06


一人、部屋の前に残った鷹臣はなにも躊躇う事無く、扉脇に備え付けられていたインターフォンに手を伸ばす。

ピン、ポーン

外に音が漏れてくることはないが、中で鳴ったであろう呼び鈴の後にインターフォンからザザッとノイズが走る。

『…は、はい』

か細い小さな声がインターフォンから流れる。怯えを隠せていない声に、こいつが宮城かと鷹臣は判断する。

「北條だ。俺に用があるとか」

これが普段であれば、用があるなら自分から来いと突っ返している所だ。

鷹臣の返答に宮城が息を呑んだのがインターフォン越しに伝わって来る。だが、それがどうした。宮城の身柄は関係なく、鷹臣は指名されたからここまで来たのだ。

『――っ、入ってくれ。鍵は開いてる』

それだけ言うとインターフォンはぶつりと切れた。







弧を描いた唇が小さく動く。

「はっ、馬鹿な奴らだ」

俺狙いか、鷹臣狙いか知らねぇが。喧嘩を吹っ掛けて来るとは。

瑛貴は鷹臣の雄姿を直接自分の目で見れないことを僅かに残念に思いつつ、スマホを取り出す。そして、つい最近登録されたばかりの番号を呼び出す。教室に向かいながら電話をかけた。

「俺だ。数分前に鷹臣に接触してきた三年の教師の情報を教えろ」

あれは明らかに鷹臣に好意を持っていた。俺の鷹臣に。

一方的に話を切り出した瑛貴に冷静な声が返される。

『河戸 棚彦(かわべ たなひこ)。五十六歳。T大出身で、妻も同じくT大出身のエリート一家だ。二人の間には現在八歳になる娘がいる。うちでは三年A組の副担任で、専攻は現代史』

「へぇ…」

『河戸の身柄は既に風紀の手にある』

瑛貴の電話相手、【トロイ】の佐賀はそこにある事実を淡々と告げた。

【トロイ】は本日、風紀会長である東雲の要請により、朝から動いていた。
なので、河戸と北條の様子は学生寮の玄関に付けられていた防犯カメラでチェック済である。故に瑛貴からの唐突な質問にも淀みなく答えられる。

「そいつは面白くねぇな」

東雲に先を越されたかと瑛貴は舌打ちする。
だが、そんな瑛貴の機嫌を直すような言葉が佐賀の口から伝えられた。

『この後、風紀がどういう処分を下すか分からないが、河戸教諭の失職は確定している』

「へぇ?」

つまりはもうこの学園には居られなくなるという事か。その上、教師でもなくなる。

『やつのパソコンには大量の盗撮画像と動画。複数の生徒達と個人的にやりとりしたメールが保存されていた。その中には盗撮画像と動画を元に、脅迫めいた内容のものまで含まれている。…それを最適なタイミングを見計らって外部に流出させる』

しかし、そんなことをして【トロイ】には何のメリットがあるのか。

沈黙した瑛貴に佐賀は説明を続けた。

『これは別のクライアントからの依頼でもある』

「ふぅん」

もとより河戸という教師は生徒から恨みを買っていたということか。
まぁ、自業自得だろう。

瑛貴はそれだけ聞くと佐賀との通話を切った。

あの教師は自分が放っておいても、行き先は地獄だ。ならば、あと自分がすることは教室で鷹臣が戻って来るのを待つのみか。

三年S組の教室へと足を踏み入れた瑛貴はぴりつく空気すら無視して自分の席へと腰を下ろす。

「…高杉」

そこへ背後から声を掛けられるも瑛貴はその声を無視して、机に突っ伏して寝るかと暇潰しの方法を考える。腕を枕に顔を伏せようとした所で、瑛貴の元にその相手はやってきた。

「高杉」

「うるせぇな。何だよ?」

顔を上げた瑛貴の視線の先には眉をしかめた東雲の姿があった。ぴりぴりとした空気を放つ東雲に瑛貴は面倒臭さを隠そうともしない顔で答える。

「北條はどうした?」

「またそれか。鷹臣ならよく知らねぇ教師に呼び止められて、どっか行ったぜ」

「一人で行かせたのか」

「鷹臣が教室で待ってろって言うからな」

それは互いにタイガーである鷹臣の実力を知った上での確認の様な会話。東雲はウルフの抑止力として北條の事を計算していたが、ここに来てその判断は間違いだったのではないかと頭の隅に一抹の不安が過る。どうにも学園での大人しい北條の印象が拭えなかったせいか。妙な期待を残してしまったか。

