02
身体の節々が痛いが、頭はいつもよりかはすっきりとしている。いつの間にか寝てしまっていたかと、腕を伸ばしてゆっくりと瞼を持ち上げる。またソファで寝てしまったかと上体を起こして異変に気付いた。
「ようやく目が覚めたかよ」
テーブルを挟んで向かい側のソファに武本が座っている。
野上は武本と正対する様に身を起こすと、向かい合う形で口を開いた。
「何でお前がここにいる?」
そう口に出せば武本はひくりと口端を吊り上げ、己の感情を抑え込むように言った。
「ここは風紀室だぜ、野上」
「………」
「覚えてねぇのか」
まさか忘れたとは言わせねぇと睨み付けて来る鋭い眼光に野上は直前の出来事を思い返す。
生徒会室で仕事をしていて、何か閃いたような。何だか酷く胸がスカッとする様な良い考えが浮かんだのだ。それで、生徒会室を出たような気がしなくもない。それから…。
「お前を…殴った?」
「そうだな」
「辞職願を受け取った気がしなくもない」
「てめぇは速攻投げ捨ててたけどな」
「…バッチも返ってきた?」
「俺が回収してきてやったんだ」
「………」
「おい、それだけか?他にも言うことがあんだろうが」
「ほか…?……そうだな。前からお前を側に置いときたかったんだ」
真剣に思い返す野上に相槌を打っていた武本の動きが止まる。
「ちょうど良い。これを機に組織を再編しよう」
人気投票というわけの分からない選抜方法で重要ともいえる生徒会役員を選ぶからこんな事になったのだと、野上は根幹から問題を断ち切ろうと提案する。それは実力主義的な所がある野上らしい考えだ。
だが、しかし、その前に。
武本には聞いておかなくてはならないことが出来た。
「野上」
「言っとくが、お前に拒否権はない」
「それは構わねぇが、理由ぐらい聞かせろ」
今度は俺を副会長に指名する理由。
風紀委員長の時は単に不良共を従えている実力を買われてのことだと思っていたが。
ここに来て、風紀委員長だと遠いだとか、前から俺を側に置いときたかっただの。
野上の発言の真意を問う。
すると野上は何とも簡単に答えを投げ返して来た。
「また顔も見れなくなったら嫌だろう」
「は…」
「それにお前にはもう風紀委員長としての実績がある。役職替えをした所で文句は出ないはずだ。……出たら俺が潰す」
「…お前、実はまだ寝惚けてたりするか?」
「それでも良いが。風紀委員長の人選はお前に任せるぞ」
「あ、あぁ…」
「俺は生徒会室に戻って人選をやり直す。風紀の引き継ぎが終わったら生徒会室に来い」
話は以上だと勝手に話を進め、決定した野上がソファから腰を上げる。
自分のペースを取り戻した野上にうっかり呑まれそうになって、武本は慌てて風紀委員室の扉に手をかけた野上の腕を掴んだ。
「待て。なにお前だけで完結してやがる」
「離せ。さっさと人員を補充しろと言ったのはお前だろう。邪魔をするな」
扉の前で武本と野上は睨み合う。
「言ったがな……野上」
この際、全てを白状させてやると武本は強引に話を戻して聞く。
「お前、頭が回って無かったとはいえ、連中をぶっとばした後はどうするつもりだったんだ」
野上が殴り込みに行く前に、武本が全てを終わらせていなかったら。今頃、野上は生徒会長の座どころか、理由はどうあれ、暴力を振るったとして最悪Sクラスから下位のクラスへと降格処分を受けていたかもしれない。いわゆるクラス落ちだ。
そう聞いた武本に野上は何だ、そんなことかと喉の奥で笑うとあっけらかんと言い放つ。
「そうしたら俺もお前と同じクラスになっただけだ」
「はっ、…てめぇがそんな馬鹿だとは知らなかったぜ」
「合理的だろう?」
「どこが、………お前、そこまでして俺のこと好きなのか?」
