18


拓磨は上座に座った猛に促がされ、テーブルを間に挟んで正面の座布団に腰を下ろす。
そこへ襖の外から声が掛かり、この屋敷の厨房を任されているという男が挨拶と共に料理を運んで来た。

「こいつも元は海原の人間だ。名前は瀬良(せら)」

「瀬良です。宜しくお願いします」

頭を下げた拍子に頭の後ろで一つに縛られていた髪がぴょこりと揺れる。細身に見えるが、それは弱弱しいという意味では無くて、しなやかな強さを感じさせる体躯であった。また、歳は近藤や荒木よりも若く、四十代といったところか。
テーブルの上に料理を並べる瀬良を無意識のうちに観察していれば、猛がちょうど良いと口を開く。

「拓磨。今夜の飯はどうするつもりだ」

「……猛は、…アンタが外で食べて来るなら、俺は自分の分は自分で作る」

「なるほど。聞いてたな瀬良。夕飯はまた二人分で作っておけ」

「分かりました」

瀬良の寡黙だった表情がゆるりと優しげに緩む。
それではごゆっくりと頭を下げて退室して行った瀬良から拓磨は視線を切り、猛と向き合う。テーブルの上にはご飯と豚汁、煮物に豚の冷しゃぶサラダがこんもりと盛られていた。
拓磨は猛が箸を付けるのを見てから、自分も箸を動かす。

「二人分って、今日は何時に帰って来るんだよ」

「そう遅くはならない」

行儀悪く煮物は箸で突き刺し、食べる。
右腕のリハビリを始めようと考えていた所だったので、気を使われないこの食事の方が拓磨にはちょうど良かった。ぎこちなくはあるが、文句もつけずに食事を進める拓磨に猛は会話を続ける。

「自分一人なら作る気だったのか」

「自分の分ならいくら失敗しようが構わないからな」

「ほぅ…、俺に失敗作は食わせられないと」

「アンタが気にしないなら食わせてやってもいい」

でも、頼めばちゃんとした料理が出て来ると分かっていて、誰がわざわざ失敗するかも知れない料理を頼むのか。それもリハビリの一環で作るものだ。今、目の前に出されたようなきちんとした料理ではない。それこそ一人暮らしの男子大学生が適当に作る、大雑把な飯だ。

「そう気にせずともいい。俺だって昔は飯なんて食べられれば何だって良いと、適当だった頃もある」

「え、そう…なのか?」

思わぬ話に拓磨の手が止まる。猛の口から猛自身の話を聞くのはこれが初めてかもしれない。
けれども猛はそんな拓磨の様子を気にも止めず、拓磨の言葉に頷く。

「俺だって初めから美味い飯ばかりを食ってたわけじゃない。それこそ組を立ち上げて軌道に乗るまでは忙しかったし、その前はうちの事務所に居る若い連中とたいして変わらなかった。それに…」

氷堂組の前身である海原組。

「俺はしばらく海原の元で過ごしていた時期もある」

それは日向も言っていた。詳しい話は直接本人に聞いた方が良いと。
猛もここに来る前に、この屋敷で子供の頃を過ごしていたというようなことを言っていた。それが事実なら。

「それは…猛も海原組に入ってたってことか?」

それで何らかの流れで、猛が組の名前を変えて、そのまま組を継いだとか。
拓磨は気になっていた疑問を言葉に乗せた。答えてくれるかは分からなかったが、知りたいと思った気持ちが拓磨の背中を押した。
すると猛は少し考えた様子で首を横に振る。

「いや、引き取られただけだ」

あれこれと口を出してはいたが、それだけのこと。実際に海原組には入っちゃいないし、籍も置いてはいない。

「え?引き取られた…?」

不思議な単語を耳にしたという様に拓磨は瞼を瞬かせ、猛を見つめ返す。

「それはどういう…」

呟き返せば、猛も言葉が足りなかったことに気付いたのか、改めてさらりと己の身の上を告げた。

「あぁ…、俺はガキの頃に海原のオヤジに引き取られたんだ」

「え…っ」

「親父が死んで、その後すぐにこの屋敷にやって来た」

海原のオヤジは当時の組長のことを指し、今は無き海原組最後の組長のことだ。
俺の母親は親父より先に墓の下の住人になっていたし、まだ小学校に通い始めてそこそこの歳のガキが一人で生きていくには無理があった。そこで、一人残される形になったガキの俺を海原のオヤジが心配して引き取った。元から俺の親父と海原のオヤジは古くからの友人であり、交流があった。

