01


その夜、行きつけのバーで偶然再会したソイツは、あの頃より精悍な顔付で、驚いて声をかけた俺に向かって、右手にしていたグラスを揺らしながら口端を吊り上げて皮肉気に言った。

「委員長様がこんな所に来て良いのか?」

「いつの話をしてんだ。それを言うならお前こそ、会長様が風紀を乱してんじゃねぇ」

こちらもその挨拶に付き合って、十年振りだというのにまるで昨日の続きの様に言葉を投げつけた。
その後、カウンター席に一人座るソイツの隣に腰を下ろし、カウンターの内側に立ち、コップを磨くバーテンダーにいつものと言って酒を頼んだ。
くつくつと上機嫌に笑ってグラスに口を付けたソイツと横目に視線を合わせて、自然と俺も笑みを浮かべていた。

「十年振りだな」

「もうそんなになるか」

出されたグラスを受け取り、口を付ける。

隣に座るこの男は桜崎 敦基と言い、同じ学園に在籍していた時、生徒会長なるものをしており、当時風紀委員長だった俺、伊吹 直晃の手を何度となく焼かせてくれたものだ。
ひとたび顔を合わせれば、嫌味やら言い合いになることの方が多かったというのに、十年振りの再会は不思議な事に落ち着いていた。

互いに視線を合わせても、その口から嫌味が零れる事はない。

「お前、ここに来るのは初めてだよな?」

「そういうお前は常連か」

注文の仕方からそう察したのだろう、桜崎の言葉に頷き返し、桜崎の答えを待つ。

「俺が来たのは初めてだ。ちょっとばかり飲みたくなって、ぶらついてた時にこのバーを見つけてな」

「そうか。で、何時間飲んでるんだ」

意図的に薄暗くされた店内。隣に座ったことで桜崎の顔が近くなり、その様子を観察すればほんのりと頬が薄く色づいているのが分かった。もしかすると俺に噛みついてこなかったのも酒で酔ってるせいかと一瞬思考して、桜崎が指折り数える様子にぎょっとした。

「そうだな、かれこれ五時間ぐらいか?」

ふと何が可笑しいのか笑って告げた桜崎の手から思わずグラスを取り上げる。

「馬鹿か!飲み過ぎだ!しかもこんな所で…っ」

「あ、おい!何しやがる!」

取り上げたグラスを取り返そうと手を伸ばした桜崎に、俺は一番手っ取り早い行動を取る。桜崎が飲んでいた酒に口を付け、喉の奥に流し込む。

「…っ」

こいつ、随分ときつい酒を飲んでるな。

その行動に桜崎が目を見張るのが分かった。
だが、これはお前の為でもあると俺はさり気なく周囲へと目を向けて心の中で言い訳をした。

桜崎は目についたからこの店に入ったと言ったが、このバーは少し特殊なのだ。
そう、俺のように、一夜限りの相手を探す奴や、出会いを求めてやって来る客の為のバーでもあるのだ。女性客も少なからずいるが、ここに来る大半の客は男だ。

こいつは知らずに来たのだろうが、そんな危ないとこで、一人で五時間も。この酔っ払いが、何処の誰とも知らぬ奴にお持ち帰りなどされたらたまったもんじゃねぇ。

酒が入ってるせいか色づいた頬に、本来は鋭い鳶色の瞳も目元が朱に染まり、きりっとして精悍な顔立ちは色気を増している。あの頃も無駄な贅肉のない、しなやかな体つきではあったが、更に成熟して今は肩幅も広く、がっしりとした引き締まった身体をしているのが黒色のスーツの上からでも分かった。