これまでの野上の言動全てを思い返し、武本は真剣な眼差しを野上に向ける。
その眼差しにも言葉にも仄かに熱が籠っていたが、野上はその熱さに気付いていないのか、僅かに考えた素振りを見せてから言った。
「好き…というよりか、お前しかいないと思ってる。…お前が良い。いずれ俺のものにする」
素直な野上の告白は武本が思っていたよりも深い想いが詰まっていた。
「あー…、そうかよ」
これには聞いた武本の方が動揺を隠せず、もっと早く手を出しても良かったのかと惜しい気持ちになったが、互いに気持ちが通じ合っていなければ、それは犯罪である。
武本は一つ呼吸をおいて、己を落ち着かせると野上の言葉に応えるように笑った。
「だったら、てめぇが忘れねぇうちに慰謝料を貰っても構わねぇよな?」
「は…」
僅かに痛みの残る右頬を無視して武本は野上を扉に押さえ付けると返事を聞く前に噛み付くように野上の口を塞いだ。
「…ん…っ!」
僅かに乾燥していた野上の唇を湿らせる様に舐め、閉ざされる前に素早く己の舌を突っ込む。
驚いてなのか、戸惑ったように動きを止めた舌を絡めとり、口内を我が物顔で荒らす。
「ン、…ふっ…」
野上の鼻からくぐもった様な声が漏れ、じわりと赤みの差した目元に武本は瞳を細める。
逃がさぬ様に野上の頭を扉に押し付け、角度を変えて、口付けを深める。
熱い舌を触れ合わせ、更に野上の反応を見るように武本はゆっくり口内をなぶった。
「は…ッ…」
抵抗はされないが、武本の制服を掴んだ野上の指先が震えている。
まさか俺が怖いのか?怯えているのか?と一瞬動揺を覚えたが、その直後にがくりと体勢を崩した野上に、そういやこいつ体調が悪いんだったと、つい途中から加減を忘れて口付けていた武本は我に返った。
「あー…しょうがねぇな」
咄嗟に武本に抱き止められた野上は吐息も荒く、口端から零れ落ちた唾液を右手の甲で拭う。武本に身体を預けたまま野上は熱くなった頬を冷ましながら口を開いた。
「それで、…慰謝料とやらは済んだのか?」
互いに触れ合った身体が熱いのが抱き止めた腕から伝わる。
「いや、全然足りねぇ」
もっと欲しいと身体は正直に訴えたが、武本は大人しく腕の中にいる野上の姿に、これ以上は酷かと頭を切り換える。
「いいか、野上。もう勝手な真似はするんじゃねぇぞ」
むしろ、強制的に生徒会に入れられた分、武本は野上の側にいることが多くなるだろう。
それならば遠回しでは無く、直球で言った方が早い。
武本は腕の中にいる野上を見据えると大事な事を告げる様に重ねて言った。
「俺の目の届く範囲にいろ」
また一人で生徒会室に籠るんじゃねぇぞと釘を刺すような視線を感じて野上は口角を吊り上げる。
「…分かった」
「嫌に素直だな?」
「お前が側で見張ってるんだろう」
「あぁ」
きっぱりと頷いた武本に野上は満足げに笑みを零すと、もう離せと抱き止めていた武本の腕を引く。
武本の腕の中から解放された野上はもういいなと今度こそ風紀室の扉の鍵を解除し扉を開けた。
「野上」
廊下へと歩を進めたその背中に念を押す様に武本の声が飛ぶ。
「俺が行くまで大人しく生徒会室で待ってろ」
それに野上は片手をひらりと振ると早く来いよと一言残して風紀室から去って行く。
「いまいち信用ならねぇな」
武本はスマートフォンを取り出すと画面をタップして電話を掛けた。
「俺だ。五分以内に風紀委員室まで来い。あ?五分は無理だぁ?言ってる暇があったらさっさと走って来い。いいな?」
相手の都合をまるっと無視して通話を切ると、武本は風紀委員長席に着き、引き継ぎに必要な書類を用意し始める。
「ったく、早く来やがれ」
