02


宵闇の中、その一匹の獣。いや、まだ名前を付けられる前のやたらと顔立ちの整った茶髪に黒いパーカーを着た長身のその少年はひっそりとその街の片隅に立っていた。
息を潜める様に、ただ静かに…。 

夜になると纏う雰囲気をがらりと変える歓楽街。昼間は閉まっているシャッターも上げられ、煌々とその店の先々に灯りが点される。人の欲望と暴力が渦巻く夜の世界。
そいつは色の無い瞳で夜の街を行き交う人々をじっと観察する様にその境に立って眺めていた。

「………」

その姿は明らかに異質であるのに、通り過ぎる人々は誰一人として目に止めない。
そこに居るはずなのに、まるで居ない者のよう。存在感が希薄とでもいうのか、その場に立ち尽くすソイツは目を引く筈なのに、何故か目に止まらないという矛盾を孕んでそこに存在していた。

一瞬、自分の目にだけ映っているのか、幽霊かと馬鹿な考えが頭を過ったが、直ぐにその思考をあり得ないと振り払った。

「おい、ここはお前みてぇなガキが来るような場所じゃねぇぞ」

当時、中学生だった自分の事を棚に上げて瑛貴が言った台詞である。

「………」

「無視か?上等だ」

おいっとその場に佇み顔を向けもしない男の右肩を掴んで、無理矢理自分の方へと顔を向けさせた。

「…何だ。うるさいな。絡みたいなら他所へ行け」

瑛貴へと向けられた視線は殊更冷たく、その声も温度を感じられなかった。また、その美しく整い過ぎた顔が余計に恐怖心を煽る。ぞくりと背筋に走った震えに瑛貴は唇を歪めると息を吐き捨てる様に呟く。

「おもしれぇ」

この俺に恐怖を感じさせるとは。
だが、しかし…。

「お前は何だ?」

人に問う時に使う言葉としては適当ではない。それでも瑛貴は自分の感じた感覚と疑問を率直に口に出していた。
すると一瞬、本当に瞬きの間、目の前の男の表情が崩れた。無から有へと。息を吹き込まれた生身の輝き。その変化に目を奪われ、突如として握られた拳への対応が遅れた。

「邪魔をするな」

「ーっ、てめぇ」

咄嗟に腕でガードしたとはいえ、鳩尾を狙って繰り出された攻撃に腕が痺れる。
睨み返して蹴りを放てば、後ろに下がって避けられる。元に戻った色の無い瞳が瑛貴をじっと見ていた。

「何なんだお前…」

「俺の邪魔をするなら容赦はしない」

「はっ、言うじゃねぇか」

絡んだ視線に唇を歪め、拳を握る。
その気に入らない眼差しを歪めてやろうと瑛貴は男の顔面目掛けて右フックを繰り出した。

「っ、」

手応えは、なかった。けれど、完璧に避けきれなかったのか男の口端から赤い血が滴る。それを視認する間に反撃に出た男の左拳を瑛貴は咄嗟に身を屈めて避ける。素早く立ち上がり男の鳩尾を狙って拳を放つ。しかし、予測していたのか上手く受け流された拳に、次の攻撃に転じる間。その途中で交差した男の眼差しは、先程とは全く違う爛々とした輝きを持ち、瑛貴を鋭い眼差しで射ぬいていた。

コイツ、こういう顔も出来るんじゃねぇかと一瞬意識を奪われた隙に先程ガードに使って痺れていた腕をその上から再び殴られる。

「てめっ…」

口端を赤く染めた男は確かに瑛貴を見て笑った。乱暴に右手の甲で口端についた血を拭った男は、その手についた血を見て、一人呟く。

「…悪くは無い。だが、」

「なに?」

「顔はまずい…」

「は?」

男はぽつりと何事かを呟くと唐突に身を翻した。

「おい、待て!」

制止の声も虚しく、男の姿もあっという間に闇の中へと消えてしまう。
瑛貴はその意味の分からなさと、消化不良に終わった拳に舌打ちを打った。

「本当に何なんだアイツは」

初対面であるにも関わらず、その男、後のタイガーは瑛貴に一発いれてきたのだ。痺れの残る腕を擦り、瑛貴は男の消えた路地の先を睨む。相手にどんな事情があろうとも、やられたらやり返さねば気が済まない。

そう思って、その日から瑛貴は何処の誰とも分からぬその男を追い始めたのだが。
男の目撃証言は乏しく、翌日の夜にも姿を現さなかった。それどころか暫く街で見かけることもなかった。

「ちっ、捕まえて吐かせときゃ良かったぜ」

久々に骨のありそうな相手、それも謎めいた男に知らず知らず瑛貴の興味は掻き立てられていた。

 



