03


両開きとなっている国章の刻まれた目の前の重厚な扉を、扉を守護していた二人の騎士がゆっくりと開ける。
扉の向こう側の床には赤い絨毯が玉座に向かって真っ直ぐに敷かれ、大きく切り取られた窓からは明るい陽射しが射し込む。

「グレイル殿下とそのお客人ご入場です」

入室を知らせる触れに、自分の先を歩くグレイルに従い室内へと入れば、頭上にあるシャンデリアが陽の光を反射してきらりと光った。

ヴェルト砦の一戦から後、アルスはグレイルに着いてシュリエスの都へと来ていた。
この場には居ないが、もちろん第四騎士団の皆と共にだ。

アルスは前方の階段上にある玉座に向き合う様に立ち止まったグレイルの一歩後ろに控え、その場に片膝を付いて頭を下げる。アルスは砦からここまでの間グレイルから渡された布を身に着け、その身形と容貌を隠していた。頭から被った布の隙間から室内を観察する。

玉座の下には近衛と思われる騎士が直立して並び、その両脇には貴族と思わしき人間が数人と近衛以外の騎士服を来た人間が数人。グレイルが連れて来た客人、アルスの事を不躾にとは言わないがいぶかし気に見て来ている気配がした。

「俺を通してまで至急陛下にお会いしたいとは、砦の任務で何かお前の手に余るような事でも起きたのか」

アルスが観察していれば、別の扉からまだ若そうな声と共に一人の青年が姿を現す。

「兄上」

グレイルにそう呼ばれた青年は貴族達のいる場所で立ち止まると、グレイルの後ろで顔を伏せているアルスに視線を向けた。だが、その口を開く前に、陛下御到着という声が上がり、皆の視線は一旦アルスから離れた。

「グレイルよ。砦での任務ご苦労である。お前には重荷を背負わせてしまっているな」

「いえ。そんな事は御座いません」

玉座に現れた壮年のシュリエス皇帝はまずグレイルへと労いの言葉をかけ、グレイルもまたそれに粛々と応える。

「して、急な報告との事だが…」

皇帝の視線がグレイルからその後ろで頭を垂れるアルスへと流れる。
それを受けてグレイルは後ろを振り返るとアルスの前で膝を付き、布の下でやや不安そうに瞳を揺らしたアルスへと「大丈夫だ。俺がいる」と声を掛ける。そんなグレイルの優しいともいえる言動にその場に居た面々は奇妙なものを見る目をしたが、本人はどこ吹く風といった様子でアルスの手を取るとその場に立ち上がらせた。
そして、アルスの横に立ち、自分達へと集まった視線に振り返る。

「報告というのは他でもない、私達が待ち望んでいたこと」

するりとアルスの頭から布が落とされる。
茶色の髪、紅茶色の瞳が露わになり、誰かを彷彿とさせる凛とした面差しが前を向く。

「ヴェルト砦にてアルシウス=バシュレを保護しました」

「なんと!!」

その場に居た貴族、騎士、近衛、皆が目を見開き、玉座からは皇帝が立ち上がる。
なかでも貴族の一人が堪えきれぬとばかりに駆け出し、グレイルの横に立つアルスを力いっぱい抱きしめた。

「アルシウスっ!!あぁ…生きて、…生きていてくれた!よく、帰って来てくれた…!あぁ…アルシウスっ」

続く言葉は言葉にならず、嗚咽と共に強く強く抱きしめられる。
それが誰であるか分からないアルスは視線をさ迷わせ、グレイルから答えを聞く。

「それがお前の父親で、バシュレ公爵だ」

「俺の…」

緩むどころかきつくなる抱擁にアルスは戸惑いながらも、自分を抱きしめてくる男の背におずおずと手を添える。すると更に感極まったのか、ぼろぼろと零れる涙がアルスの肩口を濡らしていった。
よく見ればもらい泣きをしているのか他の騎士や貴族も涙を流している者もいた。

「良くやった、グレイル!」

「兄上。…いえ、アルシウスこそ褒めてやって下さい。これまで一人で戦ってきたのです」

驚愕から立ち直り、バシュレ親子を涙を浮かべた紅い瞳で温かく眺める皇帝とその他の面々に向けてグレイルはそう告げ、初めて顔を会わせた親子の姿を優しく見守る。

「して、グレイルよ。砦と言ったがアルシウスは…」

「敵将として戦場に投入されておりました」

バシュレに抱き付かれたまま、身動きも取れず、戸惑いつつもその存在を受け止めているアルスを横目にグレイルは皇帝からの質問に答える。
その答えに何だと!と、騎士や貴族達から驚きの声が上がる。