「あれ?…お前、結婚式にでも行ってたのか?」

今更だったが、桜崎の服装は上下黒のスーツに中にベストと、白いネクタイが緩く首に巻かれていた。私服の俺とは偉い違いだ。

質問を投げかければ何故か桜崎は不機嫌そうに瞳を眇めて俺を見た。

「ふん、だったら何だ。俺がどこで何をしてようがお前には関係ないだろ」

これは酒を取り上げた事で機嫌を損ねたか。
酒の代わりに水でも貰おうと、桜崎から視線をバーテンダーに移そうとした時、続きの台詞が耳に飛び込んできた。

「お前こそ、その薬指。…結婚してんのか」

「は?あぁ…これか?」

俺は桜崎から取り上げたグラスを持つ手を目の前に掲げ、自分でも馬鹿な真似をしてるなと思いながら苦笑を浮かべて言う。

「こいつはただのナンパ避けだ。結婚なんて言葉、俺には縁遠いもんだ」

俺は一生結婚することもないだろう。その証拠にこんなバーに通っている。

このバーの本質を知らない桜崎には俺が何を言っているのか分からないだろうが、また俺自身も桜崎を相手に何を言っているのか。十年振りの再会が懐かしくきっと昔の気安いやり取りを思い起こしたせいか、桜崎の口からも意外な台詞を聞くことになった。

「俺も結婚なんてしねぇ。あんなのはただの契約だ」

「いきなりどうした」

「周りがうるせぇんだよ。お前は言われねぇのか」

「…あぁ」

結婚式で何か言われてきたのか。それで憂さ晴らしの如く飲みたくなって偶然この店に入ったのか。桜崎の家は結構名の通った家だし、桜崎ぐらい格好良ければ女の方が放っておかなそうだ。男子校であった学園でも桜崎の人気は断トツであった。

「そんな面倒な付き合いなんか御免だし、そんな気もねぇ相手に金も使いたくねぇ。自分で稼いだ金だ。それを自分の為に使って何が悪い。俺の勝手だろ」

「まぁ、そうだな。俺も自分の為なら使うが」

「それにもうガキじゃねぇんだ。自分のことは自分で決める」

「お前にとってはそれこそ今更だろ。お前が誰かの指図に従ったことがあるか?俺の話もさんざん無視して、学園で好き勝手やってたのはどこのどいつだ。忘れたとは言わせねぇぞ」

事実、学園にいた頃の桜崎は自分のやりたいようにやり、その度に俺と衝突していた。
体育祭では堂々とどの組が勝つかとオッズを付けて学園全体で賭け事をさせて、とても手のつけられない不良クラスと言われたクラスをいとも容易く体育祭に引き込んだ。その年の体育祭は異様なぐらいの盛り上がりを見せて大変だった。また、文化祭ではそのまま学園を舞台に見立てた即興劇を演劇部を中心に敢行させ、来場者も生徒も教師も関係なくそのストーリーの中に巻き込まれていた。学園の風紀や警備を担っていた俺達風紀からすれば大変な苦労をかけられたわけだが、結局桜崎の強行した数々のイベントの後には好評の声が多く聞こえた。

「ーーそうだ、覚えてる。俺は俺のやりたいようにやる。…これからもな」

僅かに俯いた桜崎がくくっと低い笑い声を漏らす。

「お前はまた…っ」

すと顔を上げた桜崎の薄い唇が愉しげに弧を描き、頬を上気させたまま僅かに濡れた鳶色の双眸が獲物を目の前にした時の様に鋭く細められた。
それはあの頃に何度も魅せられた、俺にとっては厄介事が降りかかる前の合図。

桜崎がゆっくりとした動作で席を立つ。

「伊吹、少し付き合え」

色気たっぷりの流し目を寄越され、ふらりと身体を揺らして桜崎が会計に向かうのを呆気にとられて見送りそうになる。

「ちょっと待て!」

何を思いついたのか知らないが、桜崎が酔っ払っているのは確実だ。
何度も言うが、こんな場所で、あんなに無駄に無防備に色気を振り撒いていたら桜崎の身が危険だ。

「桜崎!ちょっとは人の話を聞きやがれ!」

俺は慌てて席を立ち、桜崎の後を追う。
俺は自分で注文した一杯の酒と桜崎から取り上げた酒を一杯飲んだだけで酔ってはいないはずだった。



ふらりと店を出た桜崎を捕まえれば、奴は周囲を見回して質問を投げてくる。

「お前、ここの常連なんだろ。この辺で泊まれる所って何処だ」

「あー…、それは……家に帰った方が良いんじゃねぇか」

この周辺で泊まれる所と言えば、健全に寝る事を指すホテルより、所謂寝ることをメインとしたラブホぐらいしかない。
そもそもコイツが此処に来ること事態、間違っているのだ。