「北條から目を離すなと言っておいたはずだが」

「はっ、何で俺がお前の言う事を聞かなきゃならねぇんだ。俺が聞くのは鷹臣の我儘だけだ」

「ちょっともう!朝からなに?不穏な空気を教室の中でまき散らさないでよ」

そう二人の間に登校して来たばかりの赤穂が割って入ってる。先に登校していた田町と芦尾は瑛貴が来てから、土曜日の件でひそひそと話し合っていた。ウルフに話しかけるタイミングを見計らってもいた。

そこへ、赤穂の強引な割り込みによりぴりついていた空気が緩む。ちょうどいいとばかりに田町と芦尾も加わる。

「韋駄天の。北條がどうとか言ってたが、大丈夫なのか?」

芦尾はちらりと聞こえた名前に、空席のままの鷹臣の席に目を向ける。クラスメイトとして純粋に心配したように聞く。

「それとも登校できないほどやっちゃったのか?」

昨日、一昨日と休みだったしと田町は軽い調子で言い、瑛貴を見る。

「バカ言ってんじゃないよ!」

そして、そんな田町を窘めたのは意外にも赤穂であった。土曜日の件でのお礼も兼ねて繰り出された田町の脇腹への一撃は風切り音がするほど鋭かった。

「―っ…、ちょっとぉ!」

「チッ!」

もう少し避けるのが遅ければ良い一撃が田町の脇腹に入ったであろう。非難の声に赤穂の舌打ちが被さる。

「あんたは芦尾から半殺しにして良いって許可が出てるんだよ」

「ちょっ、なにそれ!?芦尾!」

「そう言う事だ。俺の為に死ね、ピエロ」

「いやっ、半殺しからレベル上がってるし!」

「うるせぇぞ、てめぇら!学内じゃ乱闘禁止だ。やりたきゃ外でやれ」

騒がしくなった三人を東雲が一喝する。そして、我関せずとスマホを弄り始めた瑛貴に視線を戻す。

「それで、北條にはなんと言った?」

「遊んで来い」

もはや決定的だ。東雲の目から見ても学園内にいた北條は自ら積極的に面倒事に関わりに行くようなタイプではなかった。しかし、それが自分の恋人、もはや半身とでもいうべき人物に勧められたならば。

東雲は瑛貴の側を離れると、自席に座ってスマホを取り出す。急いで作成したメールの文面は至ってシンプルに。

『至急、宮城の身柄を保護しろ』

もう何があってもいいように。

東雲自身は風紀会長として周囲に知られ過ぎている。なので、その場を動く事が出来ない。それこそ、万が一にでも見張りが付けられていたら厄介だ。

特にこの件に関しては、相手を一網打尽にして終わらせなくては、第二、第三と被害が広がる可能性がある。狙われた北條や高杉は嬉々として返り討ちにするかも知れないが、それを事前に阻止することが学園内の風紀を守る風紀会の役目、風紀会長の務めであった。

「間違っても死人は出してくれるなよ、北條」

そう、東雲はもどかしげに祈るばかりであった。






扉を開け、玄関に入った鷹臣を出迎えたのは明るい色の茶髪に、両耳にピアスを幾つも付けた不良二人組であった。ごく普通の感性の持ち主ならば、二人を見た時点で回れ右をして、入って来たばかりの扉から逃げて行くところだ。

ちらりと背後の扉を確認した鷹臣に不良二人組が口を開く。

「おっと、その扉はもう開かねぇぜ」

「逃げられると思うなよ」

そうは言うが、多分、背後の扉は開くだろう。鷹臣が入った所で扉を塞ぐか、鍵をかけなければ意味が無い。鷹臣が周囲の気配を探った所で、あの教師以外に姿は見えなかった。つまりその役目を持っていたと思われる人間、教師は既に鷹臣が追い払っていた。

