02
とぼとぼと…、足取りも重く岩倉組の屋敷から離れる。もう二度と此処へ来ることもないだろうと沈んだ心が無意識に思い出の地を辿る様に動く。
カバンの中にしまったままのぬいぐるみ、レオンをそっとカバンの中から取り出し、腕の中に抱く。その毛並みを整えるようにたてがみを撫でて、ぽつりと言葉を落とす。
「…やっぱりダメだったよ、レオン。せっかくお前から勇気をもらったのに」
何でかな?胸が苦しい。
涙が零れそうになる。
「でも、ちゃんと父さん達のお墓の場所は聞けたし。これで良かったんだよ」
確認する様に口に出して言い、零れそうになる感情を何とか堪える。
「…うん。これで良かったんだよ」
寛兄ちゃんだって、今更僕と会っても困るだけだし。きっと、これで良かったんだ。
「そうだよな、レオン」
当たり前だが返事は返らない。
その間も屋敷から遠ざかる様に無意識に足を動かしていた。だが、
「あ…」
とある道の途中でぱたと足が止まる。
止まった足の前には、何となくぼんやりとだが見覚えのある道。周囲をコンクリートで固められた住宅地の中にあって、そこだけ取り残された様に浮いている。異質な空間。昔は何とも思わず、逆にその異質さに好奇心を刺激され、飛び込んだ道。今だから分かる。少し上を見上げれば、そこには色あせた鳥居がある。住宅と住宅の狭い隙間に存在する飛び石の敷かれた道。僕はふらりとその中へ誘われるように足を踏み出していた。
その数分後、その道の前を僕を追い払った怖い男の人、顔色を蒼褪めさせたゴウが必死の形相で周囲を見回しながら駆けて行ったことなど僕は知らない。
細く長く奥へと続く飛び石を歩いて行けば、色あせた鳥居と同じように色あせて所々苔むした狐の石像が左右に現れる。更に奥には小さいながらもお社が見えた。
「ここは…」
見た目は古びてはいるが、ちゃんとお参りをしている人がいるのか、お社の前に備えられた花は瑞々しく咲いており、お社の屋根に掛かるように大きな枝が右側から張り出している。
「ここ…僕、来たことある」
そして、その張り出している大きな枝が桜の木であることを僕は知っていた。
何故なら…。
お社の側に近付き、それから桜の木の方へと進む。表から見えない部分、桜の木の裏へと回る。そこには大きな空洞が存在していた。ちょうど小さな子供が隠れられる大きさだ。
そう、あの日は何だかいつもより家に帰りたくなくて、屋敷の中で駄々を捏ねて、しまいには連れ帰ろうとする大人達から逃げるように屋敷を飛び出してこの場所まで来ていた。その日より少し前に見つけた隠れ場所。寛兄ちゃんとしたかくれんぼで発見した僕の秘密の場所。
「ふふ…懐かしいなぁ。でも、結局、寛兄ちゃんには見つかっちゃって秘密の場所じゃなくなっちゃったっけ」
もう隠れることも出来ない、桜の木の裏側にしゃがみ込んで、ぬいぐるみのレオンを胸に抱く。
「凄いよな、寛兄ちゃんは。僕が何処に隠れても必ず見つけちゃうんだから」
何故だか口に出した言葉が小さく震える。
「あの後、凄い怒られて…怖かったなぁ」
屋敷から飛び出すなんて、危ないだろうと。せめて屋敷の中だけにしろと。
優しい寛兄ちゃんしか見たこと無かったから、あの時は本当に怖かった。
「…大泣きしたな」
わぁわぁと声を上げて。そうしたら、今度は優しく分かったなと、頭を撫でられ、腕の中に抱き上げられた。
「ふふ…っ」
じわりと目じりに滲んだ雫が胸に抱いたレオンのたてがみを濡らす。
「……帰らなくちゃ」
いつまでもここにいても仕方がない。
あの人の言うように僕には僕の帰る場所がある。明日からまた仕事だし、自分の事は自分でしなくちゃ。
いつまでも思い出の中にはいられない。
そう頭では思うのに中々身体が動かない。
心がこの場から離れることを拒否する。
桜の木の下でレオンを胸に抱いたまま動けない。
「…帰らなくちゃダメなんだ」
もう一度そう呟いて、足に力を籠める。
――その背中に低い声が被さった。
「ようやく…見つけたぞ、翼」
「っ!?」
その声に、動かなかった身体が嘘の様に反応し、ぱっとその声の持ち主を振り仰ぐ。
「あ…」