「養子縁組の話を出された時はさすがに断ったが」

「…そう、なんだ」

「もともと海原のオヤジには子供がいなかった。そのせいもあるかもしれねぇがな」

「……そう」

猛の両親も、その父親代わりとなっていた海原組の組長も今はいない。三人とも既に鬼籍に入ってしまっている。だから、日向は猛が海原組長の命日には必ず墓参りに行っていると言っていたのか。猛は気にした様子もなくさらりと語ったが、家族と呼べるほど大切な人はもういないという、その衝撃的な内容に拓磨は相槌を打つ以外何を言えばいいのか分からずに口を噤む。

「お前が気にするようなことじゃない。別に不便な事は何もなかったし、おかげで俺も色々と好きにやらせてもらった」

猛にとってはとうに過ぎた過去の事でも、人の生死について敏感になっている拓磨の鈍い反応を見て、猛はそこで話を一度切る。凪いでいた漆黒の双眸に仄かな熱を宿して、その意識を揺らすように、こちら側へと引き戻す様にその名前を呼ぶ。

「拓磨」

そうして続けて、違和感なくそのまま流れる様に話の矛先を変えていく。

「お前も好きに過ごすといい」

「…あぁ」

「もしこの後マンションの方に必要な荷物を取りに行くなら、裏のガレージで待機させてる佐々木を使え」

あいつはお前用に屋敷に残していく。

「猛は?」

「俺は仕事だ。この後一度、事務所に戻る」

そう言って今後の話をしてから、猛は拓磨が食べ終わるのを待って席を立つ。
屋敷の奥へと歩いて来た廊下を戻り、母屋の玄関に向かう。拓磨は猛の後をついて行きながら、ぼんやりと思考の海に沈んだまま足を動かす。
そのせいか目の前の事がやや疎かになっていた。母屋の玄関に着き、先に靴を履いて振り返った猛の行動に反応するのが遅れた。

不意にぽんと頭に乗せられた右手にそっと優しく頭を撫でられ、足元を見ていた拓磨はその感触に驚いて顔を跳ね上げる。目を丸くした拓磨の耳元に笑みを含んだ低い声が落とされる。

「俺が帰って来るまで良い子にしていろ」

「はっ―!?」

行ってくると一方的に唇を掠めた熱に拓磨の顔が燃える様に一瞬で熱くなる。頭から下ろされた右手が熱くなった拓磨の頬をするりと撫でて、離れて行った。

「なっ…!」

完全な不意打ちに拓磨の言葉は追い付かず、拓磨は猛を見送った形のまま玄関で立ち尽くす。しかし、直ぐに我に返った拓磨は周囲に人がいない事を確認し、安堵の息を吐いた。そっと猛の熱を感じた己の唇に左手で触れ、小さく零す。

「やっぱり場所ぐらい選ぶべきだ…」

これが二人きりのマンションや人払いのされている離れなら…と、考えて不自然なほど早まった己の鼓動に危険を感じて理性がブレーキをかける。

「っ、なに、考えて。良いわけないだろ。場所が何処だって」

そう、良いわけがない。
頭を左右に振って、熱で浮かされた様におかしくなった自分の考えを頭の中から追い出す。けれども、結局は車の中で猛が言っていた様に、自分が本当は嫌じゃないと思っている事は自分自身が良く分かっていた。顔に集まった熱が、早まった鼓動がまざまざと自分にそう伝えていた。認められないのは、ただ単に恥ずかしいと感じている心が理性に働きかけているからだった。

「はぁ…」

拓磨はのろのろと玄関で靴を履くと母屋を出て、離れの屋敷へと伸びる小道を歩く。
誰にも赤く染まった顔を見せるわけにはいかないと足早に敷地内を進み、猛から貰った鍵で離れの屋敷の玄関を開ける。からりと横滑りさせた格子模様の刻まれた引戸を潜り、屋敷の中へと上がった。

