16
「橘!またお前か!その生徒をさっさと離せ!」
痛みで涙の滲む視界の端に、黒髪で端整な顔立ちの生徒が近付いてくるのが写る。
「っの野郎…!」
激痛の走った首元を、痛みを堪えて見やれば、來希の金に染めた髪が俺の首元に埋まっているのが見えた。
その首元を、べろりと熱く湿った感触が這う。
「何しっ、ン…っ…やめっ!」
痛みと妙な痺れを感じてこれは何か良く分からないがヤバイと思う。
捻り上げられた右腕。押さえ付けられた左腕に、足の間には然り気無く來希の足が置かれ、抵抗しようにも動きを封じられ何も出来ない。
「…うるせぇな」
來希は掛けられた声を無視していたが、直ぐ側までやって来られた事で無視できなくなってしまった。
「うるせぇじゃない。早くその生徒を離せ」
「チッ…、続きは今度だヒサ」
ぱっと緩んだ拘束に、俺は第三者がいるのも構わず振り返ると來希の胸ぐらを両手で掴む。
掴んでそのまま己の方に引き寄せ、突然の事に体勢を崩した來希の腹に、突き上げた右膝を勢いを殺さぬまま突き入れた。
「くっ…!」
大きく見開かれた目、咄嗟に腹筋に力を入れたのか手応えはあまりない。
ギロリと据わった眼差しに俺は舌打ちし、その横っ面に拳を打ち込もうとして…握った右拳を第三者に掴まれた。
「そこまで!橘の一方的な暴力かと思ったけど違うみたいだな」
「離せ」
頭に血が昇っていた俺は止めに入った男を睨み付ける。
「やっぱヤメだ。今、ヤる。だからその手を離せ、掃除屋」
体勢を整え直した來希も再び息を吹き返した様に瞳をギラつかせ、俺を見据えた。
睨み合う俺達に掃除屋と呼ばれた男が深い溜め息を落とす。
「俺の目の前でこれ以上やるっていうなら二人とも風紀違反で風紀室に叩き込むけど、いいんだな?」
風紀と聞いて頭に昇っていた血がすっと下がる。冷静になりだしたところで來希に噛まれた首元がズキリと痛み、掴まれていた拳から力を抜いた。
戦意を無くした俺に気付いた掃除屋は俺の手を放し、真っ直ぐ來希を見る。
「後はお前だ、橘。どうする?」
「……チッ。白けたぜ」
口ではそう言いつつも、その目は鋭い光を湛えたまま。廊下に落ちた俺の眼鏡を拾い上げ、來希は不穏な空気を纏ったまま俺達に背を向ける。
「おい、返せよ。俺の眼鏡」
「必要ねぇだろ?」
「必要だからかけてるんだろうが」
取り返そうと一歩前へ出たところで來希が振り向き、手にした俺の眼鏡を片手で振る。
「嘘は良くねぇぜ、ヒサ。この眼鏡、度なんか入っちゃいねぇだろ」
「…何のことだか」
「認めねぇなら別にそれでも良いぜ」
俺がしらばっくれると來希はニィと嫌らしく口端を吊り上げ、その手から眼鏡を滑り落とした。
重力に従い落下した眼鏡がカシャンと床にぶつかり、止める間もなく乗せられる足。
メキャと耳障りな音が來希の足の下から聞こえ、眼鏡は一瞬でガラクタと化した。
それを見た瞬間、自分の中で何かが切れる音がした。
「てっめぇ…!」
「あっ、おい!待て!」
再び伸びてきた掃除屋の手を裏拳で払い、眼鏡を踏む來希の足目掛けて蹴りを放つ。
「っと、…良いのか、掃除屋が見てるぜ?」
「ンなことよりその眼鏡はなっ…!」
兄貴から貰ったものだ。ブラコンじゃねぇが兄貴が俺に何かくれるというのは実は珍しく、密かに嬉しかったりした。それを!
足を眼鏡の上から退けて一歩後退した來希に、俺は勢いのまま踏み込み、下から伸び上がるように握り締めた右拳を伸ばした。
だが、その拳はバシンと乾いた音を立て來希の掌に抑え込まれる。
「マジ…ふざけんなよてめぇ!」
同時に、抑え込まれた手とは逆の手が、來希が構えるより先にその頬を捉えた。
ガッと握った拳に手応えを感じ、來希の頭がぶれる。來希の意識が一瞬反れた隙に左手を取り返し、無防備な腹に左拳を叩き込んだ。
「ぐっ…ぅ…っ…てめっ…」
「俺に喧嘩売ったこと後悔だけじゃすまさねぇ」
ふらついただけでその場に留まった來希を睨み付け言い放てば、先程の比じゃないぐらい強い気と鋭い眼差しが返ってくる。
口の中を切ったのか、やや眉を寄せ來希が吐き出した唾には血が混じっていた。
「はっ、だったらどうだってんだ」
たしかに手応えはあった筈なのに、ダメージを感じさせない動きで來希が攻撃を仕掛けてくる。
それも無駄のない動き、一撃でも当たれば確実に動けなくなる様な。
族潰しとして名を馳せることだけはある、とその戦い振りが思わせた。
しかし、そう思わせたのは來希ばかりではなかった。
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