深淵
黒のブレザーに黒のスラックス。同じ制服の群れの中にいても一際目立つ、茶色というよりは赤に近い髪色。同色の切れ長の鋭い双眸。自身の首に巻き付けられたなめし革の黒いチョーカーに指先を滑らせ、シャラリとその先に付いている冷たい鈍色の鎖に触れて男はふっと口端を吊り上げた。
「まだまだ甘いなぁ、お前は」
そうしてクツクツと肩を震わせた男は、光の射し込む開け放たれた扉へと目を向け、ぐつぐつと沸騰するようなアツい熱を孕んだ双眸をツィと細める。
「…早くその扉を閉めろ」
そして、とろりと蕩けるような甘い響きを持った声音で囁き、扉の鍵を握る相手を自らの内へオイデと手招く。
さぁ、誰も入って来れない密室を作り上げろ。
光さえも射し込まない、暗く深い闇の中へ――。
-深淵-
竜西男子高等学校。
…六月。
今にも雨が降りだしそうなどんよりとした雲が朝から空を覆ったその日。
竜西高校に一人の編入生が一年のクラスへと編入してきた。
名前は中峰 忠(なかみね ただし)
一度も染めたことのない黒髪はさらさらで、ぱっちりとした大きな瞳にそれにみあった可憐な声。男子の平均身長より低い背、華奢な身体。天使の様に整ったその容姿は女子のいない全寮制男子高においてすぐさま注目の的となった。
何よりもまず最初に編入生を校門まで迎えに出た生徒会副会長が編入生の可憐な容姿に一目惚れしたと、編入生の案内を終えて戻ってきた生徒会室でポロリとそう溢した。
それを聞いて興味を引かれた書記と会計が、昼休み、昼食をとりに行きつつ食堂に現れるであろう編入生を見たいと騒ぎ出した。
「好きにしろ」
そんな煩く騒ぐ面々を興味も無く一瞥し、黙らせる為に冷たく言い放ったのが…竜西高校の頂きに立つ生徒会長、海藤 狼雅(かいどう ろうが)。三年。赤に近い髪色に180センチの長身。男なら誰もが羨むようなバランスのとれた整った容姿で、寛げた首元にはネクタイの代わりにお洒落なのか、なめし革の黒のチョーカーを付けていた。
そのチョーカーがお気に入りなのか、狼雅は毎日同じものを付けていて、時おりチョーカーに指先を滑らせては鋭いその双眸を緩やかに細めていた。
また、全寮制の男子校という華のない学校の中で、狼雅を筆頭に生徒会メンバーは種類は違えど皆容姿の整った者ばかりだった。
そんな彼等が食堂に足を踏み入れれば、これまた当然のように一般の生徒達から熱い視線を送られ、男とは思えぬきゃぁきゃぁと甲高い悲鳴がそこかしこから上がる。
きょろきょろと編入生の姿を探す副会長達を置いて、始めからさして興味も無い狼雅はさっさと生徒会専用のテーブルに足を向ける。
「あっ、いた!忠!あの子ですよ、会長」
しかし、何を思ったのかテンションの高い副会長に腕を掴まれ、編入生のいるテーブルへと歩くように腕を引っ張られた。
「見てやるから離せ」
「あっ、すみません」
振り払うように掴まれた手を外し、狼雅は冷めた眼差しで編入生とやらへ目を向けた。
ひと足先に編入生に近付き、可愛い可愛いと騒ぐ会計と書記。編入生の座るテーブルにはそれなりに容姿も整い、校内ではそこそこ人気者の生徒が近付いてきた生徒会の面々を分かりやすく睨み付けていた。
「へぇ…」
その視線の意味に気付き、狼雅の口端が緩やかに歪む。
いきなり見ず知らずの、もっといえば生徒会に囲まれた編入生はオロオロとし、顔を赤くしたり青くしたりと見るからに戸惑っていた。
その中で唯一面識のある副会長が生徒会の面々を紹介し、常にない柔らかな笑みを浮かべて編入生を安心させる。