「近くの駅までなら送って行ってやる」

「ちっ、察しの悪い奴め」

「は?」

何事かを吐き捨てると桜崎は一人でずんずんと路地を歩き始めてしまう。

「おい、駅はそっちじゃねぇ」

歩きながらふらついた桜崎の肩が、向かいから歩いてきた男の肩にぶつかりそうになり、俺は咄嗟に桜崎の肩に手を回して己の方に引き寄せた。

「…気を付けろ。この辺は故意に絡んでくる奴もいるからな」

肩を抱いて引き寄せた事で、至近距離から絡まることになった鳶色の強い視線に射ぬかれる。

「ふん…、だったら早く案内しろ。俺がまた絡まれる前に」

「……後で文句を言うんじゃねぇぞ」

帰る様子を見せない桜崎をこんな所で一人にさせるわけにもいかず、この周辺で一番まともなホテルへと連れて行く。
傍目からはまともな外観に、受付で人に会う事もなく、全て機械を通して、選択した部屋があるフロアにエレベーターで上がっていく。

無言でありながら、横から興味津々な様子で手続きや部屋のパネルを眺めていた桜崎に俺は何だか一人居心地の悪さを感じて、大人しく付いてくる桜崎の顔をちらりと横目に見た。

「何だ?」

「いや、別に」

視線を感じて直ぐに返された視線に俺は短く返して、辿り着いた部屋の鍵を開ける。
俺が選んだ部屋の内装は至って普通の…。

「へぇ、何か学園の生徒会室を思い出させるな」

この無駄にきらびやかなシャンデリアとか、黒革のソファ。大きな窓。
部屋の半分を占める大きなベッドは仮眠室にあったものより大きいか。
そう言って部屋の中を見回した桜崎はベッドに腰掛けると、部屋に入ってから立ち止まっていた俺に視線を流してくる。

「来いよ、伊吹」

「酔っ払いが。危機感はねぇのか」

呼ばれて仕方なく足を進める。
今のこいつにこれ以上近付くのは危険だと頭の中で警鐘が鳴り響いていたが、こいつをここに連れて来た責任から此処で放り出して帰るという選択は出来なかった。
桜崎は人の気も知らず、尚も口端を吊り上げ、愉しげに笑っている。

「委員長様の真面目な所は変わってねぇな。俺の事なんか放っておけば良かったのに」

「放っておいたら何を仕出かすかわかったもんじゃねぇ」

「ははっ、言えてるな」

「お前は自覚がある分、たちが悪いんだよ」

桜崎が座るベッドの側で足を止め、その確信犯を呆れたように見下ろせば、不意に煌めいた鳶色の瞳に意識を捕まれる。下から伸びてきた手に腕を掴まれ、強引にベッドの上へと引き倒される。

「っ、おい!桜崎!いい加減にしねぇと…」

「安心しろよ。俺の狙いはお前一人だ」

にぃと口角を吊り上げて俺を見下ろす桜崎に、その台詞に、一瞬思考が停止する。

コイツは何を言ってるんだ。
狙いは俺一人?