「本人に確認した所、アルシウスは第四騎士団の隊長として十三の頃から戦場に出されていたようです」

「むぅ…まだ子供ではないか」

シュリエス皇国では十五になってから、騎士団に入隊出来るようになる。それまでは皇国や各領が運営している学舎にて学ぶ事が出来るような仕組みになっていた。

「えぇ、ですがユリス様から受け継がれた血の加護がアルシウスの身を護ってくれたようです」

アルシウスの身に流れるシュリエス王家の血が、古から受け継がれる魔族の血が、アルシウスの身体能力を向上させ、その意思に応じて治癒の力を強めていた。

「ただ、その点についてアルシウス本人には自覚が有りません。本人は暗殺を警戒しての事と思っていた様ですが、アルシウスは幼い頃にユリス様から、新月の夜には誰にも会わないように、外出しないようにと言い聞かせられていたようです」

「それが功を奏して、今までアルシウスがシュリエス王家に連なる者だとバレなかったのだな」

シュリエスの皇族には魔族の血が混じっており、その証しとして瞳が紅いのだ。ただ女性皇族の場合は子を身籠るとその血に宿っていた力ごと、宿った命へと己の力を受け渡してしまうので、その瞳からは紅い色が失われる。
幸いなことに、バシュレ公爵とユリスの間に生まれたアルシウスの瞳の色は公爵の色が強く出たらしく普通にしている分には紅茶色だった。
しかし、その瞳の色を誤魔化せない唯一の日があるのだ。
それが月の無い夜だ。魔族の血が一番強くなり、紅く染まった瞳はどんな暗い夜でも見通すことが出来るようになり、その力を発揮する。

それから暫くして、冷静さを取り戻したバシュレ公爵がアルスから離れ、玉座を振り返って涙声で頭を下げた。

「っ…大変お見苦しい姿をお見せして申し訳御座いません」

しかし誰もバシュレ公爵を責めるものはいなかった。

「良い。お主が取り乱すのも仕方ない。かくいう儂も驚いたのだ」

シュリエス皇帝の温かな眼差しがバシュレから困惑を残したままのアルスへと移る。

「ふむ…ユリスに似たな」

そこには本当に温かな眼差ししかなかった。
アルスは一身に注がれるその眼差しに戸惑い、ただただ困惑する。
その心情を察してかグレイルが陛下と、控えめに声を掛けた。

「一度、アルシウスを下がらせてもよろしいでしょうか」

いきなり色々な情報を与えても混乱してしまうし、アルシウスにも落ち着いて考える時間が必要です。

「バシュレ公爵や陛下におかれましては後日個別に面会されては如何でしょうか」

その方がアルシウスとも落ち着いて話が出来るし、アルシウスの負担にもならないだろう。

横から出された助け舟にアルスの視線がグレイルに向く。
その瞳はどこかほっとした様な色を滲ませていた。

早くもアルスとの信頼関係を築いている様子のグレイルの進言にシュリエス皇帝はうむと頷く。

「では、そうしよう。…だが、その前にワシからも一つ言う事がある。アルシウスよ。よく帰って来てくれた。そなたの帰還をこの国は心から歓迎する」

その温かな眼差しと同じ温度を含んだ力強くも優しいシュリエス皇帝直々の言葉にアルスは何故だか涙を零しそうになった。
それを堪えるかのようにアルスは口を引き結び、短く応える。

「はっーー」

自分が知らなかっただけで、そこには温かな人がたくさんいた。 



別室で待機させているジーンを連れて、アルシウスには第四騎士団の面々が待つ屋敷へと先に戻っている様に告げ、グレイルはその場に留まった。
シュリエス皇帝にはまだ報告しなければならない事があった。

「して、アルシウスを下がらせての話とは」

シュリエス皇帝も、その場にいる誰もがグレイルの意図に気付いて黙ったまま目の前のやり取りに耳を傾ける。

「はい。アルシウスの母、ユリス様の事です」

「うむ」

「恐らくユリス様はもう…」








王城にある部屋とは別にグレイルに与えられている、王城からほど近い距離にある屋敷にジーンと共に戻って来たアルスは屋敷に入るなり待ち構えていた第四騎士団の面々に囲まれた。