もっともその常に無い態度が編入生に好意を寄せる者、副会長に好意を寄せる者達の感情を悪い方向へと刺激した…などと、冷静に場を眺めていた狼雅以外はきっと誰も気付かなかっただろう。
一人の編入生と生徒会の接触に食堂は昼食どころではなく騒がしくなっていた。
そこへ、頗る冷静な頭でいた狼雅は視界の端にその姿を捉えた瞬間、獲物を目の前にした時のような高揚感に包まれ、ニィと密やかに獰猛に心の中で艶やかに笑った。
そして、さして興味の無かった編入生に自ら近付き手を伸ばす。
「なかみね ただし…とか言ったな?」
顎を掴んで無理矢理上向かせ、わざと熱っぽくその名を呼んでやる。
加えて至近距離で見つめてやれば、編入生はパッと分かりやすく顔を赤く染め上げた。
「ちょ、会長なにしてるんですか!」
「会長!」
慌てる副会長共を尻目に狼雅はゆっくりと編入生へと顔を近付ける。
「なかなか可愛い面してんな、お前。俺のもんになってみるか…―っ」
囁きながら編入生との距離を縮めた狼雅は唇が重なる寸前、いきなり苦しげに息を詰めた。
「何をしている、海藤」
後ろから、首に付けられていたチョーカーを思い切り引っ張られ、一時的に狼雅の首が絞まる。
直ぐそばから発せられた低いテノールの声が狼雅の鼓膜を揺らし、斜め後方へ視線を投げれば黒目黒髪にきっちりと制服を着込んだ風紀委員長、橋田 光明(はしだ こうめい)。三年。が、狼雅のすぐ側に立っていた。
身長は狼雅とそう変わらない180センチ台。
「生徒会長が自ら風紀を乱すとは関心しないな」
「っけほ…くっ、いってぇな。離せよ」
チョーカーを掴んだままの光明の手を振り払い、狼雅は眉を寄せる。
喉元に手をあて、背後を振り返った狼雅は鋭く睨み付けてくる光明と正面から対峙した。
「お前達は自分達が周囲へ与える影響をもっと考ろ」
言うだけ言って、すぐに狼雅から視線を外した光明は顔を真っ赤に染め上げて固まる編入生へと目を向ける。
「お前もだ、中峰。うちに編入してきた以上、身の振り方には気をつけろ」
鋭い一瞥に編入生は顔色を蒼くしつつ、小さく頷く。だが、光明の冷たいとも思える言葉に編入生に好意を寄せる者達は反感を覚えた。
その筆頭である副会長が光明に食って掛かる。
「なっ、そんな言い方!忠は今日編入してきたばかりなんですよ!」
「それがどうした」
「どうしたって…忠はまだ編入して来たばかりで、何も知らないんですよ?それをいきなり身の振り方だとか…!」
「甘いな。知らないで済むのは今日だけだ。甘やかすのと優しさは違う。何時でも誰かが助けてくれるとは限らないぞ。一瞬後には喰われてる可能性もある」
恋は盲目、ちやほやするだけが愛情ではない。
明らかに常とは違う副会長の態度、視線、全てを観察して光明は辿り着いた結論に淡々と切り返した。
「仮にも生徒会が学内の状態を知らないわけじゃあるまい」
思春期を迎える男子ばかりが詰め込まれた学校。
見目の良い人間は女の代わりに恋情を抱かれやすい。
「っ…」
反論の言葉すら封じて、光明は狼雅へと視線を戻した。
「昼食を食べに来ただけなら油を売ってないでさっさと生徒会席へ行け。これ以上風紀を乱すな」
真っ直ぐに自分へと向けられた強い眼差しに狼雅はクッと面白そうに喉を震わせると、悔しそうな顔で光明を睨み付ける副会長と名残惜しそうに編入生を見つめる会計と書記へ声をかける。
「行くぞ、てめぇら」
そうして生徒会一行は大人しく生徒会専用席へと去って行った。
