理不尽な兄との攻防戦7
困った時の大塚さん、というわけではないが、こんな相談を出来るのはあの理不尽で傍若無人を地で行く兄貴と親友だという大塚さんかしかいなかった。
兄貴にこんな人間の出来た親友がいるというのは奇跡的な事なんじゃないかと俺は本気で思った事もある。そんな大塚さんを相手に俺は込み上げてくる羞恥心を呑み込み、自分のプライドを保つ為にも一連の自分の身に起きた変化の事を相談した。
「もうっ、もう…っ、全部、兄貴のせいなんですよ!」
ちなみに内容が内容なだけに今回は公共の場を避けて、大塚さんが一人暮らしをしているマンションに俺は足を運んでいた。
そして何故、俺が大塚さんの住んでいるマンションを知っているかと言うと、それもこれも兄貴に何度かこのマンションまでパシらされたことがあるからだ。
わぁっと文字通り泣きついて来た葉月に大塚は眉間に皺を寄せると溜め息交じりに言葉を落とした。
「ちょっと…話は分かったけど。何で一人で俺の家に来ちゃうかな」
たしか和巳からは俺の家には一人で行くなって言われてなかったか。
「兄貴なんか知らねぇし!」
「あぁ、そうか。嫌な予感しかしないな。ちょっとそこで待っててくれ」
そう言うと大塚は席を立ち、一度洗面所の方へと姿を消す。部屋の中はいたって普通のワンルームマンションとなっており、玄関を入って左手にトイレや洗面所、バスルーム。右手にキッチンがあり、扉を間に一枚挟んで葉月の居る居間兼寝室がある。
折り畳み式のテーブルの前に座り込んだ葉月は程なくして戻ってきた大塚からオレンジジュースを出されて、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「すいません。大塚さんの予定も確認せずに」
自分が土曜日で高校が休みだからと午前中の早い時間に大塚さんの家へと突撃をかましてしまった。玄関で俺を出迎えた大塚さんは驚いた様子であったが、それでもこうして家の中へと何も言わずに上げてくれた。優しくて懐の広い人だ。兄貴とは大違い。
「うん、まぁ、驚いたけど…」
それ以上に深刻な事態に陥っている様子の葉月に大塚は言葉を濁すに留めた。
しかし、今回の件については何とも言えないなと大塚は頭を悩ませる。きっかけが和巳だとしても、最初の一回きり。和巳は何もしていないようだし。これは葉月君が…。
「あの、それで…。さっきの話なんですけど」
普段の威勢の良さは鳴りを潜め、羞恥にか耳まで赤くして大塚を窺うように見つめてきた葉月に大塚は大いに困った。そんな顔をされても自分にはたいして良いアドバイスをしてやることが出来ない。いっそ和巳本人に直接言ってやった方が葉月君も楽になれるかもしれないと、そう考えながら、頼られた身として何とか優しく導いてやる。
「和巳にされたことを思い出して抜いちゃったって。それは葉月君の歳じゃしょうがないんじゃないかな」
「ぅ…えっ?」
包み隠さず告げられた相談内容にかっと頬を熱くさせた葉月だったが、続けられた大塚の台詞にきょとりと瞼を瞬かせた。
「別に不思議な事じゃないよ」
葉月君みたいな年頃なら。普通だよと大塚は安心させる様に言う。
「想像よりも現実で気持ちが良い事を知ったら、誰だってそうなる」
ほら、よくあるだろう?雑誌やテレビで美味しそうな食べ物を紹介されれば、美味しそうだなと思うでしょ。そのお店に実際足を運んで食べてみると、さらに美味しく感じた。そうしたら次からは広告なんかじゃなくて、実際に口にした事を思い出して、あれは美味しかったな。また食べに行こうかなと、思うでしょ。
それと同じ原理だよと、大塚は優しく言う。
「…うん。そう…、なのかな」
ただ、葉月君の場合は食べ物と違って、次を求めたらやばいんだけどなぁとは大塚は口が裂けても言えない。大塚は親友でもある和巳の所業に呆れるだけだ。
そして、葉月も葉月で大塚という第三者から変なことではないと肯定されたことで、すっかり落ち着きを取り戻して安堵の溜め息を吐く。
「俺はおかしくない…」
ただ、あれが妄想よりも生々しく、気持ちが良かったから。そう大塚に断言されたことで、葉月の中にあった後ろめたさが薄らいでいく。実際、和巳に手を出された時の事は別として抵抗感や忌避感が無くなっていく。
