知らぬ間に


窓ガラスの外側から射し込む茜色の光が、人気の無い校舎の廊下を茜色に染める。
下校時刻を過ぎ、生徒達は校舎と同じ敷地内にある寮へとそれぞれ帰寮していく。

「っ……」

特別棟の校舎裏から出てきた一年、神楽 康介は渡り廊下から本校舎の中へ足を踏み入れると足首に感じた微かな違和感に眉をしかめた。

この学校は全寮制のエスカレーター式で悪習ともいうべきか嫌なことにどの学年にも不良染みたグループが存在する。上級生達は新一年へと上がってきた神楽達に、洗礼という名の脅しか、見せしめか、呼び出しをかけて力を振るってきた。

しかし、神楽のつるんでいる仲間、堂島を筆頭に皆喧嘩は手慣れたもので逆に呼び出した相手をものの数分で蹴散らしてしまった。その後は、自然とバラけるように解散して神楽は教室に置きっぱなしにしてきた鞄を取りにこうして校舎内へと戻ってきたのだった。

「………」

シンと静まり返った廊下を歩く神楽の横顔を茜色の光が照らす。
歩く度に違和感を訴え始めた右足に、神楽は視線を足元に落とした。

その耳に、向かいから誰かが歩いてくる足音が届く。
神楽は無言のまま視線を上げ、向かいから歩いてくる人物をちらりと見た。

やたら首回りを寛げた、スーツ姿の教師。さぞモテるだろうと思わせる色気を伴った精悍な顔。
神楽にとっては初めて見る教師だった。

ちらりと見ただけで視線を反らすと神楽はその教師と擦れ違う。教育指導という名の面倒な説教には捕まりたくない。

極力視界から教師の姿を外した神楽の鼻腔を微かな煙草の匂いが擽った。

(あ、これ…俺が持ってるのと同じ)

煙草の匂いだと、ぼんやり内ポケットに忍ばせている煙草のことを思い出して神楽は足を進める。

「――待て」

その背中へ、響くような低い声が掛けられた。
しかし、ぼんやりしていた神楽は聞き流して遠ざかろうとする。

「待てと言ったのが聞こえねぇのか、神楽」

「え…?」

名前を呼ばれて、そこでやっと気付く。足を止めて振り返れば、同じく足を止めていた教師が鋭い眼差しで神楽を見ていた。

「…何だよ」

視線が絡むと教師は神楽に近付いてくる。
誰だか知らないが神楽はまた説教かとうんざりした顔を隠さず睨み付けた。

警戒心も露に睨み付けてくる神楽に社会科教師、立浪 隆秋は怯んだ様子もなく神楽の側で足を止めると僅かに身を屈めた。

「……?」

神楽の顔を覗き込むように端整な顔を寄せ、すんっと小さく鼻を鳴らす。
その余りの近さと意味不明な立浪の行動に身構えていた神楽は戸惑いをみせ、いつものように拳を握れないでいた。

「やっぱりな。お前…」

屈めた身を起こし、瞳を細めて立浪は口端を吊り上げる。そして、今一この展開について来れていない、神楽のだらしなく開かれたブレザーの内ポケットに手を突っ込むと、中から素早くライターと封の切られた煙草の箱を取り上げた。

「あっ…!」

「持ってたな。お前から俺と同じ匂いがした」

「っ…、それで…説教でもするのか?」

言い逃れ出来ない状況に神楽は立浪を睨み付けながらも観念したように言葉を吐き出した。
立浪は神楽から取り上げたライターと煙草を自然なまでに自分の懐にしまうと、神楽を見下ろして顔をしかめる。

「何で生活指導でもねぇ俺が説教なんて面倒な真似しなきゃならねぇんだ」

「は…アンタ、教師だろ?」

「教師だからって面倒なことまで引き受けた覚えはねぇ」

「………」

初めて会う、他の教師とはどこか違う教師に神楽は沈黙する。
押し黙った神楽に立浪はいきなり話を変えてきた。

「そんなことよりお前、その右足はどうした」

「そんなこと…」

「また喧嘩か。放置しとくと悪化するぞ」

足元へ落とされた視線に神楽も釣られて足元に視線を落とす。
意識し始めると右足首のあたりがジクジクと痛みだした。

「……っ」

眉を寄せ、神楽は微かに息を詰める。
間近でその反応を眺めていた立浪は徐に神楽の腕を掴むと強引に引っ張った。

「来い」

「は?ちょっと、待っ…!」

「手当てしてやる」

ずるずると有無を言わさぬ力で神楽は立浪に保健室へと連行された。







茜色の光が差し込む保健室には誰もおらず、椅子に座らせられた神楽は立浪に右足を取られて湿布を貼った上からテーピングを施される。

「…手際が良いんだな」

保健室に連行される間に立浪の名前を聞き出した神楽は立浪の強引さに逆らうことを諦め、むしろこうして自分じゃしないだろう手当てまでされて大人しくしていた。

「普通のことだ」

「………」

出来たぞと満足げに言う立浪を神楽は不思議そうに見つめる。

テーピングって出来るのが普通なのか。そうか。

「なんだ、神楽」

ジッと見すぎていたせいか処置に使った道具を適当に片付けていた立浪に見返される。

「名前…、俺の何で知ってるんだ」

神楽と立浪が会うのは今日が初めてのはずだ。
しかし立浪はそんなことかと常識を教えるように答えた。

「お前等を知らない奴はいねぇだろ。学力はともかく、喧嘩が出来て顔が良い集団だ」

「………」

「中でもお前は俺好みだ」

頬へと伸ばされた手がするりと神楽の輪郭を愉しげに撫でる。その手を神楽はパシリと弾いて冗談と、立浪を睨み返した。

「それにお前、校舎裏の銀杏の木の下を喫煙場所にしてるだろ」

校舎裏の銀杏の木の下はちょうど校舎から死角になる場所で、高等部に上がってすぐ神楽が自分の縄張りとした場所だ。

堂島達ならともかく何故それを立浪が知っているのかと神楽は訝しげな視線で返す。

弾かれた手を懐に入れ、神楽から取り上げた煙草を取り出すとヒョィと箱の中から煙草を一本取り出し、立浪は口にくわえた。

「あそこはな、死角にみえてぎりぎり社会科教諭室から見えるんだぜ」

箱をしまい、変わりに取り出したライターでくわえた煙草に火を着ける。
人指しと中指の間で煙草を挟み、立浪はふっと唇を吊り上げると囁くように言った。

「お前、ここ数日あそこで随分と可愛いことしてるよな」

「な…っ」

言われた台詞に心当たりがあったのか神楽は一瞬で頬を熱くさせた。

「…見て…たのか?」

神楽はジロリと立浪を睨みつけ、感情を抑えた低い声で唸った。



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