武本は野上の後ろ姿を思い出し、もう一人で勝手な事が出来ないように数日間は腕の中に閉じ込めてやろうかと邪な思いが頭の中を過ぎていった。
重だるい身体を引き摺り出て来た生徒会室。出て来た時と一転、上機嫌で鍵を外すと野上は生徒会室の中に入った。
気を抜くと緩みそうになる口許を引き締め、決裁済みの書類と未決裁の書類の山が半分ずつ位に分かれて積まれた生徒会長席に着く。
「あぁ…これは久々に良い夢だ」
椅子に深く腰掛け、腹の前で指を組む。ふっと息を吐き出し、瞼を閉じた。
嫌に現実味のある良い夢を俺は見ている。
夢の中ならではの自分に都合の良い展開。
「顔を見れただけでも良い夢だが…」
風紀委員長から生徒会副会長への役職替えか。何とも無茶な要求だ。自分で口にした事だが、武本もよく文句も言わずに受け入れてくれる。
「元からアイツは懐が深かったな」
現実で風紀委員長に指名した時も、嫌がらずに受けてくれた。生徒会長など不良達から見れば、正義の味方宜しく敵と思われて嫌われても仕方がないのに。武本は強いだけではなく、良い奴だと野上は武本への好感度を上げる。
「…しかし、夢と言えど思い通りにはいかないか」
慰謝料としてキスをされた時は一瞬、まるで現実と勘違いしそうになった。唇に触れる柔らかな感触と口内で交わる濡れた熱い感触。それらが夢を侵食していくように身体を熱くさせた。
「俺の体調が万全だったら」
続きがあったのだろうかと悔やむ。
何故、夢にまで現実が響くのかと疑問にも思うが。こればかりはしょうがない。そう。
「しょうがない」
アイツもそう言っていた。
夢とは所詮そんなものだ。
曖昧で掴み所の無い、荒唐無稽な妄想を絵に描いたもの。
そう自分を慰めて、瞼を持ち上げる。
とりあえず目が覚めるまで、目の前に積まれている未決裁の書類を片付けようと野上は書類の山へ手を伸ばした。
それから更に一時間後…
生徒会室の鍵が外される音でうつらうつらと揺れていた意識が浮上してくる。
「よぉ、大人しくしてたか野上」
生徒会室の鍵を外して入室してきた武本が生徒会長席に座る野上へと鋭い双眸と共に言葉を投げてきた。それに対し、眉を寄せた野上の口から出た言葉といえば。
「…何の用だ、武本」
「はぁ?…お前また寝惚けてんじゃねぇだろうな」
「何の話だ?」
どうにも話の噛み合わない野上の様子に武本は嫌な予感を覚えて眉間の皺を深くした。
椅子に座ったままこちらを不思議そうに見上げてくる野上の正面に立ち、武本はじっと真剣な眼差しで野上を見下ろすと、おもむろに右手を伸ばし、机越しに野上の頬に触れた。
「俺を呼びつけたのはお前だぜ」
警戒される事もなく、いとも簡単に触れられた野上の右頬を武本は軽く引っ張った。
「いっ、何すんだ!離せっ」
「てめぇがまたおかしな事言うから、目ぇ開けたまま寝てんじゃねぇかと思ってな」
さすがに振り払われた手に武本は野上をじっと見下ろして、その反応を見る。
「そんな馬鹿なことがあるか。俺は忙しいんだ。用がないなら、さっさと出て行け」
「なるほど…。お前の頭じゃ昼間の事は無かった事になってるのか」
武本は風紀室で見た反応とは真逆の事を口にする野上に一つ頷き、口端を吊り上げる。
「悪いがそれはきけねぇな」
「はぁ?」
「なんせ俺は誰かさん直々に生徒会副会長に指名されたんでな」
武本は風紀委員長のバッチから生徒会副会長へと刻印の換わった右胸に触れる。
「何処かの誰かさんは俺を側に置いておきたいほど、俺の顔が見たいらしい」
「な…っ」
がたりと椅子を鳴らして野上が椅子から立ち上がる。その目は信じられないものを見るように見開かれ、武本の胸元に付けられたバッチを凝視していた。
「分かったか、野上?」