つり目気味の鋭い眼差し。赤茶色の短い髪。記憶の中の青年より、身体はがっしりとしていて、精悍な顔立ち。身長は自分が成長した分その差は縮まったが、埋まるほどでもない。
重なった視線に、呼ばれた名前に、心が震えて、自然と自分もその名を呼び返していた。
「寛兄ちゃん」
つり気味の鋭い眼差しが僅かに揺れ、視線が身体の上を滑る。その視線が胸に抱いたぬいぐるみで止まり、その存在を思い出して僅かに恥ずかしくなる。いい歳して、まだぬいぐるみを抱えているなんて。
「あの、これは…」
しかし、ぬいぐるみの事には触れられずに距離を縮めてきた寛兄ちゃんがしゃがんだままだった僕の前に膝を着く。仕立ての良さそうなスーツが汚れてしまうと慌て出した僕の言葉を無視して寛兄ちゃんが手を伸ばしてくる。昔、そうしてくれた様に大きな掌が僕の頭の上にぽんと乗せられ、優しい声が落ちてくる。
「今度はずいぶんと長いかくれんぼだったな」
「っ…、か…兄ちゃ…」
言葉を返そうとして、何故だか胸が詰まった。込み上げてきた涙が言葉の代わりの様にぽろぽろと目じりから溢れた。
「翼」
そして、膝を着いた寛兄ちゃんに胸に抱いたレオンごと強く腕の中に引き寄せられる。
「寛…にい…ちゃん」
その温かさに余計涙が込み上げてくる。
どうしちゃったんだろ、僕。子供みたいに泣いて、格好悪い。
そう思うのに涙が止まらなかった。
「翼。…翼、もう大丈夫だ。大丈夫だからな」
頭を撫でられ、子供のようにあやされる。
何がもう大丈夫なのか分からないけれど、寛兄ちゃんの言葉は魔法の様に僕を安心させてくれる。僕はただ寛兄ちゃんの腕の中で涙をこぼしながらうんと頷き返した。
それからゆっくりと腕を解かれ、まるで小さな子供の様にすんすんと鼻を啜り上げていた僕は突然襲ってきた浮遊感にわっ!と声を上げる。
「重いな…」
「か、寛兄ちゃん!?」
気付けば僕は寛兄ちゃんの腕の中で、横抱きに抱きあげられていた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「僕、重いから!下ろしてよ」
子供の頃はよく抱き上げてもらっていたが、それは本当に小さな子供の頃の事で。僕はもう十八歳だ。成長した分、重いのも当たり前だ。
だが、寛兄ちゃんは僕と視線を合わせると優しく瞳を緩めて、僕の言葉を封じてしまう。
「それも含めて今のお前を感じさせてくれ」
「う…っ、な…に、それ…」
「翼」
僅かに甘さを滲ませた低い声が鼓膜を揺らす。先程からずっと近い距離で掛けられた声に、何だかじわりと体温が上がる。とりあえず、僕は寛兄ちゃんの腕の中から転げ落ちないようにと控えめに寛兄ちゃんのスーツの胸元を握りしめた。
するとふっと上から小さく吐息が零され、僕の額に寛兄ちゃんの唇が落ちて来た。
「もうかくれんぼは終いだ。帰るぞ、翼」
額に触れた唇よりも囁かれたその言葉に僕は衝撃を受け、無意識に寛兄ちゃんのスーツを握る手に力を込めていた。
「そうだよね…。帰らなくちゃ」
「ん?…どうした翼?」
せっかく会えたけど、寛兄ちゃんとはもう「さよなら」しなきゃ。
俯いて黙り込んだ僕を抱えたまま、寛兄ちゃんはお社のある道を後にする。
もう少し、この飛び石を抜けたら、寛兄ちゃんともお別れだ。そんなの…
「…やだ」
「翼?」
「僕、まだ、帰りたくない」
子供の我儘か。それともホームシックか。帰らなきゃと、寛兄ちゃんを困らせてはいけないと頭では分かっているのに。…口から零れた言葉は取り戻せない。
「帰りたくない?翼は…帰りたくないのか?だから…」
今まで姿を見せなかったのかと、寛寿は冷めていく心を内に隠して己の腕の中で俯くその存在に努めて優しく問い返す。だが、その口から出たのは思いもよらぬ返事であった。
「寛兄ちゃんと一緒にいたい」
「…っ」
「せっかく会えたのに…。でも、帰らなくちゃ。明日、仕事だけど…、まだバイバイしたくない」
あぁ、本当はこんなこと言うつもりはなかったのに。寛兄ちゃんの前だと素直に喋ってしまう。甘えてしまう。十八歳にもなって、子供みたいだと寛兄ちゃんもあきれてしまうだろう。
「……翼」
とうとう飛び石の敷かれた道を抜けてしまった。ここでお別れだ。
