舌と舌が深く絡み合う。

「…っふ…は」

二度目のキスは少し苦いコーヒーの味がした。

離れた唇同士を銀糸が繋ぐ。

「はぁ…っ、…んで?」

濡れた唇を立浪の指先に拭われ、神楽は立浪を見上げる。

「慣れてる風でもねぇし、お前こそ何で逃げねぇ?」

「……別に」

「気になるなら明日もこの時間に此処へ来い」

「………」

「神楽、返事は?」

「気が…向いたら」

囲われた腕の中から解放されて神楽は勿体無いとぬるくなったコーヒーに口を付ける。
逃げ出さない神楽を興味深そうに眺め、立浪は緩やかに口端を吊り上げた。

「そのうち煙草より癖にしてやるよ」

それから翌日も、翌々日も、何となく神楽の足は立浪の居る社会科教諭室に向かっていた。

「お前等、毎日つるんでるわけじゃねぇのか」

「皆自然と集まったりバラけたり、その時による」

「ふぅん」

立浪に会ってどうするわけでもなく他愛ない話をしたり。

「神楽、その資料纏めておけ」

「俺はアンタの助手でもパシリでもない」

「残念だったな。俺は使えるものは何でも使う主義だ」

時には立浪の仕事を手伝わされたり。

「来い、神楽」

毎回同じなのは最後に立浪からキスをされること。

「ン…ぅ…」

「だいぶキスにも慣れてきたな」

「んっ…はぁ…、なんで…」

「お前は元から俺好みだと言ったろう」

そして足を運んで何度目になるか、ようやく問い掛けに立浪が答える。

「こうして少しずつ教え込ませて俺色に染め上げていく。お前は最近、誘導しなくても俺の元に来るようになったな」

「っ…!?」

「無意識でもお前はもう俺からは逃げられねぇよ」

何故ならそう、俺がお前に教え込ませた。

耳元に寄せられた立浪の声に神楽はゾクリと背筋を震わせる。
でも同時に、それが嫌だと思わない自分がそこにはいた。



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