そして、半月後、漸く見つけられたと思った男は、瑛貴の様に自分に絡んできたと思われる男どもを地面に叩き伏せ、その真ん中に堂々と立っていた。
痛みに呻く大の男の腹を爪先で蹴っては転がし、その美しく整い過ぎた能面の様な顔で男を見下ろしていた。

「痛いか?何とか言え」

ろくに答えられない様にしておきながら淡々と確認する様にそう聞くのだ。あの無感情な瞳で。

「お前…何がしてぇんだ」

その有り様を注意するでも、止めるでもなく、眺めながら瑛貴は男へと声をかけた。その時点でやり返そうと意気込んでいた気持ちは何処かへと消え失せていた。
瑛貴にはその横顔がつまらなそうに見えたのだ。だが、瑛貴へと移った視線はカメラを切り換える様にその印象をがらりと変える。

「お前には関係無い」

突き刺す様な冷たい眼差しが瑛貴の問いを切り捨てる。
再び瑛貴の前で身を翻した男は地面に転がる男どもをその場に捨て置いたまま、路地の奥へと歩き出す。

「お前に関係無くても、俺が興味ある」

「ついてくるな」

今度は振り切られる前に男の後を付いていく。男はそんな瑛貴に視線すら向けず、冷たく拒絶の言葉を吐く。

「あの時、何で逃げた」

「逃げてない」

「じゃぁ、再戦しようぜ」

瑛貴が言うが早いか、足を止めた男からワンステップで振り返り様に左ストレートが瑛貴の顎を目掛けて突き出された。身体の動きから反応して、辛うじて男の繰り出した拳を右掌で受け止めた瑛貴は、逆にその掴んだ拳を己の方へと力任せに引き寄せると、男の無防備な腹に一歩踏み込んでからの膝蹴りを喰らわす。

「っ、」

咄嗟に腹と膝の間に差し込まれた男の右手がその緩衝役を果たし、骨の軋む音とその感触が接触した骨を媒介にして瑛貴へと伝わってくる。

「大人しそうな面の割りに手がはえぇのはこの間ので分かってんだ」

それでこの前は先手を取られたからな。
にやりと口角を吊り上げて瑛貴は笑う。

「だから、なんだ」

至近距離で絡む事になった男の焦げ茶色の双眸が瑛貴を睨み付けてくる。
それに構わず瑛貴は空いていた左手で男の頬に触れた。

「怪我は治ったか?」

「っ、触るな」

左手を掴まれたまま、男が身を引くかと思えば、男は逆に踏み込んで強引にその場で身体を回転させた。流れる様な動きで瑛貴の右腕を取ると、瑛貴の胸に背中を合わせ、投げ技へと入る。

「何でも有りか。あぶねぇやつ」

咄嗟に瑛貴は男の手を離し、後方へと体重をかけて男のバランスを崩すと投げられるのを回避した。

「心配してやっただけだろ」

「心配?」

見ず知らずのお前が俺をと、感情を読ませない男の目が疑惑に揺れる。

「おかしいか?俺は自分の目に止まったものは大事にする方だぜ」

「意味が分からない」

「お前、名前は?」

「……」

男は考える素振りを見せたが答えることは無く。会話はそこで途切れた。

「見つけたぞ、ウルフ!」

ウルフである瑛貴に恨みを持つ者達が路地で二人を囲い始めたのだ。

「今夜こそ潰してやる」

瑛貴と渡り合える腕を持つ男の心配はしていなかったが、この横槍のせいで男にはまた、まんまと逃げられた。

「てめぇらのせいで貴重な時間を無駄にしちまったじゃねぇか」

男達が叩きのめされた上で、瑛貴から八つ当たりを受けたのは当然と言えば当然であった。

 



それから更に一週間後、薄暗い路地の中で見つけたその男は髪の色が茶色から赤に染め直され、別人の様に印象を変えていた。ただし、男のやることとその態度に変わりはなく。
容赦なく蹴り上げられた相手の顎が嫌な音を立てる。顔を仰け反らせた相手の瞳がぶれ、一瞬で目から光が失われた。

「あぁ…まだ、気を失うんじゃないぞ」

仰向けに地面に転がる寸前で相手の胸ぐらを掴んだソイツは鼻からも血を流す相手の顔を覗き込んで、淡々と一方的に喋る。

「おい、やっと愉しくなってきた所じゃねぇか」

その夜は何人の相手をしていたのか、男の拳やシャツには髪色と同じく赤い血の痕がついていた。
この時ばかりは男も気が昂っていたのか珍しく僅かにだが男の感情がその瞳に見え隠れしていた。