何も面白さを感じない茶番に、鷹臣の纏っていた空気が更に冷たさを増して行く。

「俺達が怖くて声も出せねぇってか」

「これだから学園育ちの坊ちゃんは」

げらげらと笑う二人組に、もういいかと鷹臣は冷めた思考で考える。

時にこの場合のもういいかは、二人の男の意識を刈り取ってもいいかという意味だ。まだ何も始まってはいないが。

「おら、ついて来い!」

偉そうに命令して伸ばされた手を鷹臣は自然な動作で避ける。そして、自ら玄関を上がった。まだ少しだけこの茶番に付き合ってやろう。

「そうそう、大人しく俺達の言う事を聞いときゃ会長にも良い思いをさせてやるぜ」

自ら進んで玄関を上がった姿に、それを自分達の言う事をよく聞く従順な態度と取った片方の男が鷹臣を見て厭らしく笑う。一方、空振りした手を偶然と思い直した男が再び偉そうに言う。

「ついて来い」

背を向けた二人の男の後ろ、鷹臣は土足のままその後をついて行く。

学生寮というのは特殊な部屋、例えば生徒会役員の部屋や風紀会役員などの部屋を除いては基本的に同じ造りをしている。

シューズボックスのある広い玄関を上がって右手側にトイレがあり、その向かい側となる左手側に洗面所とバスルーム。真っ直ぐ奥へと伸びる廊下の先には扉があり、その先に共有リビングがある。リビングの扉を開けて右手奥に簡易キッチンが備え付けられているが、寮内において自炊する生徒は少ない。更にリビングの中を突っ切った奥には二枚の扉がある。その先が各人の個室となっていた。もちろん鍵は掛けられるので、プライベートな空間は確保されている。

先を歩く二人が並んで歩いても窮屈さをまったく感じさせない広い廊下を奥へと進めば、目の前にリビングへと繋がる扉が見えて来る。
しかし、その中が何やら騒がしかった。

「―――!?」

「―――!!」

二人もそれを感じ取ったのだろう、顔を見合わせてリビングの扉を開く。

「おい、何やって…」

「伏見てめぇ!」

「ふざけんなよ!」

「いいだろ別に。本命はもう釣れたんだ」

伏見がリビングの奥にある個室の扉を開けて、その中に部屋の主でもある宮城を押し込んだ所であった。

東雲からの連絡に、守るべき対象は減らしておきたいと伏見は男二人に連れられて現れた鷹臣の姿を視界に入れて思う。

個室に押し込んだ宮城は伏見の言いつけを守って個室の鍵を落とす。
この方が伏見は戦いやすいから。自分が足手纏いなのは一番分かっていたから。

ほっと息を吐いたその時、誰もいないはずの、むしろ居てはおかしい窓の外。バルコニーからコンコンと窓を叩く音が個室に響いた。

「ひぇっ!?」

その音に文字通り飛び上がって驚いた宮城は、ただでさえ悪かった顔色を蒼白にして、背後を振り返る。

「やっほー、宮城先輩」

そして、その視線の先、バルコニーに立っていた生徒はひらひらと右手を振ると何とも軽い調子で続けて言った。

「悪いんだけど、ここの鍵開けてくれません?」

「だ、だれ…?」

「んー…、伏見先輩のスケットかな」

もしくは東雲先輩の切り札です。

そう返した生徒、生徒会書記の椿は鷹臣の雄姿を自分の目で見るべく、東雲からの要請をいい事に、風紀会長の権力と【トロイ】の力を存分に借りて、隣の部屋に侵入。バルコニーを伝って、外側から宮城の部屋にやってきたというわけだ。