「お前達…」

「隊長、大丈夫でしたか?どうでした?」

アルスについて来た第四騎士団の面々はグレイルに滞在を許可されて、アルスが皇帝陛下との面会を無事に終えて戻って来るのを待っていたのだ。
余程心配していたのか、扉付近で待機していたホルンから矢継ぎ早に声をかけられる。
その対応にアルスは騎士団の兵舎に帰って来た時と変わらないなとホッと息を吐いて、いつもの様に口許を緩めて返した。

「大丈夫だ。少し顔合わせをしてきただけだ」

そのやりとりをジーンは穏やかな瞳で眺め、アルスにそっと声をかける。

「それでは私はこれで。アルシウス様は彼等と共にごゆっくりお過ごし下さい」

「…ありがとう。ジーン」

アルスの言葉にジーンはペコリとお辞儀で返すと、踵を返して屋敷から出て行った。



その夜、屋敷で第四騎士団の仲間達と夕食を食べ、アルスにと宛がわれていた部屋で一人休息をとっているとアルスはグレイルから呼び出しを受けた。
アルスを呼びに来た使用人に付いて廊下を歩いて行けば、グレイルの私室へと案内される。

「呼び出して悪いな。寝ていたか?」

グレイルは昼間とは違いラフな装いで、側にジーンの姿もない。アルスを案内した使用人もさっさと下がってしまい、部屋にはアルスとグレイルの二人だけになる。
アルスはグレイルの問い掛けに首を横に振り、答える。

「いや…寝れなくて起きていた」

「そうか。まぁ、座れ」

部屋を入って左手にある椅子に座るよう促されて腰を下ろせば、グレイルも小さめのテーブルを間に挟んで向かい側にあった椅子に座った。

「さっそくだが、バシュレ公爵…実の父親に会ってどうだった?」

「正直、よく分からない。実感もない。ただ、なんとなく……」

その先は言葉では表現できなかった。アルス自身もまだ戸惑っている部分が大きいのかも知れない。
押し黙ってしまったアルスにグレイルはふっと緩く表情を崩すと言い添える。

「悪い印象ではなかったか」

「あぁ…」

いきなり抱きしめられたのには驚いたが、あんなに泣かれるとは思わなかった。それもいい年した大人が公衆の面前で。ぼろぼろと。

「それだけお前の帰還が嬉しかったのだ。大目に見てやれ。…それにあの後、バシュレ公爵がお前を引き取りたいと言ってきた」

「え…」

当然だろう。アルシウスは自分の息子なのだ。それもやっと会うことの出来た。
予想もしていなかったという顔で目を見開いたアルスにグレイルは続きの言葉を口にする。

「たが、お前はまだこの国に来たばかりで周囲の事にも慣れていない。だから暫くはお前の仲間もいる俺預かりにさせてもらった」

「…そう、か」

「お前が落ち着いてきたらで良い、バシュレ公爵の屋敷にも顔を出してやってくれ。あの屋敷にはお前が生まれてくる前から公爵が用意していたお前の部屋がある」

俺と共にいる間は王城で会う機会もあるとは思うが、やはり自分の屋敷で親子水入らずで公爵はアルシウスに会いたいだろう。

それは確実に、戸惑うアルスの心情を考慮してなされた配慮であった。バシュレ公爵には問答無用でグレイルからアルスを引き取るだけの理由があるにも関わらず。その上、あれだけ人前で感情を露にしておきながら、実の父親というものはそこまで子供の心情を優先するものなのか。

どう受け入れていいのか分からず反応に困っていれば、それを見越したかのようにグレイルがそっと優しい声音で言う。

「徐々に慣れていけばいい。公爵もそう言っていた」

「…はい」

多くの人達からかけられる優しさに、仲間達とは違う全てを包み込まれる様な感覚を覚え、戸惑い、俯いたアルスの頭に向かい側から伸ばされたグレイルの大きな掌がぽんと乗せられる。

「大丈夫だ、アルシウス。ここでは不安も弱音も口にして良い。…大丈夫」

くしゃくしゃと優しく頭を撫でられ、今まで感じた事の無い心の揺れに何故だか徐々に視界までぼやけていく。

「怖いものからは俺が守ってやる」

「…っ、子供扱いは…やめろ」

「大人にだって怖いものはある」

「嘘吐け…」

「嘘じゃない」

震える声に優しい声音が被さり、まるで今まで我慢していた分だけ、ぽろぽろと頬を伝って大粒の涙が落ちていった。








それから数日後。
アルスがシュリエス皇国に迎え入れられてからアルスの周りでは様々な変化が起きていた。

まず、アルスに付いて来た第四騎士団の面々はバシュレ公爵の計らいで、今は公爵家配下のアルシウス私設親衛隊と名を変え、公にアルシウスを守れる存在として確立していた。
次にアルスはアルスという名を愛称として残し、アルシウス=バシュレと名乗りを変えた。