「わかんねぇって顔してるな」

「…説明しろ」

桜崎の考えを推測するだけ無駄だと、学園での付き合いで嫌というほど理解している。突拍子も無い事を始めるのがコイツなのだ。

「なぁ、伊吹。俺と恋愛してみねぇ?」

「…全く意味がわからねぇが、とりあえずその台詞はマウントを取ってから言うことか」

「逃げられたら困るだろ」

「肯定の返事しか認めねぇってか」

でも、待て。お前は腐っても桜崎の御曹司。普通に女と結婚して、跡継ぎを作る義務があるんじゃねぇのか。

「桜崎。よく考えろ。俺はお前と同じ男で、子供は作れねぇぞ」

「そんなこと考えなくても分かってる。俺も結婚する気はねぇ」

「…一時しのぎを考えての行動なら止めておけ」

うるさい周囲に恋人がいると言って呈の良い文句で周囲を黙らすつもりの偽装恋人なら何も俺じゃなくてもいいはずだ。

「一時しのぎ?馬鹿言うな。俺はお前をそんな安く見積もったつもりはねぇ」

「本気か?」

「冗談でこんな場所まで来て、男を押し倒せるか」

じっと俺を見下ろす鳶色の双眸と視線を絡ませる。

「…今なら酔っ払いの戯れ言で聞かなかったことにしてやる」

「俺はお前の好みじゃねぇと?」

「そういう問題じゃねぇだろ。退け、桜崎」

「いいや、そういう問題だけだ。お前が答えねぇなら身体に聞いてやる」

「はっ?ーっ、馬鹿!やめろ!」

ジャケットの下に着ていたシャツに手を突っ込まれ、首筋に桜崎の顔が埋められる。首筋にかかった熱い吐息に背筋が震えた。

「桜崎!お前、ノーマルだろっ、馬鹿な真似すんな」

体重をかけて俺の身動きを封じる桜崎の耳元で我に返るようにと制止の声を上げた。しかし、

「安心しろ、勉強はしてきた。気持ち良くしてやる」

桜崎は人の話を聞かない。
俺の胴体を跨ぐように押しかかっていた桜崎の片足が足の間に差し入れられる。

「全然安心出来ねぇし、突っ込まれるぐらいなら俺がお前を抱く」

上から覆い被る桜崎を突き飛ばす様な勢いで引き剥がし、ぐるりとその位置を入れ換える。桜崎をベッドに縫い付け、上から見下ろした。すると桜崎は満足げな顔でにやりと笑う。

「やっとその気になったか?」

「…目的は何だ」

「だから、言ってるだろ。俺と恋愛してみねぇか」

「それで困るのはお前の方だぞ。俺に恋愛は不向きだ」

自嘲する様に唇を歪めて言えば、桜崎はそれが良いと上機嫌に瞳を細めて言った。

「俺に本気になれよ」

「………」

「一夜限りの相手を探すより断然建設的で、俺は優良物件だぜ」

「はっ、自分で言うか」

こいつは何時、俺の恋愛対象が同性にしか向けられていない事に気付いたのか。気付かれていたのか。
そして何より真っ当な道を行ける桜崎が、何故自らそんな危ない深みに足を踏み入れようとする。

「会長様が率先して風紀を乱すのか?」

「逆だ。俺が委員長様の乱れた風紀を正してやるって言ってんだ。つべこべ言わずに頷け」

そう簡単に頷ける問題か。俺はともかく、桜崎の人生を左右する選択だ。

「お前は今、酔っぱらってる。自分が何を言ってるのか分かってねぇ」

そろそろこの体勢は心臓に悪いと桜崎の上から退こうとして、下から伸びてきた腕に頭を抱かれる。下方へと引き寄せられ、耳元に近付いた唇が低く囁いた。

「分かってねぇのはお前だ、伊吹」

頭の回転が鈍ったんじゃねぇのかと、そのまま耳朶を噛まれる。

「お前なっ…」

「多少酔っぱらってる自覚はあるが、何の為に俺が五時間もあんな店にいたと思ってる」

「は…、それは目についたから…」

いや、待て。それはおかしい。
あのバーは特殊な事からも僅かに大通りからは外れた路地の中にあり、地下へと続く階段を下りなければ分からない。だから、扉を開けてカウンター席にいたこの男の姿に俺は驚かされたのだ。

ベッドに沈んだまま至近距離でにぃと笑った桜崎がひっそりと秘密を教えるように言葉を紡ぐ。

「分かったか?俺はお前を捕まえに来たんだよ」

「…いつから」

「俺に結婚話が回ってきたのが一年前で、お前を見つけたのが半年前。ちょっとばかし素行調査をして、俺の時間が空いたのがちょうど今日だ」

「……何で俺なんだ。お前、俺のこと好きだったのか?そんなわけねぇよな」

学園にいた頃の桜崎はノーマル嗜好だったはずだ。そう思って疑惑の目を向ければ、桜崎は首を傾げた後あっけらかんと言い放った。

「結婚話を出されて、不思議とお前の顔が浮かんだ」

「それだけで…?」

「なにより、お前となら人生楽しくやっていけそうだと思った」

それは中学、高校と学園生活や寮生活を共にしてきた中で実証済みである。
だから、仕方がないだろう。俺自身も何で今になってお前の顔がと不思議に思った。それ以降、お前の事を思い出しては考える様になり、その気持ちは知らず知らず大きく膨れて、会いたくなった。