「いいですか、忠。この学校には…」
その夜、生徒達を収めた寮の食堂で、昼間光明にたしなめられたはずの副会長と会計、書記が編入生を構う姿が目撃された。
副会長達は学内の風紀について教えるという名目を引っ提げて編入生に堂々と近付いていた。
編入生も忙しい中わざわざ教えに来てくれた先輩達に感謝こそすれ無下にすることは出来ず、大人しく話を聞く。
他にも同じテーブルに付いた人気者のルームメイトやクラスメイトが編入生を囲む。
そのことが知らず、食堂内に集まっていた親衛隊と呼ばれる一部の生徒達の負の感情を刺激していたとはこれまた誰も気付いていなかった。
「………」
そして、食堂で生徒達の視線を奪った中に唯一人加わらなかった狼雅は生徒会と風紀だけに特別に与えられた寮のフロアにいた。首に付けられた黒のチョーカーに指を滑らせながら、赤い絨毯の敷かれた廊下を踏み締めるように凛と背筋を伸ばして歩く。
生徒会長、海藤 狼雅と刻印されたプレートが填まる扉を狼雅は素通りし、風紀委員長、橋田 光明と刻印されたプレートが填まる扉の前で足を止めた。
流れるような動作でブレザーの内ポケットから一枚のカードを取り出し、扉脇に設置されていたテンキーのボタンを淀みなく押すとテンキー横にある細い溝にカードを差し込んだ。
程無くしてガチャンと鍵の外れる音がして狼雅は扉を開け、さも当然とばかりに光明の部屋へと上がり込んだ。
人気のない暗い室内に眉を寄せ、パチリとリビングの電気を付けると狼雅は室内を見回して舌打ちする。
「俺が来てやったのにまだ戻ってきてねぇのか」
着ていたブレザーを脱ぎ、ソファに投げるとキッチンに入り、冷蔵庫から勝手にミネラルウォーターを貰う。それから風呂の準備をして、着替えを取りに寝室に足を踏み入れた狼雅はナイトテーブルに置かれた物にスゥッと鋭い双眸を愉快気に細めた。
「くっ…はは…」
笑みの形に歪んだ口許を右手で覆い、漏れ出る笑いに肩を震わす。
「いいぜ。ますます俺好みになってきたなぁ」
口許を覆った手とは逆の手でナイトテーブルに置かれていたソレを手にとる。シャラリと冷たい金属の感触に、自身の首に付いているお洒落なチョーカーを連想する。
「これまた洒落た細工の鎖だな」
一見して鎖だと分からない細かい細工はアクセサリーだと言われれば疑う者もないだろう。
狼雅は手の中の鎖に指を滑らせ、クツリと笑う。
側にあるベッドに腰掛け、手探りで首に付いているチョーカーに鎖の端を付けてみた。
シャラリとチョーカーから伸びた鎖を引っ張り、しっかりくっついた事を確認して狼雅は当初の目的であった着替えを持って寝室を出る。
歩く度にシャラシャラと首元で鳴る鎖に狼雅は笑みを深めた。
「あ、待てよ。このまま入ったら錆びるか?」
ピタリと狼雅が風呂場の前で足を止めたと同時に玄関の鍵が外される音が狼雅の耳に届く。
玄関の扉が開けられ近付いてきた足音に狼雅は浮かれていた笑みを掻き消し、鋭い双眸で帰寮した相手を待ち構えた。
「遅かったな。どこで油売ってたんだ」
昼間に言われた台詞を嫌みのように口にして狼雅は視線を絡める。
「お前ほどじゃない。が、昼間のアレは何のつもりだ。俺を煽って愉しかったか?なぁ…狼雅」
きっちり締めていたネクタイを外し、ブレザーとワイシャツのボタンを胸元まで外した風紀委員長橋田 光明はゆるりと歪に唇を歪めた。
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