「恩なんて返さなくてもいいと言ったんだがな」

「その割には殿下は嬉しそうではないですか」

なにより、アルシウスは現在、本人の希望もあってシュリエス皇国第二王子グレイルの近衛隊にその身を置いていた。

「そりゃお前、毎日可愛いアルシウスが側にいてくれるって言うんだぞ」

「殿下の護衛ですけどね。それと、間違ってもアルシウス様を守る為に殿下が前に出ないで下さいよ」

「………」

互いにどちらがどちらを護っているか、分からない様な行動は慎むようにとジーンに釘を刺されて、グレイルは一瞬口をつぐむ。
しかし、グレイルは直ぐ様わざとらしく咳払いをすると手にしていた紙を折り畳み、執務室の窓に目を向けた。

「そろそろ休憩にするか。アルシウスを呼んで来い。今日は天気も良いし、外で茶にする」

「はぁ…、殿下。何度も申し上げますが、近衛は殿下のお茶飲み相手ではありません」

「お前は頭が堅いな。俺は近衛のアルシウスではなく、従弟のアルシウスを相手に茶にすると言ってるんだ」

「完全に屁理屈では?」

「今日はこの間、アルシウスが美味いと言って食べた菓子を買って来させているんだ。それを無駄にさせる気か」

「…分かりました。アルシウス様には私設親衛隊を付けて、外に来てもらいます」

グレイルの近衛隊に身を置いている時の扱いは、近衛騎士だが、近衛を離れた時のアルシウスの身分はバシュレ公爵の子息であり、グレイルの従弟である。普段から護衛が付いていてもおかしくはない身分なのである。

ジーンの返答に満足そうに頷いたグレイルは手にしていた紙を机上に置かれた陶器の皿に置くと、火を付けて燃やす。

「殿下、それは…」

「ヴェルト砦が陥落したという報せだ」

同時にトワイネルの国王が月の無い夜に不審死を遂げ、トワイネルは今、混乱の最中にある……と思われた。が、何故かそこで先代国王が復権を遂げ、混乱を即座に収めたと記してあった。不思議な事に先代国王は息子であったファンバイト=トワイネル王の死について、何も調べぬまま病死として国民には公布していた。だが、グレイルにはもう隣国の内情がどうなろうと自分の知った事ではない。
グレイルは紅い双眸に鋭い光を宿すと、全ては陛下が御決断なされた事だとそれだけを溢す。

「アルシウスには頃合いを見て俺から話す。それまで一切他言無用だ」

「分かりました」

それではアルシウス様にお声をかけて来ますと、執務室の外で警護にあたっている近衛騎士のもと向かうべくジーンは執務室を出て行った。

「さて、今日は何の話をしてやろうか」

この国の成り立ち、魔族のこと、紅い瞳の話、夢物語でも何でも良い。
椅子から立ち上がったグレイルは執務室の一角に置かれた書棚の前に移動すると、顎に指を添え真剣に考えた。
書棚の中には執務室に置かれているのが不似合いな本が数十冊以上納まっていた。
子供に与えられる様な絵物語や冒険譚の書かれた書物、異国の夢物語や図鑑。
どれも高価な物だ。

グレイルはその中から子供向けの絵本を一冊引き抜くとタイトルに指先を滑らせ、ふと紅い瞳を細める。

「物語の魔法使いみたいに失った時を取り戻してやる事は出来ないが、これから与えてやる事は出来るんだ」

甘えるという事を知らず、一人、己の足で立つアルシウスは強い。故にグレイルの瞳には孤独に映った。確かに信頼できる仲間はいるのだろうが、彼らはアルシウスにとっては守るべき配下という認識だろう。
実際に彼らがどう考えていようとアルシウスの認識はそうだ。