宮城に窓を開けてもらい、椿は部屋の中へと入る。

「あざーっす」

律儀にお礼の言葉を口にして、部屋へと入った椿は宮城にはそのまま窓寄りの位置で待機してくれるよう頼む。

「大丈夫だとは思うけど、万が一扉が壊されると危ないんで」

「え?そんなことってあるの?」

驚く宮城に真剣な表情で頷き返し、椿はそっとリビングの中の様子を窺う様に扉に顔を寄せる。ぴたりと扉に耳をくっ付けて。

「…なんか忍者みたいだね」

外からやってきたり、その姿に宮城がポツリと呟いたが、あいにくとリビングの中へと意識を集中させていた椿の耳には届かなかった。





伏見に非難の声が殺到する中、鷹臣は冷静にリビングの中を見回す。

派手な髪色に着崩された制服。ちゃらちゃらとしたアクセサリーを幾つも付けたその姿からは不良っぽさが滲みだしている。それが九人。また、それとは違う異質差を感じさせる黒髪の男が一人。こいつのシャツの隙間からはタトゥーが見えている。

鷹臣を案内した不良二人組と伏見を入れると総勢十二人になる。

二人部屋とはいえ、それ以上に広くとられているリビング。だが、それだけの人数が入ると流石に狭い。なにより、うるさくて、暑苦しかった。

鷹臣の嫌いなものばかりだ。

リビングの入口に立ったまま鷹臣は奥のソファに一人座っている黒髪の男に目を向ける。
ぶつかった視線に、先に鷹臣が口を開く。

「教師を使ってまで俺に何の用だ?」

そこに宮城の名前が含まれていないのは関心の無さ故だ。

鷹臣がそう口を開けば、それまで伏見を非難していた不良共も黙って鷹臣に視線を集中させる。

「へぇ、気付いていながらやって来たのか。さすがは生徒会長様だ。生徒は見捨てられないってか」

その言葉に黒髪の男、久保田が馬鹿にしたように笑って言う。
だが、その返しに鷹臣は不可解そうな顔をした。

「何の話だ?」

何度も言うが、いち生徒である宮城のことなどハナから鷹臣の眼中にはない。噛み合わない会話に、不良共が勝手に鷹臣のその態度を一般人の強がりだと解釈して口を挟む。

「おいおい、惚けても無駄だぜ」

「アイツを助けに来たんだろ?」

「かーっ、格好良いねぇ。生徒会長様は」

「さすがは生徒の鏡」

「まっ、それが仇になるんだけどなぁ!」

「はははっ、ちげぇねぇ!」

げらげらと耳障りなことこの上ない、下品な笑い声に鷹臣の眉が顰められる。

「なぁ、そんなことよりさっさとやっちまおうぜ」

ウルフに対する恨みと、鷹臣を目の前にしてあからさまな欲望を抱いた視線が鷹臣に注がれる。とても不愉快だ。

「そうだ、ウルフに勘付かれる前にやっちまおう」

辻を筆頭に何人かが我に返ったように本来の目的を口にする。

ウルフ。瑛貴に勘付かれる前に、か。

鷹臣は自分に注がれる視線を不快に思いながら、それでもまだぎりぎり冷静さを保っていた頭で思考を巡らす。

どうやら自分はウルフの揉め事に巻き込まれたようだ。

辻達の催促に久保田の口元が歪に歪む。

「あぁ、そうだな」

一段と暗い影を帯びた瞳が怯えた様子一つ見せない鷹臣を捉えてどろりと深く沈む。

「こうなったのも全部アイツのせいだ。アイツのせいで、俺達は…」

うっそりといびつに歪んだ唇から力強い命令が発される。

「同じ目に合わせてやれ!アイツの大事なものをめちゃくちゃにしてやれ!」

「おぉー!!」

その命令を待っていたとばかりに不良共が動き出す。
しかし、その展開に水を差す人間が一人いた。

「がぁ…っ!」

「なにっ、おぶっ!?」

鷹臣に向かって足を踏み出した不良の後頭部を伏見が肘鉄で突く。続けざまにその隣にいた不良の腹部に硬く握りしめた右拳を打ち込む。腹部を押さえ、その場に崩れ落ちた不良から視線を上げて伏見は告げた。