「ここが今日から俺の家か…」

手の中に収まった家の鍵へと視線を落として、ゆっくりとその言葉を確認する様に呑み込む。それからもう一度、じっくりと一人で家の中を見て回り、最後に自室として与えられた部屋へと足を踏み入れる。

特に必要な物はと考えて、大学に関係する荷物だろうと真っ先に思う。この屋敷から通うことを考えた上で、大学で配られたプリントやテキスト、ノートといった学習道具。レポートは手書きの場合もあればオンラインでの提出を指定される場合もある。しかし、拓磨自身は個人用のパソコンを所持していない。ほとんどの場合大学内で貸し出されている学内用のパソコンを使用するか、図書館のパソコンを借りて作業をしている。そのレポート内容が詰まったUSBメモリー、いわゆる記録媒体は予備を入れて二本使用している。同じ内容のレポートが入ったメモリーを二本用意するようになったのは、鴉の情報部隊を纏めている小田桐からの珍しい助言を受けてからだ。常にバックアップは用意しておけと、専門の情報学部に在籍しているだけあってか、その時の小田桐は嫌に真剣みを帯びた重々しい口調でそう告げたのだった。大和共々その時は静かに頷き返すに留めたが、あの時の小田桐の身に何があったのか。今でもその理由は知らず、謎となっている。

服はいくつかこちらに持ってくるかとクローゼットを開け、拓磨はそのまま数秒言葉を失う。

「……入ってる…?」

持ってきた覚えのない服。それどころか見覚えすらない服が吊るされている。
いつどこで着るのか知らないが、スーツを始め、軽めのジャケットにコート、上着が数点吊るされており、まさかと思って引き出しを開ければ、そこには拓磨が普段着として着れそうな服やズボンが何の違和感もなく、当たり前の様に収納されていた。

「いつの間に…」

自分がこの屋敷へ足を踏み入れた時点で、本当に自分の身一つで引っ越しは完了していたらしい。

「なんだよそれ。ずるいだろ」

こんなに多くのものを与えるだけ与えておきながら、何も言わないなんて。

「卑怯だ」

猛にとってはわざわざ言うような事ではなかったのかも知れないが、先程のバイクを始め、自分用にと用意された物の数々が拓磨にとってどれだけ重たい意味を持つ事なのか猛は分かっていない。
これまで俺は猛に金で買われた人間として、猛の用意するものについて深くは考えてこなかった。だって金で買われた俺には最初から受け入れる以外の選択肢がなかったから。
でも、…今は違う。その関係性すら違うのに。
俺は猛を拒めない。
猛は俺から選択肢を奪っていく。

言葉で、行動で。注がれる愛情に胸が詰まる。
ひたひたと傷付き渇いた心の奥底に染み込む様にそれは心地好く、心を満たしていく。

俺の欲しかったもの、望んだこと。全部、与えるつもりか。傲慢すぎるだろう。

「こんなの…」

幼い頃から親戚の間を転々としてきた拓磨にとって、当たり前だが自分の物だと認識できるような物など何一つなかった。そのせいか拓磨には物欲というものがあまり存在しない。そしてそれは家族も同然に拓磨を受け入れてくれた志郎も似たり寄ったりであった。施設育ちであった故か志郎もあまり無駄な買い物はしなかったし、自身が厄介者であると自覚のあった拓磨には志郎が申し訳なさそうな顔をしながらも志郎が与えてくれるものは、例えそれが志郎が使用していた古い物でも十分に嬉しかった。その度に志郎は拓磨の事を弟扱いし、自分に弟がいたらきっとこんな感じなんだろうなと瞳を和らげて楽しそうに笑っていた。

「はっ…」

目の前のものたちは、そのどれにも当てはまらない。自分の為に、拓磨用にと用意された数々の物に、自分の居場所は此処だと強く語り掛けられている様で拓磨は震えそうになった唇を噛む。