だから、まずはそこから崩していく。
アルシウスが無意識に築いている自衛という名の強がりを。

「まぁ…アルシウスはまた子供扱いと怒るだろうが、今日はこの絵物語を持って行ってやろう」

子供扱いに怒るアルシウスも可愛いものだ。近衛騎士の凛々しい顔も悪くはないが、子供扱いした時に出る素直な表情の方がグレイルとしては好みだった。

「美味い菓子と絵物語。他に子供が好きなものは何かあったか…」

グレイルは悪戯を企むような微笑みを溢して、執務室を出て行く。アルシウスを除いて付いてくる近衛騎士を背にグレイルは庭へと向かった。





庭先にはセッティングの済んだテーブルにイス、僅かに離れた場所にメイド達が控え、近衛騎士の服を身に付けたアルシウスが困惑した顔でジーンと話しており、その様子を微笑ましそうにアルシウスの親衛隊が護衛の配置に付きながら見守っている。
ふいにジーンの視線がこちらに投げられ、アルシウスもグレイルが来た事に気付くと先程の困惑した顔から一転きりりと表情を引き締めると騎士の礼を取って言った。

「グレイル殿下」

「そういうのはいらん。堅苦しい挨拶は公的な場だけでいい。ジーンから言われなかったか?」

「ですが…」

「俺は休憩しに来たんだ。公務時間外、今は私的な時間だ。相手をしてくれ、アルシウス」

「……グレイルがそう望むなら」

ようようイスに座る気になったアルシウスを先にイスに座らせ、グレイルは執務室から持って来た本をテーブルの上に置く。それからイスに座り、メイド達が二人のカップに紅茶を注ぐのを待って、メイド達を一度庭から下がらせた。
グレイルの側近でもあるジーンも自ら距離を置いて、二人の邪魔はせぬようにと気配を抑える。

まだ落ち着かなさげに視線をさ迷わせるアルシウスに小さく笑みを溢して、グレイルはテーブルの上に置かれた焼き菓子の器に手を伸ばした。

「俺も普段はあまり間食はしない方だが、この間食べたこれは美味かった」

藤の籠に盛られた、こんがりと焼き目の付いた楕円形のサクサクとした生地が特徴のクッキーにアルシウスの視線が移る。

「また同じもので悪いが、アルシウスもどうだ?これは紅茶にもよく合う」

先に摘まんで口へと運べば、アルシウスは迷った素振りを見せてからおずおずと手を伸ばした。

「…貰う」

「いっぱいあるから遠慮するな」

端から見れば餌付けをしている様にも見えたが、誰もが黙ってその光景を微笑ましく眺めている。
特にアルシウスの親衛隊員達はようやく戦場から解き放たれ、年相応、それ以上に幼い部分を垣間見せるようになった元隊長の姿にまるで保護者になったような気分で二人のやりとりを見守っていた。

「それと今日はお前が興味を持ちそうな絵物語を持って来たぞ」

「絵物語?グレイルは俺を何歳だと思っているんだ」

気に入ったお菓子を口に運んで、綻んだ表情が途端に不満げなものに変わる。

「ただの絵物語じゃないぞ。これは絵が飛び出してくる仕掛け絵本だ。大人にも人気がある」

「飛び出してくる?どうやって?絵本とはいえ、ただの紙だろう?」

「まぁ、見れば分かる」

そう言って椅子から立ち上がったグレイルはわざわざアルシウスの隣に椅子を移動させると、アルシウスの隣に並んで腰を下ろす。
ずっと近付いた距離にアルシウスが身構える事もなく、アルシウスの視線はグレイルの手元にある絵本に向けられていた。



温かなその光景をたまたま城の回廊を通りかかって、眺める人物が二人。

「悪いな、バシュレ。うちの弟がアルシウスを独占しているようで」

一人は背後に護衛の騎士を連れていた。

「いいえ。とんでも御座いません。グレイル殿下には感謝してもしきれません」

この様な光景を目にすることが出来るだけでもう…。
感極まった様に一度言葉を切ると公爵は続けて言った。

「殿下の口添えのお陰で、アルシウスが今度うちの屋敷へ足を運んでみたいと私に言ってくれたのです」

今からアルシウスが屋敷に来るのが楽しみでしかたがないのだとバシュレ公爵は相好を崩した。

「そうか。それは良かったな」

「はい」

ゆるりと双眸を和らげた二人の視線の先にはようやく取り戻したシュリエス皇国のあるべき姿が映る。

後の世にてアルシウス=バシュレはグレイル=シュリエスの最たる側近として名を残すことになるが、それはまだ先の話である。



end.



[ 132 ]

[*prev] [next#]
[top]



- ナノ -