「お前は此処に何しに来てるんだ」

話し掛けてもあれ以来、男が瑛貴を相手にする素振りはなく。

「お前には関係無い」

そう冷たくあしらわれる日が続いた。
しかし、日々を積み重ねていけば、男とはそれなりに会話が成立するような仲にはなっていた。

「何で途中で髪の色を変えた?」

「面倒臭いな」

「お前にはもっと綺麗な色の方があってる」

「どうしようが俺の勝手だ」

「どうせならそのカラコンも変えてみようぜ」

「………」

その内、男について分かった事が幾つかあった。
この男がこの街に姿を現すのは土日の夜が多い。それも不定期で歓楽街周辺にいる事が多い。

「いつもここに来るが、誰かを待ってるわけでもねぇ。目的は何だ?」

今夜も人間の本性が垣間見れる薄暗い夜の街を眺めながら、血に染まった己の拳を握ったり、開いたりする男に瑛貴は質問を投げ掛けた。
すると男は気紛れを起こしたのか、瑛貴の質問に口元だけで笑って答えた。

「ここには俺には無いものがある」

「無いもの…。喧嘩が好きなのか」

「…嫌いじゃない。…好きかも知れない」

曖昧に答えた男の双眸に揺らめく様な熱が灯る。

「かも知れない?冗談だろ。俺が見てきた限り、お前は喧嘩が好きだ」

「………」

「喧嘩を吹っ掛ける積極性はねぇが、売られた喧嘩を全部買ってきたのがその証拠だろ」

「…そうなるのか」

「あぁ」

瑛貴は自分の隣で立ち尽くす男に視線を向けて瞳を細める。

コイツには自分という、普通なら誰もが持っている個性。その人らしさ、アイデンティティというものが感じられない。意図的に隠しているわけでもなく、無なのだ。
お前は何だと聞いたあの一瞬、拳をかわした時に見せたあの顔がこの男の素顔だと思うのだが。

ゆるりと口端が緩む。

美しく整ったその横顔。この男から人間臭さを感じないのは感情が乏しいからだ。

それならばと、思考したのは一瞬。

瑛貴は男の右腕を掴むと強引に人通りの無い別の路地に連れ込んだ。抵抗される前に壁に押し付け、腕で囲ってから男と真っ直ぐ視線を絡めて言う。

「お前の探し物、俺が見つけてやろうか」

「何の話だ?」

「何度ここに来たって、今のままじゃ何も手に入らねぇぜ」

この男が夜の街、特に歓楽街に足を運ぶ理由が何となく分かった気がして瑛貴は鎌をかける。

「……お前に、分かるのか」

返された視線に、その言葉に、どうやら当たりを引けたようだと瑛貴は不敵に笑って頷く。

「あぁ、教えてやる。本当に欲しいものの手に入れ方ってやつを」

お前がどんな人間か、その本性を引き摺り出してやる。
何があってこの男が、自分という己を見失っているのか、はたまた最初から自分という自己を形成することが出来なかったのか知らないが。あの時、一瞬だけ垣間見た男の素顔に惹かれたのは確かだ。

そう欲しいものは自ら手に入れにいくものだ。

 

それから頑なに名前だけは名乗らなかった男に通り名を付けたのはウルフであった瑛貴だ。
当時、一匹狼として瑛貴は既にウルフと呼ばれていた。

そんな自分に目を付けられて可哀想になと思うのと同時に、瑛貴はこの男が自分好みに化けそうだとそんな予感を感じて、自分と対等になるような名前を付けた。
虎と狼。並べれば、どちらも欲深く、残忍なことの例えに使われることもある。ただ、狼がウルフと呼ばれるように、最初は虎と付けた名前もいつしかこの男の存在が広まっていくうちに、自然と呼び名が変化してタイガーと呼ばれるようになっていった。

ちなみにタイガーの髪色や瞳の色に関しても、身元を探られたくねぇならと男に似合いそうな色を。付けた名前にも合う様に瑛貴が用意したのだ。
特に好みもなく、今までは周囲を欺く為に適当にしていただけだと言ったタイガーをその時から瑛貴は己好みに仕立て上げていた。

 



そんな殺伐とした初対面の時の事を思い出して、瑛貴は続けて言う。

「まぁ…お前らには分からなくても構わねぇ」

「えーっ、何か逆に謎を増やされた感じがするんだけど?」

大人しく見えて色々と凶暴だと言われた鷹臣は、タイガーであること以外には、やはり身に覚えがなくて首を傾げる。
また、田町も北條を指して言うには意外な言葉だと瞼を瞬かせながら、不満そうに唇を尖らせた。そんな田町を瑛貴は軽くあしらう。

「当然だろ。こいつの事は俺だけが知ってれば十分。誰にも教える気はねぇ」

だから、無駄な詮索も俺達の邪魔もするなと言外に瑛貴はこの場にいるクラスメイト達に向けて圧力をかけた。




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