「何が良い子で待ってろだ。ふざけんな…」

先程別れたばかりの男の顔が脳裏に浮かび、とくりと震えた鼓動が胸を熱くさせる。

「アイツは俺をどうしたいんだ」

答えは分かっているのに、追い付かない自分の心がもどかしい。

「くそっ……」

クローゼットを閉じた拓磨は意識して気持ちを切り換える様にカーテンの引かれていた窓へと足を向けた。





「………」

その後程なしくて離れの屋敷の内部を再チェックし終えた拓磨は離れを出て、裏の車が停めてあるガレージへと足を運ぶ。
その足音に気付いたのか、ガレージ奥にあるこじんまりとした休憩所から佐々木が顔を出し、拓磨を出迎えた。

「会長から話は聞いています。一度マンションの方に戻られますか?」

「あぁ」

「では、こちらにどうぞ」

そう言って佐々木はガレージに停めてあった車の中でも小型車を選んで後部座席のドアを開けた。
拓磨は促されるままその車に乗り込み、ドアを閉めようとした佐々木に向かって言葉を投げる。

「別に俺相手に畏まらなくていい。この場には猛もいないんだ」

ドアを閉め運転席に回った佐々木は自分も車に乗り込みながら、自覚の薄いらしい拓磨の言葉に苦笑を浮かべ、真面目な声で返す。

「そういうわけにもいきません。貴方はもう会長の大切な身内なんですから」

そう言われて咄嗟に何かを言い返そうとした拓磨だったが、けれども言葉にならず、ただ二人の間の空気だけが震える。結局何も言わずに口を閉じた拓磨の様子をミラー越しに確認した佐々木はゆっくりと車を走らせ始めた。
敷地内から裏門へと、屋敷の裏側にある道に出た車は右へと曲がる。窓の外へ目を向けた拓磨は佐々木に自ら声を掛けた。

「出来ればさっき走って来た道と違う道を走ってくれ」

「分かりました」

佐々木は拓磨の不思議な指示にも疑問を挟むことなく、理由も訊かずに来た時とは違う道を選んでハンドルを切った。
この辺も猛に何かしら言い含められているのか。
拓磨は知らない、初めて見る外の景色に目を向けたままぼんやりと考えを巡らせていた。



やがて、マンション近くの道に合流した車はそのままマンションの地下駐車場へと入って行く。佐々木は周防と違い、地下駐車場のエレベータ前で足を止めると、その先は拓磨一人で行かせてくれた。
手が必要ならばいつでも声を掛けて下さいと、エレベータに乗り込むのを見送られ、拓磨はエレベータの扉が閉まると同時に小さく息を吐く。

「もっとぞんざいに扱われた方が楽だ…」

その点で言えば、胡散臭い上にうるさくはあったが、日向の方がまだマシであったか。
「おっ、拓磨くんは俺を御指名?嬉しいね」と、何故かそこまで想像できてしまい、浮かんだ不愉快な映像を頭の中から追い出す様に頭を左右に振る。

「ねぇな」

そして、最上階に到着したエレベータから降りて、拓磨は第二の住みかへと変わったマンションの一室へと入って行った。

玄関を上がり、迷わず自室へと向かった拓磨は大学への通学用に使用している黒のリュックに大学の教材を詰めていく。筆記用具にノート、レポート用紙に電子辞書と。机の引き出しを開けて、中身を確認していた拓磨の手が、それに触れて途中で止まる。ひやりと冷たい輝きを放つ、もうどこにも存在しないバイクの鍵。

「……」

拓磨はしばしその鍵を見つめていたが、やがて瞼を閉じると鍵に触れていた手を己の胸にあて、そっと静かに呟く。

「大丈夫だ。全部、俺の中にある」

だから、この鍵はここに置いていく。
先代鴉総長から教えられたこと、与えられたもの。全ては拓磨の中に受け繋がれている。
そう、例え本人が知らずとも、後藤 拓磨は先代鴉総長 後藤 志郎の正式な後継者であった。そしてその事実を知る者達は何時いかなることがあろうとも決して後藤 拓磨を裏切ることはない。
後藤 志郎から後藤 拓磨へと継がれた心はここに。

「――鴉はなにものにも囚われない」

強い意志を秘めた眼差しは時折揺れながらも真っ直ぐに前を見る。

「鴉として動く時はここを拠点にするとして…」

一方、草壁 拓磨としては気になることが一つだけあった。

猛はもうここには来ないのだろうか?

