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翌日、本日二度目となる三年S組の教室の扉をくぐった瑛貴は一人だった。その隣に鷹臣の姿はないが、鷹臣は生徒会室に向かったのでもなければ、学校自体に来ていなかった。

アイツが誘ってきたとはいえ、流石に無茶させ過ぎたか。

自席の椅子を引きながら、ふと朝の出来事を思い出す。
朝の、腰が抜けて立てない様子の鷹臣の姿を脳裏に思い浮かべ、少しやり過ぎたかと反芻するも、鷹臣も鷹臣だと思う。俺に甘過ぎるのだ。嬉しいことではあるが、今は自分も加減が利かない。

昨日は生徒会室での始末を付けた後、二人は授業も受けずにさっさと寮へと帰って来ていた。
そこで少し遅い昼食を鷹臣の為に用意し、これからの事やこれまでの事を色々と話しながらのんびりと食事を済ませた。
ただ鷹臣はよほど身体が疲れていたのか、お腹が満たされると今度は眠気に襲われてか、そのままソファに凭れて眠ってしまった。なので、ベッドまで丁寧に運んでやり、起きる様子のない鷹臣の寝顔を暫くベッドに腰掛け眺めていた。

その内シーツの上に散らばった艶やかな黒髪に指先を絡ませたり、穏やかな寝息を立てる唇に指先で触れたり。数時間前まで互いの身を焦がすほどの激しい熱を交わし合っていたとは思えぬ顔で、俺の目の前で、酷く安心して無防備な姿を曝す鷹臣が可愛く思えて、愛しく感じて…。鷹臣を見つめる視線は自然と柔らかいものになった。

その後も起きる気配のない鷹臣に目が覚めたら夕飯でも用意してやるかと、鷹臣の隣に寝転がり、鷹臣を腕の中に抱き寄せて共に寝た。
そして、朝方になってようやく目を覚ました鷹臣がトイレに起きようとした時、俺も一緒に目を覚ました。腕の中から離れた温もりに、もう朝かと鷹臣の背中を眺めていたら。
すとんとベットを下りた辺りで、鷹臣が突然その場に腰を落としたのだ。
あまりに一瞬の事で俺は瞼を瞬かせた。

「…瑛貴」

そこへまだ微かに掠れた声で名前を呼ばれ、振り向いた鷹臣に事態を察してベッドから身を起こした。
腰を落とし、床の上で座り込んだままの鷹臣を抱き上げるように身を屈めて腕を自分の首の後ろへと回すよう促した。

「大丈夫じゃねぇな」

「そうみたいだ」

抱き上げれば吐息混じりに笑った鷹臣の声が耳を擽り、とりあえずトイレの前まで連れて行ってくれと言う。その声からは二日続けて腰が立たなくなるような負荷を身体に掛けたことに対する文句を言う様な雰囲気はまったくなく。それどころか鷹臣はどこか愉しげですらあった。

トイレの前で下ろしてやれば、鷹臣は壁に手を付いて一人でトイレに入って行く。どうにも長距離の移動が不安なだけで、トイレと隣接する洗面所には自分の足で向かった。そして、洗面所から出て来た鷹臣の様子を近くの壁に背を凭れて眺めていれば、再び名前を呼ばれる。

「瑛貴」

「どうした」

壁から背を離し鷹臣に近付けば、おもむろに伸ばされた両腕が俺の首に回される。

「とりあえずソファまで」

どうやら運べという合図らしかった。
可愛いことをする。
零れた笑みに鷹臣が不思議そうな顔をしたが、その目許に唇を落とすことで誤魔化して抱き上げた鷹臣をリビングのソファまで連れて行った。

「今、何か食べるもの用意してやる」

結局昨日は夕飯を食べなかったなと思い出し告げれば、鷹臣は自分のお腹辺りに手をやり、素直に頷く。

「お腹が空いた気もするな」

「待ってろ。直ぐ作ってやる」

ソファに下ろした鷹臣の頭をひと撫でしてから、鷹臣の為に飯を作りに普段使われていない室内にあるキッチンへと向かった。
その背中を見つめていた双眸が甘くうっとりと細められた事には気付かなかった。

鷹臣の体調と一応朝食ということを考慮して胃に負担の掛かる様な重いものは除外して、さほど手間のかからないパンケーキを作る。それと一緒にヨーグルトを出し、アップルティーを淹れてやる。

「…そういえば今更なんだが、この食材はどうしたんだ?」

ソファに背を凭れていた鷹臣はテーブルの上に運ばれて来た朝食のメニューを見て首を傾げた。
本当に今更過ぎる疑問に、つい先日には当たり前のように俺の手料理を所望してきたくせに、あれは無意識だったのかと鷹臣のどこか間の抜けた言動に口許が緩む。
そして、別に隠すことでもない謎に俺は鷹臣の隣に腰を下ろしつつ答えた。

「最初にこの部屋に来た時、お前を待ってる間に色々とチェックさせて貰った」

「あぁ…」

あの時かと、俺をこの部屋に残して生徒会室に行った時の事を思い出しているのだろう鷹臣は納得した様子で相槌を打つ。

「そん時に冷蔵庫の中も見て、側に何か端末が吊ってあったからな。それで注文出来んのかと思って適当に注文しといたんだ」

俺達が出払ってる間に冷蔵庫の中身は届けられたらしく、一杯になっていた。…と、いうカラクリだ。

「食べれそうか?」

「食べる」

鷹臣の疑問が解けた所で、先にアップルティーを注いだカップを手渡す。パンケーキは食べやすい様に一口大に切ってやり、自分もしっかり食べつつ、喉を湿らせてカップをテーブルに戻した鷹臣の口にパンケーキの欠片を運ぶ。