「わりぃけど、ここまでだ。俺は抜けるぜ」

「てめっ!」

「伏見ぃ!」

「裏切るのか!」

「お前は最初から怪しいと思ってたんだ!」

「ウルフへの恨みを忘れたのか!」

激高する連中の中、堂々とリビングの中を突っ切った伏見はリビングの入口で立ち尽くす鷹臣を己の背中に庇う様にして立ち、鷹臣に向けて囁くように言う。

「北條。ここにはもうすぐ風紀が来る。それまで怖いかも知れねぇが、俺の後ろで大人しく…」

「断る」

「へ、こと…、え…ッ!?」

鷹臣の身を案じて告げた台詞は鋭い拒絶の言葉に掻き消され、同時に伏見の背中にぞくりとした悪寒にも似た震えが走る。がらりと変わった空気に伏見は目を見開き、慌てて己の背後を振り返った。

そっと静かに伏見の横を通り過ぎ、自らリビングの中へと足を踏み出した鷹臣の背中に驚愕の視線が突き刺さる。だが、そんな些事には構わず、収拾のつかなくなったリビング中を一瞥した鷹臣は口端を吊り上げ、一段と低い声を落とす。

「目的は俺だろ?だったら、余計な小細工してないでかかって来いよ」

じわりじわりとその身から滲みだした凶悪な気配に、すぐ側にいた不良共の体感温度が下がっていく。伊達眼鏡の下で鋭く細められた漆黒の眼差しは冷ややか過ぎるほどに冷たく、薄く弧を描いた唇が酷薄に笑う。

「て、てめぇ、俺達を舐めんなよ!」

「温室育ちの坊ちゃんが、生意気言ってんじゃねぇぞ!」

「今日はお前を守ってくれるウルフも親衛隊もいねぇんだ!」

「はっ、代わりに俺達が可愛がってやるぜ!」

辻を筆頭に、無意識下で鷹臣の発する凶悪な気配に気圧されていた不良共がそれを振り切る様に叫び、鷹臣に襲い掛かった。

左右、正面と。

鷹臣の口端が吊り上がる。

乱戦の真価は連携が取れてこそ発揮されるものだろう。
こんな烏合の衆には無意味な話。負ける気は一切なかった。

僅かに重心を下に落とした鷹臣は左右からの攻撃を無視して、まず正面から来る相手、辻へと大きく踏み込む。振りかぶられた拳を自分の後ろへと流し、素早く辻の足を払う。

「うおぁっ!?」

そこで大きく態勢を崩した辻の頭を鷲掴むと、その頭を右側から殴りかかって来ていた男の拳の前へと突き出す。

「うわぁっ、ばっ…、ぶぅ…!?」

鷹臣の代わりに辻の顔面に男の拳がヒットする。悲鳴を上げた辻の頭を鷲掴みにしたまま、鷹臣は左側から迫って来ていた拳を避け、その男の側頭部に向かって肘鉄をお見舞いする。

「がっ…!?」

仲間を殴ったことで動揺し、隙だらけになっていた右側の男の胴体を足で薙ぎ払い、

「ぐは…っ!」

それから仲間の攻撃であっけなく意識を飛ばした重い荷物、辻の頭をソファに座ったままの久保田の目の前に投げ捨てる様に放り投げた。

がっ、ごっ、と呻き声だか、物の落ちる音だかを上げながら、辻は白目を剥いたままリビングの床の上を転がる。

「うぉぉっ!」

さらに一人遅れて突進してきた男の拳を鷹臣は右掌で受けると、そのまま掴み、男が突進してきた勢いを利用して自分の方へと引き寄せた。その腹部に左拳を突き刺し、

「ぐっ、この…!」

それでも何とか崩れ落ちるのを堪えた男に向けて、鷹臣は冷ややかな眼差しを注いだ。
握っていた右手を解き、腹部から持ち上げた左拳で男の右頬を殴りつけて言う。

「俺に触るな」

「は、ぶべぇ…っ!?」

それは何とも理不尽な拳であった。

あっという間の出来事。あっという間の惨状。

「―――っ!?」

「………っ!?」

そのあまりの所業に鷹臣に殴りかかろうとしていた残りの不良達が目を開き、動きを止める。

その姿があまりにも自分達の知る生徒会長の姿と違っていたから。

北條生徒会長は自分達の様な人間、喧嘩に明け暮れている様な人種とは無縁で、喧嘩をしたこともない。常に冷静沈着、クールで知的な、それこそ絵に描いたような優等生では無かったか。そんなんだからその容姿も含めて生徒達には人気があり、教師陣からの信頼も厚い。

決して、こんな喧嘩慣れした荒々しい空気を纏う人間ではなかったはずだ。

なのに、…今、自分達の目の前にいるこいつは誰だ?