引き出しを閉めて、物を詰め込んだ通学用のリュックを片手に自室を出る。一旦リビングに立ち寄り、手にしていたリュックを置く。それから寝室に足を向けた。
朝と変わらぬ様子の寝室の中を見回し、クローゼットに手を掛ける。

「あ…」

そこには自分の服はもちろん、猛のスーツも入ったままになっていた。

「そう、だよな。名義が変わるだけで、組の持ち物に変わりはないだろうし」

呟きながら何故だか少し安堵している自分に気付いて、拓磨は一人首を傾げる。
これは何だか、意図せず猛から上着を貰ってしまった時の感覚によく似ている。安心した様な、落ち着くような、不思議な感覚で。嫌な感じではない。

拓磨はその猛から貰った上着に手を伸ばすと、クローゼットの中から取り出し、目の前に広げて見せる。

広い肩幅に、長い袖。自分が羽織ってもぶかぶかになりそうだ。

拓磨は上着を見つめたまましばし考え込む。

この上着を屋敷に持って帰るか。それともこのままマンションにおいて置くべきか。

「でも、屋敷には本人がいるしな」

ここにもいたけど。

拓磨はちらりとクローゼットの中に残された猛の服を見て、手元で広げていた上着を畳みだす。大事そうに畳んだ上着を腕に抱えると、誰にともなく言い訳を口にしてクローゼットを閉めた。

「これは治療の一環の為、仕方なくだ」

屋敷の自室には有難いことに個人用のベッドがあった。もしそこで一人で寝た時に、悪夢に魘されない為にも安眠作用があると分かっている物が必要だろう。いくら屋敷に本人がいるとはいえ、自室にも備えは必要だ。

「それにこれは俺が貰ったんだし。どうしようと俺の勝手だ」

万が一、ここへ泊ることになった場合はクローゼットから眠る時だけ、猛の服を借りるとしよう。本人には言わなきゃバレはしない。こんな羞恥心を覚えるようなこと。

リュックを左肩にかけて、猛の上着をギプスで固められている右腕で抱える。上着を入れるのにちょうどいい袋が見つからなかったのだ。リュックの中は大学関係の資料で一杯であったし、ぱっと見それが誰のものかなどひと目見て分かるものでもないだろうと、拓磨は堂々と猛の上着を右腕に抱えたままエレベータで地下駐車場へと降りた。

「あら?」

すると珍しい事に、拓磨が降りたエレベータを待っていたらしいマンションの住人に地下駐車場内で遭遇した。相手も人がいた事に驚いたらしく、大きな目を丸くしてぱちりと瞼を瞬かせている。歳の頃は二十代後半から三十代前半の女。薄く化粧の施された顔は美人というより愛らしく整っており、人付き合いの基本か、拓磨に向かって軽く会釈をしてきた。
しかし、拓磨はちらりと相手の顔を確認しただけで直ぐに視線を外す。相手の反応は気にも留めず、車の外でこちらを見て待っていたらしい佐々木の元へ足を進めた。

「どうかなさいましたか?」

「何が?」

わざわざ後部座席のドアを開け、拓磨が乗るのを待ってドアを閉めた佐々木が運転席に着いてから、拓磨へと声を掛けてくる。短く返答した拓磨に佐々木は余計な事かも知れないと思いつつも訊いた。

「いえ、車から降りた時と比べて、空気が堅いように思ったものですから。何かあったのかと…」

「あぁ……、別に」

いつもと何も変わらない。一人の時、周囲を警戒する。気を張るのは当たり前のことだろう。それが、最近は猛が側にいて、多少緩和されていたとしても、自分は何も変わっていない。
見も知らぬ他人を前にすれば尚の事。

重いリュックを座席に下ろし、上着は太腿の上に置く。

拓磨はそんなことよりもと、屋敷に戻る前に佐々木に寄り道をするよう指示をした。

「どこでも良いから本屋に寄ってくれ」

「分かりました」

マンションの地下駐車場から地上に出れば、まだまだ暑さを感じさせる太陽が眩しいぐらいに地上を照らす。
マンション近くのコンビニの前を通過し、車は街中へと入って行く。
流れて行く外の景色を眺めながら拓磨の手は太腿の上に置いた、猛の上着に触れていた。



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