「お前になら金をかけても良い」

「そりゃ光栄だが…」

こいつはまた自分の言っている意味が分かっているのか。俺は口端を引き吊らせて、桜崎の熱烈な告白を聞く。

「こうして実際に会って確信もした。どうやら俺はお前が好きだったらしい。驚くことに今も」

「…だろうな」

やり方がとても好きな相手に対する手段とは思えないが。バーで待ち伏せをして、ホテルに案内させる。その上、好きな相手をベッドに引き倒すなど、普通なら通報ものであるし、相手にはしない。しかし、桜崎のこれは俺を想い余っての行動だろう。
まぁ、そんな無駄に行動力のある桜崎の事は何だかんだ言いながら嫌いではない。
むしろ、清々しいまでのその思い切りの良さには相変わらずだなと呆れた笑みさえ零れてしまう。

「伊吹。俺と人生を共にしようぜ。退屈はさせねぇ」

「そこは普通、付き合って下さいからだろ」

「結婚を前提に?」

「しねぇけどな」

あーぁと諦めたように溜め息を吐いて、俺は己の下に組敷いていた桜崎の顔を見下ろす。

「十年も経ってまたお前に振り回されるとは思わなかったぜ」

「俺に目を付けられたんだ。観念するんだな」

「…お前のその手に負えねぇ具合も何時かは忘れられると思ってたんだけどな。まさかお前自ら飛び込んで来るとは。本当、読めねぇ男だ」

ぽろりと落とした俺の言葉に桜崎が鳶色の瞳を見開く。その変化をゆっくりと顔を近付けながら見つめ返し、ここまでした桜崎の想いに応えるべく俺もようよう腹を括った。

「桜崎。俺を本気にさせる責任、最後までとれよ。浮気は絶対許さねぇからな」

「いぶ…っ、ん…!」

桜崎が口を開こうとした瞬間、その言葉ごと吐息を奪って己の唇で桜崎の唇を塞ぐ。桜崎が狼狽えたのも一瞬で、口内へと差し込んだ舌に応える様に熱い舌が絡んできた。

「ん…っふ…」

酒の影響か、口内が熱い。じわりとその熱が伝染する様に身体が熱を帯びていき、桜崎の鼻から抜ける甘い声も、アルコールを含んだ様にくらくらと俺を酔わせた。







もそもそと隣で動く人の気配で微睡んでいた意識が浮上する。
そっと左手を掴まれる感覚に気けば、左手の薬指に嵌めていたナンパ避けの指輪が抜き取られる感覚が伝わってきた。

「こいつは俺が貰っておくぞ」

微かに掠れた声が寝起きの俺の耳に入ってくる。
こいつはまた人の返事を聞かずに。何をしようとしているのか。
うっすらと目蓋を持ち上げ、指輪の行方を目で追えば、いつの間にか向かい合うように身体の位置を変えた桜崎がベッドに身を横たえたまま、俺の指から外した指輪を自分の指に嵌めようとしていた。

「そう上手くはいかねぇか」

薬指に嵌めようとして合わなかったのか、眉をしかめながら桜崎が呟く。次に中指、人差し指と試していくが納得がいかないのか桜崎の口許が不満げに引き結ばれた。

「同じぐらいだと思ったんだがな。何で俺だと緩いんだ」

桜崎にしては子供っぽいその表情に、ふと口許が緩む。指輪を外された左手を持ち上げ、桜崎の手にその手を重ねる。

「…そんなハリボテじゃなくて、お前用にちゃんとした新しいのを買ってやる」

「ん?起きたのか、伊吹」

指輪に向けられていた桜崎の鳶色の瞳が俺に向けられる。その時になって桜崎の目元がほんのり赤くなっている事に気付いた。

「あー…悪い。身体の方は大丈夫か?」

何を隠そう、昨夜は酒の入っていた桜崎に煽られたとはいえ、色んな意味で鳴かせ過ぎた気がする。しかも桜崎より後になって起きるとは。寝過ぎだろ。
僅かな罪悪感と充実感を感じながら桜崎と視線を合わせれば、桜崎は正直に答えた。

「あんま大丈夫じゃねぇな。腰はいてぇし、身体は怠い。喉も少しヒリヒリする」

「やっぱり…」

「でも、思ったより気持ちは良かったぞ」

それはそうだろう。大胆にも仕掛けてきた桜崎は男相手は初めてだと言うし、今後桜崎が怖がったり嫌がったりしないよう、その辺は理性が飛びそうになっても桜崎の事を優先したつもりだ。
最低限の節度を守れていた事にほっと息を付けば、桜崎が口端を吊り上げていた。

