温かい夜


覚えているのは二人の背中。そして、告げられる台詞も決まって同じ。

“良い子にしてるのよ”
“皆に迷惑をかけないようにな”

そう言って両親は広い屋敷にいつも幼い子供一人と家政婦を残し長期の仕事へと旅立って行く。

〈良い子にしてれば早く帰ってきてくれる…?〉

始めのうち、子供は両親の言い付けをきちんと守っていた。
そうすれば両親が早く帰ってきてくれると信じて。

しかし…、両親は子供の入園式にも卒園式にも、小学校への入学式にも卒業式にも帰っては来なかった。代わりに、味気無い手紙とプレゼントが人伝に送られてきただけ。

〈和成坊ちゃま、奥様から中学校への入学祝いが届いておりますが…〉

〈あぁ、ありがとう君枝さん。後で見るからいつもの所に置いておいて〉

〈畏まりました〉

その頃になれば子供も薄々気付いていた。いくら良い子にしていても両親は帰ってきてくれないんだと。

両親の言葉を信じて周りに迷惑をかけぬよう寂しいとも口にせず、ただただ良い子にして両親を待っていた子供はあまりにも純粋で真っ直ぐすぎた。

家政婦の君枝を家に帰した日の夜。
和成は母親から送られてきた入学祝いを手に小さく笑った。

〈ははっ…何か、俺って馬鹿みたいだな〉

《……そうでもねぇさ》

〈―っ、誰だ…!〉

視線を鋭くさせ室内を見回しても広い屋敷の中には自分一人しかいない。

《そう怯えるな。俺は…お前だ》

〈俺…?〉

子供の心は静かに緩やかにバランスを崩し始めていた。






〈2年1組 閑ヶ原 和成(シズガハラ カズナリ)。君を生徒会長に任命する〉

何かと大変だとは思うけど、頑張って欲しい。

そう言って和成が前の生徒会長から役職を引き継いだのは今から一年前になるか。

和成は副会長が淹れてくれた紅茶に口を付け、端整な顔をしかめた。それは決して紅茶が不味かったからでは…ない。

テーブルを間に挟み、向かい側に座った風紀委員長も同時にカップを傾け片眉を上げた。それは決して…。

カチャリとソーサーに戻されたカップが音を立てる。

「それで」

「アレは昨日、とうとうお前の親衛隊と衝突した。器物損壊に暴力行為、自分は悪くないの一点張りで被害は拡大する一方だ。もはやアレは風紀の手に終えそうにない」

もたらされた報告に和成は風紀委員長を見返す。

「それならやっぱり俺が直接…」

「止めておけ。お前が会えば行為は尚更エスカレートしかねん」

「……っ」

「そんな顔をするな閑ヶ原。お前は悪くない。間違ってなどいない。それは皆が理解している」

理解していないのはあの編入生だけだ。

「お前はただ職務として編入生を迎えに行き、案内と学校説明をしてやったに過ぎない」

それを優しくされただの、自分だけが特別扱いされただのと過大妄想も甚だしい。

「典型的なストーカーだな」

風紀委員長は嘲るように唇を歪めた。

「すまない、椚(クヌギ)。迷惑を…」

俺のせいで皆に迷惑をかけているな。

「何度言えば分かるんだお前は。閑ヶ原は悪くない。アレの処理は風紀でするから、それが終わるまでお前は暫く身を隠しておけ」

「会長。僕もこの件は椚に任せた方が良いと思います」

各席に着き、仕事をしながら二人の会話を聞いていた副会長や会計、書記も風紀委員長の言葉を支持した。







暫く身を隠せと言われた和成は校舎から離れ、一人、寮の自室に帰って来ていた。

「…やっぱり駄目だ。このままじゃ。椚にばかり負担をかけて」

《止めとけよ。アイツが任せろと言ったんだ。お前は大人しくしていろ、和成》

呟いた独り言に返事が返される。自分以外誰もいない部屋。和成は頭に響いた声に落ち着き払って答えた。

「カズ…、そうは言っても元はと言えば俺の」

《お前の性格が招いたことだな》

幼少期に形成された良い子であること。それが人と接する上で過剰な優しさとなって現れる時がある。更に和成は周囲に迷惑をかけること極端に嫌い、何でもかんでも一人で背負い込む癖があった。

《ったく、何の為に俺がいると思ってんだ》

「カズ…」

《寄越せよ、お前の荷物。俺がなんとかしてやるから》

「…っ、駄目だ。カズにばっか苦しい思いさせたくない」

《何言ってんだよ。俺はお前を守る為に居るんだぜ》

和成が中学校へと上がる頃に生まれ落ちたもう一つの人格、カズ。

和成の声なき声、想いを聞き届ける為に生まれた。誕生の日、カズは寂しいと泣いていた幼い和成の心を胸に抱いて眠った。それ以降、広い屋敷に取り残されていた和成に常に寄り添い、高校入学と同時に屋敷を出て入寮した和成にもカズは変わらず寄り添っていた。

「カズ…俺…」

和成が何か言いかけるのを遮るようにポケットに入れていた携帯電話が鳴る。
着信画面を見れば椚 宗一郎と表示されていた。

《出てみろ》

「ん…」

何だと思い電話に出てみれば椚らしからぬどこか焦った声が耳に飛び込んできた。




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