一瞬、不良達の思考がシンクロする。

鷹臣を包囲したまま固まったように動きを止めた不良達を一瞥し、鷹臣は更に奥へと踏み込む。

目を見開き、驚愕した様子を隠せぬ久保田の目の前に立つ。暴れた事で僅かに熱さを増した眼差しで久保田を見下ろす。

「お前を潰せばこの茶番も終わるか」

そう口に出しながらも返事は必要ないとばかりに、鷹臣はソファに座ったままの久保田の胸ぐらを掴み上げた。

「ばっ、待て!北條!」

それに待ったをかけたのは、つい鷹臣の戦いっぷりに見惚れてしまっていた伏見だ。

「そいつは風紀に…」

「はっ、ははははは!こんなことって、ありかよっ!」

胸ぐらを掴まれていた久保田が突如笑い出す。

「黙れ」

うるさいと、鷹臣は伏見の制止に耳を貸すことなく、久保田の顔面に右拳を叩き込む。

「がっ…っ、くはっ!」

幸いと言っては間違いか、胸ぐらを掴まれたままであった久保田は吹き飛ばされる事も無く、その場で頭を左右に揺らした。そして、性懲りもなく口を開く。

「なぁ、おいっ!学園の模範であるべき生徒会長様があのウルフの相棒だったとはなぁ!てめぇも、終わりだ!全部バラしてやる!お前の学園生活もめちゃくちゃにしてやるよ!」

騙されていた生徒達はどう思うかなぁ、と久保田は暗く沈んだ目で笑い、鷹臣を見る。しかし、鷹臣の纏う空気は一ミリも揺らがない。むしろその口元には久保田を嘲笑する様な笑みが刻まれた。

「それがどうした?俺は別に隠してたわけじゃない。気付かなかったお前らが間抜けなだけだろう」

それをまるで鬼の首でもとったように。何故、得意げな顔をして言うのか。理解出来ない。

「―っ、なら、学園外でバラしてやるよ!あの法曹界の名門、北條家の次男がってな!」

そうしたら、さすがにお前だってウルフを恨むだろう!もしかしたら、家から叩き出されるかもな!最悪、縁だって切られるかもしれないな!

北條家のお家柄故に。

「なっ、てめぇ!」

そりゃ、卑怯だろうと、伏見が口を挟む。

子供の喧嘩に親を連れて来る様なものだ。

しかし、脅された張本人はその台詞にうっすらと唇を動かし、笑っただけであった。
それに気づいた久保田の顔から笑みが消える。

「おい、何だよ、その顔」

「ふっ、くくくっ…」

鷹臣の肩が震える。

「だ、大丈夫か北條?」

鷹臣の正体がタイガーであったとしても、変わらず普通に心配して声をかける伏見。

鷹臣は内心で瑛貴に報告できる面白い事を一つ見つけたと笑って、久保田を見返して口を開く。

「俺は北條の名を惜しいと思った事は一度も無い」

それはもちろん、生徒会長という役職にも言えることだ。

故に鷹臣が返す言葉は一つ。

「好きにしろ」

「なっ…!」

鷹臣はもう何もできない子供ではない。自分にはもう自分で考え思考する頭と、どこにでも自由に行ける長い手足がある。もし自分一人で足りない分があれば瑛貴が補ってくれるであろう。

鷹臣の返しにありえないと驚く久保田を不可解そうに見下ろし、鷹臣は話を元に戻す。

「だが、その前に俺達に喧嘩を売ったこと後悔させてやる」

ぎらりと熱く熱の灯った鋭い眼差しが久保田を射抜く。

ぞっとするほど美しく、綺麗に、酷薄に笑った漆黒の獣。外見は違えども、そこにいたのは確かに夜の街を騒がせていたウルフの連れ、タイガーであった。


[ 42 ]

[*prev] [next#]
[top]



- ナノ -