彼と僕、アイツと俺


カタン、カタンと揺れる電車。
窓から射し込むオレンジ色の柔らかな光。

いつも座席には座らず、扉付近にある銀の手摺に気だるげに身を凭れさせている彼。
地毛か、染めたのか分からないが茶髪に黒い瞳。大きく開いた胸元にはシルバーアクセ、片耳にはピアス。

僕はいつもその姿を開いた文庫本の隙間から眺めている。

どこの誰とも知らぬ彼。
僕とは違う学生服で、学生だということは分かる。
そして見た目に反して優しい人だと…それだけを僕は知っていた。

カタン、カタンと緩やかに電車は速度を落としていく。
次はもう僕の下りる駅だ。

手にしていた文庫本に栞を挟み、鞄の中へとしまう。

僕が彼の優しさを知ったのは本当に些細な出来事からだ。

電車が停車し、扉が開く。
座席から立ち上がった僕は彼の横を通り抜け、ホームへと下りる。

僕の背後で扉はゆっくりと閉まり、電車は再び緩やかに走り出す。
いつもはそのまま歩き出してしまう僕はこの時、ふと彼が気になり背後を振り返った。

「ぁ……」

交差する視線。
一瞬だったけれど彼は僕を見ていた。

電車の起こす風に髪を揺らしながら僕はじわりと頬を熱くさせる。

目が合った、たったそれだけのことで僕は馬鹿みたいに嬉しくなって、一度きり、聞いたことのある彼の声を脳裏に蘇らせた。

『おい、お前。落としたぞ栞』

電車を下りる時、いつの間に落としたのか僕は本に挟んでいた栞を落としていた。
それを彼が拾ってくれた。
掛けられた彼のぶっきらぼうな声を思い出し、僕は微笑む。

何てことはない些細な出来事。
けれど僕にとっては大切な一瞬。

僕は彼に恋をしていた―…。







カタン、カタンと加速を始めた電車はアイツの下りた駅から遠ざかって行く。
流れる景色を瞳に映しながらも、俺は意識の上では別のものを見ていた。

「なんで…、振り返った?」

名も知らぬアイツ。
いつも帰りの時間は同じ電車で、同じ車両の同じ座席に座って文庫本を読んでいる。

ちょっと跳ねた黒髪に、男にしては大きな黒い瞳。学生服を着ていることから学生だとは分かるが、それが中学か高校かまでは分からない。

ただ一度、その声を聞いたことはある。
それはアイツがいつも読んでいる文庫本から栞を落とした時。

アイツが気付いていない様子だったので俺が拾ってやった。

『え?あっ…、ありがとうございます』

まだ声変わりしていないのか男にしては割と高めの声。けれど女の発する甲高い声の様に耳障りでもなく、耳に心地好い柔らかな声。

おまけに俺を見上げてアイツはふんわりと優しく笑った。
学校では俺に近付こうとする奴は少なく、笑いかけてくる奴なんて限られている。

そんな俺に、初対面のアイツは笑いかけたのだ。
その顔が未だ脳裏に焼き付いたかのように鮮やかに俺の中に残っている。

今も、ほんの一瞬交わった視線にアイツの驚いた顔が浮かぶ。

初めて見た、…驚いた顔。

他にも色々な表情を見たい。
他にも色々な表情を…俺が、させたい。
いつしかそう思うようになっていた。

どこの誰とも知らぬアイツに、たったの一度だけ向けられたその笑顔に。
俺は惹かれていた―…。

カタン、カタンと電車は緩やかに減速し次の停車駅で停まる。
凭れていた手摺から体を離し、俺はホームへと下りた。

また明日、同じ電車に乗れば会えるか…と心の中で思いながら俺は家路へと足を進めた。



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