「ほら」

「あ……、ん」

素直に口を開けた鷹臣はフォークに刺さったパンケーキを口に含むともぐもぐと口を動かした。
そんな感じで朝食をゆっくり終えても、登校時間まではまだたっぷりと余裕があった。
なので食器の片付けまで済ませて、キッチンを出れば鷹臣は先程まで座っていたリビングのソファに横になりその身を投げ出していた。右手を腹の上に乗せ、左手はだらりとソファの横に投げ出されている。
部屋では眼鏡を外している、鷹臣の裸眼の瞳がじっとこちらを見詰めてきた。
その意味を汲み取って鷹臣の元へと足を向ければ、ソファの側で足を止めた俺の右手を鷹臣の左手が掬い上げる。右手を引かれるままに好きにさせていれば、鷹臣は可愛らしいリップ音を付けて俺の右手の甲に口付けた。

「なぁ、一つ頼みがあるんだが」

ソファに寝そべる鷹臣から向けられる視線は自然と上目遣いになる。

「とりあえず言ってみろ」

頼みの内容にもよるなと案に告げれば、鷹臣の口からは何とも学生らしい話が飛び出す。

「教室にある俺の机の中に、授業で配られたプリント類が多分溜まってるからそれを回収してきてくれないか?午前中はちょっと動けそうにねぇから、ここで一気に片付けとこうと思ってな」

「そんなの気にしてるのか?」

意外に学校生活というものを大事にしてるのかと聞き返せば、鷹臣は緩く首を左右に振った。

「まさか。そうじゃない。お前が授業に出てる間の暇潰しだ」

「あ?俺がお前を置いて学校に行くと思ってんのか?」

互いの間にある認識の違いに眉をひそめれば、鷹臣は俺の言葉にまた首を横に振った。
掴まれていた右手の甲に鷹臣の頬が触れる。

「思ってないが…お前に側にいられると俺の自制が利かなくて困る」

身体を休めなきゃならないことは自分が一番良く分かっているのに。お前が側にいると駄目だ。休めない。

「お前の気持ちは嬉しいけど、どうせなら万全の状態で俺も応えたいし。だから、少しの間だけで良い、俺に時間をくれ。その間に身体を落ち着かせとく」

何の恥じらいもなく告げられた台詞に、口角が上がるのが分かった。
だって、そうだろ?
鷹臣は俺のせいで、俺の与えた熱のせいで今も逆上せてる様な状態から抜けきれないと言ったのだ。俺に溺れてる証拠だ。嬉しいじゃねぇか。…だが、それならば俺にも言える。

「駄目か、瑛貴?」

掴まれていた右手の甲に甘えるように鷹臣が頬を擦り寄せてくる。

「……分かった。午前中だけ。昼には戻って来る」

気持ちは同じでも、当たり前だが受け入れる側の鷹臣の方が身体に掛かる負担は大きい。鷹臣はそれでも変わらず、俺の全てを受け入れて応えたいと言ってくれている。
俺だって別に鷹臣を壊したいわけじゃねぇ。大事に愛したいだけなのだ。

了承の返事を返せば、ふっと弧を描いた唇が右手の指先に触れる。

「昼飯は一緒に食おうぜ」

「俺に作らせるの間違いだろ?」

「む…瑛貴の作る飯が一番美味いんだから、しょうがないだろ」

大人びた表情を捨て去り、子供っぽくむくれた表情を見せる鷹臣にくつくつと肩を震わせる。

「あぁ、そうだったな。俺がお前にそう覚えさせたんだ」

全てが煩わしく面倒臭いのだと、世の中を厭世的に見ていた鷹臣に夜の街で会った俺が色々と教え、覚えさせて、俺好みに仕込んだのだ。まぁそんなことをしなくても元より鷹臣は俺の好みど真ん中だったが。

そしてそんな鷹臣の頼みを聞いて、朝早くに一度学校に来てプリント類を回収したのち鷹臣に届けて。本日、二度目の登校となったわけだが…。今朝見た時には存在していなかった手紙と思われる封筒が机の中に入っていた。

当然、俺には何の心当たりもないものだ。
さて、どうするかと机に入れられていた封筒を机の上に引き出せば、ちょうど良いタイミングで面倒事を押し付けるのに都合の良い男が教室へと入って来た。
相手は俺がいることに驚いた様子で、次に俺の周囲へ目を向ける。

「高杉、北條はどうした」

挨拶も無しに掛けられた声にふっと瞳を細める。

「鷹臣なら今日は来ないぜ。昨日、可愛がり過ぎてな」

言っている意味を正しく受け止めたのだろう、東雲はやや口端を歪めると、何ともいえない顔をした。

「お前、少しは手加減してやれよ」

「鷹臣がそれを望んだらな」

それよりと話を切って、封を開けてもいない手紙らしきものを東雲に向かって投げる。

「ゴミで棄てても良かったが、ちょうどお前が来たからな。お前にやるぜ」

「は?」

自分に向かって投げられた封筒を東雲は反射的に受け取ってしまった。

「何が書いてあるのか知らねぇけど、俺に用はねぇ。お前も要らなかったら棄てとけ」

「おい、ふざけんな。俺はゴミ箱か」

そんな二人のやり取りを始めから見ている者がいた。瑛貴の隣の席で机に顔を伏せ、眠たそうにしていた伏見だ。



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