「お前は満足出来たか?」

「それを聞くか」

「人生の伴侶としてはそれも大事なことだろ」

鳶色の瞳を煌めかせて分かりきった返事を待つ桜崎に、重ねていた左手で桜崎の右手を取る。自分の方へと引き寄せてその掌に唇を寄せた。

「もう十分、…お前は最高だ」

「ん…」

掌へのキスが擽ったかったのか瞳を細めて声を漏らした桜崎は昨夜の大人びた色気を感じさせず、何だか愛らしく俺の目には映った。

「桜崎」

「何だ?」

「まだちゃんと言ってなかったな」

キスをした掌を放して、桜崎の頬へと手を伸ばす。

「好きだぜ。………会長様の時から」

そっと熱を持った頬に触れればゆるりと桜崎の瞳が細められる。

「それは初耳だ」

「知られねぇ様にしてたからな。言われてもお前が困っただろ」

口うるさい風紀委員長からの告白なんて、俺がお前の立場だったら、変な物でも食ったか、嫌がらせか何かかと疑う。
それに俺の告白は、男子校に押し込められた野郎共がかかる一過性の熱病とその意味が違う。学園を卒業して、はい、さよならとはならない。俺にとっての普通は異性愛者から見ると嫌悪される事のあるもので、安易に告白など出来ようはずがなかった。

「んー…当時の俺なら驚きはしたかもしれねぇけど、困りはしなかったと思うぜ。むしろ今よりもっと早く、お前の事が好きだって気付けたかも知れねぇ」

「それは今だから言える事だ」

実際、顔を会わせる度に何かと言い合っていたあの頃より、十年経ち、二人は落ち着いて顔を会わせることに成功していた。

桜崎の頬に触れていた左手に、桜崎の右手が重ねられる。先程のお返しなのか、重ねられた桜崎の右手が俺の左手を取り、そこへ唇が寄せられる。

「そう、かもな。…伊吹。俺もお前のこと好きだぜ」

押し付けられた唇に擽ったいような感触を覚えて桜崎を見つめる双眸が緩む。それでもしっかりと釘だけは刺しておく様に言う。

「次からは一人で勝手なことするんじゃねぇぞ。あのバーにももう行くな」

「お前が付き合ってくれんならもうしねぇ。………たぶん」

「聞き捨てならねぇ返事だな」

「良いだろ?お前が俺から目を離さなきゃいい話だ」

じっと至近距離から視線を絡め合って、こんな風にと桜崎が艶やかに笑う。その確信犯的な笑みに呆れつつ、そこに含まれた想いを汲み取って俺も緩やかに口許を綻ばせた。

「…そうだな。デートしがてら新居探しでもするか。お前から目を離すとあぶねぇんだろ?」

そう告げれば鳶色の瞳が分かりやすく喜色を滲ませる。

「いいな、それ」

「あ、でも待て。俺は私服だからいいが、お前は…」

「そんなものどっか店で買えば良い。なんならお前の服も俺が見立ててやる」

昨夜、ベッドの下に散らかす様に落とされた服に、桜崎が名案を思い付いたとばかりに瞳を輝かせて言う。

「あー…俺のは別に」

「お前が要らなくても俺が買う。恋人を着飾るのも楽しみの一つだろ」

「ほどほどにしろよ。お前は極端すぎる所がある」

楽しげに笑って言う桜崎に、俺はとりあえず最初に桜崎に渡す指輪を購入する事に決めた。その時点で桜崎のやることなすことが極端すぎると注意する資格も無かったが、あいにくと俺自身にもその自覚は無かった。

「桜崎」

「何だ?」

ただ、そこにあったのは、十年前に途切れたと思っていた縁を強引に手繰り寄せてモノにした会長様への畏敬の念。それから…

「ありがとな」

俺を見つけてくれて。覚えていてくれて。正直、嬉しかった。

「恋人として改めて宜しくな」

これからは無茶をやらかす桜崎から一時も目が離せそうにない。そう慌ただしくなりそうな毎日を予感しながらも、俺の口許は緩やかに弧を描いていた。



end.



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