僕は寛兄ちゃんが地面に下ろしてくれるのを腕の中でじっと待つ。だが、いくら待ってもその時は来ない。
むしろそのまま住宅地の中を寛兄ちゃんは僕を腕の中に抱き上げたまま歩き続ける。
「寛兄ちゃん?」
そろりと腕の中から顔を上げて、寛兄ちゃんを見れば寛兄ちゃんは何故か嬉しそうに笑っていた。何でと、混乱し始めた僕の視線に気付いたのか、寛兄ちゃんは瞳を細めて緩く弧を描いた唇で子供にも分かるように優しく言ってくれた。
「お前のいう仕事が何か知らないが、それはもうしなくていい。そんなことの為に帰る必要もない」
「え…?」
「これからは家にいろ。家の中でなら自由に過ごしてていいから、もうどこにも行くな」
「え…?どういうこと?寛兄ちゃん…?」
いつの間にか僕達は『岩倉組』の大きな屋敷の門の前まで戻って来ていた。
そして寛兄ちゃんは僕を腕の中に抱えたまま、その屋敷の門をくぐった。
「お前の荷物は後でうちの連中に取りに行かせる」
「え…?でも…」
「でもも何もない。もう二度と帰さない」
「……僕は帰らなくてもいいの?」
「あぁ、そうだ。俺の側にいろ」
「……う、うん」
結局寛兄ちゃんに甘えてしまう。側にいて良いと言われて、じんわりと胸の中が温かくなる。
頷いた僕の頭にふわりと何かが触れた。
「ん?」
寛兄ちゃんの両手は僕を抱えているので、それはいつもの大きくて温かな手ではないだろう。不思議な感覚に首を傾げて上を見上げれば、弧を描いた唇が甘さを滲ませた声音で囁く。
「いくつになっても翼はいい子だな」
「僕もう、いい子っていう歳でもないんだけど」
「じゃぁ、さすがは兄貴と姐さんの子だ」
「父さんと母さん…」
「あぁ。…近い内、一緒に墓参りに行こう。翼」
お前の帰宅の報告も兼ねて。
「うん」
そして、お前のことはこの先、俺が一生かけて守ると誓う。
そう注がれた眼差しの熱量には未だ気付かず、無防備にその身を預ける。
「っと、その前に。今まで何処にいて、何をしてたのか、一番最初に全部俺に聞かせろ」
「それは…、うん」
聞かれれば全て答えるつもりであった。寛兄ちゃんになら。全部。
「僕も…聞きたいことがいっぱいある」
「なら、俺の部屋に行くか」
そのライオンのぬいぐるみも懐かしいなと、寛兄ちゃんは僕が胸に抱いていたレオンを見てゆるりと笑う。
そう、このぬいぐるみは今も昔も僕の大事な宝物だ。家族と言ってもいいかもしれない。
改めてそう認識したところで、自然と頬は緩んでいた。
だって、レオンは寛兄ちゃんが自分の代わりにと、僕が寂しくないようにとくれたものだ。それって少し大雑把かもしれないけど、寛兄ちゃんは僕が記憶をなくしている間もずっと側にいてくれたということじゃないのか?そして何より僕が会いたいと思ったら…、…その約束を守ってくれた。
「やっぱり寛兄ちゃんは凄いや…」
「翼?」
ぽつりと零れた声に不思議そうな視線が落ちる。
僕はレオンに向けていた視線を持ち上げ、そんな寛兄ちゃんと視線を合わせて小さな子供の時の様に全幅の信頼を寄せた笑顔で、胸の中に宿った温かな感情を何の躊躇いもなく言葉にして紡ぐ。
「僕、寛兄ちゃんのこと大好きだ」
「………そうか。…俺も昔からお前のこと、大好きだぜ」
名前を呼べば、当たり前のように存在するその人。名前を呼べば、当たり前のように返って来るその声。そのなんと掛けがえのないことか。
「くくっ…、あれは苦労しそうだな。寛寿」
「高野先生。覗き見はちょっと…」
「これは覗き見じゃない。例の少年を堂々と屋敷の中を抱いて歩く寛寿が悪い」
「まぁ…そうなんですがね」
屋敷の中に居合わせた一同は常ならず優しく笑う若頭をぎょっとした顔で見て、それからその腕の中に抱かれた少年に気付くと、そそくさとその場から退散していく。
「…おかえり、翼」
「っ、ただいま、寛兄ちゃん!」
互いに一度は失ったかと思われたその存在。そのぬくもりに、その声に、愛しさを自覚した時がまた新たな二人の関係の始まりとなるかもしれない。
これはそんな長い年月を経て手にしたたった一つの宝物の話である。
End.
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