「もっと直接的に言っちゃえば、葉月君だって好きな人が出来れば、その人を想像してしちゃうこともあると思うよ」
だからって、実際に手を出すのは双方の合意があってからだけど。
「俺に言えるのはこれぐらいかな。アドバイスになったかな?」
苦笑して話を纏めた大塚さんに俺は頭を下げる。
「うん。もう、大丈夫そう。話を聞いてくれてありがとうございました」
「いいよ、いいよ。葉月君も大変そうだし。っと、そろそろ俺も大学に行く準備をしなきゃだから」
「あっ!ごめんなさい。俺、もう帰ります!」
ごちそうさまでしたと言って、出されていたオレンジジュースの残りを急いで飲み干し、俺は席を立つ。大塚さんがコップはそのまま置いておいてくれれば良いと言うので、俺はその言葉に甘えてテーブルの上に空になったコップを置いたまま、大塚さんの部屋を後にした。
――三分後。
大塚の部屋には葉月の兄であり、大塚の親友でもある和巳が、先ほどまで葉月が座っていたテーブルの前に立っていた。
「話は全部聞こえてただろう?」
「あぁ、お前も随分口が上手くなったな」
テーブルの下に置いていたスマートフォンを手に取り、大塚は肩を竦めて返す。
「お前には俺の恋人との仲を取り持って貰った借りがあるからな。でも、可哀想に。まさかお前本人に話が筒抜けになってるとは葉月君も思わなかっただろうな」
スマホの電話を繋ぎっぱなしにしていた奴がよく言うぜ、と和巳は口端を吊り上げて言う。葉月は知る由もないが、和巳の親友というだけあって大塚も色々と一筋縄ではいかない男なのだ。
「まぁ、お前から連絡を貰わなくても、葉月の奴が挙動不審だったのは朝から知ってたさ」
葉月は朝から和巳と顔を合わせようともしない。今日はまだ何もしていないにも関わらずだ。
その理由が解けた通話内容に和巳がくつりと獰猛な笑みを零したのも仕方がないだろう。
機嫌の良い親友に、大塚は葉月君と二人きりの状況になっていた事を、これなら咎められることもないだろうと小さく息を吐く。
「それで?和巳はこの後、どう…」
どうするのかと、言いかけた大塚は手の中で鳴り出したスマホに視線を落とし、そこに表示された名前に、和巳を見た。
「葉月君からだ」
「あぁ?何でお前にかけてくる?」
「そんなの俺が知るか。出るぞ」
スマホにかかってきた電話を大塚がとる。
先程まで会って話をしていた相手だ。何か言い忘れたことでもあったのか。
「はい、もしもし?葉月君?」
『あっ…、大塚さん!ちょっと助けて下さい』
電話口の向こう側は静かで、葉月の困った様な声が大きく聞こえた。
「助けてって、どうしたの?今、何処にいるんだ?」
葉月と入れ替わりで和巳が大塚の住むマンションにやって来てからそう何分も経っていない。その間にいったい何があったというのか。葉月は簡潔にその間の出来事を話してくれた。
『家に帰る途中で、この間大塚さんと一緒にいた時に会った、兄貴の友達だっていう二人組に遭遇しちゃって。カラオケに強引に引っ張り込まれて』
今は飲み物を取りに行くって言って、抜け出してきたんだけど。
「あぁ…、あいつらか」
大塚の脳裏に葉月君にちょっかいをかけてきた二人組の姿が思い出される。
すぐ隣ではその会話を聞いていた和巳が、大塚の手から通話中になっているスマートフォンを奪い取った。
「どこのカラオケだ?」
『ぅえっ?兄貴!?』
急に変わった話し相手に葉月から驚いた声が上がる。
「いいから、何処だ?さっさと言え」
『えっと、大塚さんのマンションを出てから駅に向かう途中にある…』
そうして必要な事だけを聞いた和巳は勝手に通話を切ると大塚にスマートフォンを投げて返す。
「ちょっ…。お前が行くのか?」
「葉月は俺の弟だ」
当然だろと、和巳はさっさと踵を返す。
「それにお前は大学に行ったことになってんだ。来るんじゃねぇぞ」
「あー、はいはい。邪魔はしません」
大塚はそう言って、和巳が葉月の元へ向かうのをマンションから見送った。
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