ゆらりと揺れた野上の視線を絡めとって武本は机の上に身を乗り出す。机上に手をついて、夢と現実を結びつけている最中の野上の意識を自分へと引き寄せた。
「俺を指名したのはお前だ。…そして、俺はそれを受け入れた」
「武本…」
繋がった記憶に、生徒会室を出てからの事は全て夢だと思い込んでいた現実に、野上は呆然と武本を見つめる。
「とりあえず、お前は今すぐ仮眠室に行け。詳しい話はお前の体調が戻ってからしてやる」
「…嫌だ」
「あぁ?嫌だってな、圧倒的に睡眠が足らねぇから頭もおかしいんだろうが」
「分かってる。だが、これがまた夢だった場合どうすればいい」
野上は夢と現実の区別がつかぬほど弱っていたのか。新たに判明した事実に武本は元生徒会役員達をやはりボコボコにしておくべきだったかと真剣に思った。だが、今は目の前のこいつが優先だ。
「分かった、野上。こうしよう」
「武本」
「手を出さねぇ自信はまったくねぇが、それでも良いなら一緒に寝てやる。そうすりゃ嫌でも夢じゃねぇって分かるだろ」
野上の体調を気遣う割には酷く最低な提案だが、武本は本心を隠すこと無くそう告げた。すると野上は僅かに考えた後、ゆっくりと口を開く。
「…それでいい」
「決まりだな」
机上から身を退いた武本は机を回り込むと野上の隣に立ち、そっと右手を差し出す。
「いいか、野上。次にお前が目を覚ました時、隣にいるのは俺だ」
決して一人ではないと、言葉と共に向けられた真摯な眼差しが自身でも気づかぬ内に疲弊していた野上の心の柔らかな部分に触れてくる。
「…っ、あぁ。しばらくの間、お前の顔だけ見てたいもんだ」
野上は一瞬、揺れた心を誤魔化す様に、差し出された武本の右手に左手を重ねると自ら椅子から立ち上がり、無理だと分かっている我が儘を溢した。
「お前がそう望むなら叶えてやるぜ?」
武本は野上の手を取ったまま、片手で自身のスマートフォンを操作すると風紀委員長の時に培った人脈やF組のトップとしての実力を駆使して数日間、生徒会が機能しなくても問題が無いようにと手配し始める。
特に後継の風紀委員長は武本の息がかかった配下であり、学内の風紀に関しては心配していない。他にも生徒会の仕事に関しては他の委員会や生徒会顧問に押し付け…もとい、分散させて野上が復帰した時の仕事量を減らしておく事も忘れない。
「それは職権乱用だろう?」
「いいや。会長様が望む事を叶えてやるのが副会長である俺の仕事だ」
それに好きな奴からそんな台詞を口にされて、大人しく聞き流せるか。
「なに、心配するな」
お前は俺の事だけ考えてればいいと、スマートフォンをポケットにしまった武本に言い切られ、野上は重ねていた手を引かれる。
「とりあえず、数日間籠っても大丈夫なようにお前の部屋行くぞ」
野上は武本に手を引かれてそのまま生徒会室を後にした。
後日、学園内で姿を見せない元風紀委員長改め現生徒会副会長の武本へと職務怠慢ではないかととある人物達が一矢報いる為に抗議の声を上げたが、その声は学内に広まる前に他の役職持ち達から封殺された。
その代わりのように今、学内にはとある噂が流れている。
何処かの誰かさん達が仕事を押し付けたせいで野上生徒会長が倒れ、その看病を新たに副会長となった元風紀委員長武本が付きっきりでしているという、嘘と真実の入り交じった噂だ。
全ては野上が復帰した時の為、武本が配下である風紀委員長を利用して故意に流した噂である。
しかし、当の本人はそんな事になっているとは露ほども知らず、武本の腕の中で心地好い微睡みに身を委ねていた。
end.
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