17


翌日、猛と共に朝食をとり、組事務所まで同行した拓磨は現在、会長室で猛が呼び出した唐澤と日向を相手に何やら指示を出しているのを横目に大人しく応接用のソファに座って話が終わるのを待っていた。猛の仕事に関しては基本、関わる気も無い。
そう耳に入って来る会話を聞き流していれば、今日は自主的に携帯していた携帯電話がその存在を主張するようにポケットの中で震え始めた。

必要最低限の使用しかしていない端末の反応に、拓磨はちらりと猛たちの方へ視線を流して、話が続いていることを確認するとリハビリも兼ねて右手を動かし、ポケットから携帯電話を取り出した。
画面を確認すれば、メールを受信したことを知らせていた。

受信ボックスを開き、内容を確認する。当然のように、送信者の欄に名前はない。ただランダムに付けられた英数字が並ぶだけだ。しかし、それだけで、このメールの相手が誰であるか、一部の人間にはそれで十分判断できた。拓磨の携帯電話に登録されず、アドレスの中にわざと千の数字を紛れ込ませる者など拓磨の周囲には一人しかいない、数字の千が指すのは鴉の情報部隊を取り纏める立場にいる小田桐 千だけだ。
そして、開いたメールの本分には何の記載も無く、ただ一枚の写真が添付されていた。
隠し撮りしたのだろう写真にはブランド物であろうスーツに身を包んだ一人の男。体格はそれほど良いとは言えず、釣り目気味な双眸が粗野な印象を与える男だ。

「………」

拓磨はその写真に目を通すと、今しがた送られてきたばかりのメールごと写真を削除する。

こいつが熊井組の息子か。その情報だけを頭の中に記憶して携帯電話をポケットに戻す。

「…もういいのか?」

その時ふいに猛から声をかけられ、いつの間にか猛達の話が終わっていることに気付いた。
こちらへと投げられた視線に、聞かれた意味も分からず、拓磨は微かに首を傾げて聞き返す。

「何が?」

「携帯を見ていただろう」

「あぁ…。別にたいしたことじゃない」

「そうか。なら、出かけるぞ」

特に追及もしてこない猛に倣って拓磨もソファから腰を上げる。先に歩き出したのは唐澤で、拓磨は猛の後をついて行く。どうやら唐澤も一緒に屋敷とやらへ同行するらしい。
珍しく日向は付いて来ず、事務所の前まで出て来て、車に乗り込んだ拓磨達をその場で見送った。

一人事務所前に残った日向は踵を返すと、事務所内のエレベータまで戻り、幹部以上しか入れない上階のボタンを押してそっと息を吐く。

「あれがたいしたことない顔か…?拓磨くんはたまに会長と同じ目をするな」

何の連絡かは知らないが、携帯の画面を見ていた拓磨の眼差しは冷え切っていた。なのに、微かに動いた唇は酷薄な笑みを形作っているように見えた。猛はその様子に目を動かしただけで何も言わず、唐澤なんかは難しい顔をしていた。日向は唐澤よりかは、いくらか拓磨とは会話も重ねているし、鴉の頭としての拓磨の姿も少しは見ている。故にその本質が猛に近い所にあるのかも知れないと多少の分析はしていた。それは、この場にいない上総の警戒ぶりも納得がいくほどで。

「冗談でもなく、敵に回したら恐ろしい組み合わせが出来たな」

 





事務所を後にした車は運転手の佐々木と助手席に唐澤、後部座席に拓磨と猛を乗せて街の中心部から離れて行く。マンションのある方角とも違うようで車は郊外へと向かう。
窓の外を流れていく景色を何となく眺めていれば、隣から伸びて来た手が髪に触れて来る。
何だと、外に向いていた意識を引き戻されるように拓磨は隣に座る猛へと視線を投げた。

「今日は朝から大人しいな」

「…いつもと変わらないだろ」

今日はと、何か特別なことの様な言い回しに拓磨は少しだけ眉を寄せると素っ気無く答えて、猛から視線を切る。

「そうだな。…拓磨」

今度は何だと視線だけを向けた拓磨は、同時に髪に触れていた手がするりと後頭部に添えられ、猛の方へと強引に引き寄せられる。あっと言う間もなく近付いた距離に唇を塞がれ、言葉を奪われる。

「ん…っ!」

押し付けられた温かな温もりに目を見開けば、滑り込むように侵入してきた舌に無防備だった口内を荒らされる。絡め取られた舌が擦れ合い、水音が立つ。

「…ふ、っ…」

こくりと喉を動かし、口内に溜まった唾液を呑み込めば、顔が熱くなるのが分かる。これ以上はと呼吸が苦しくなってきた所で猛の胸を押せば、最後にぺろりと唇を舐められ、唇が離れて行った。

「はっ…っ、なに、すんだよ」

乱れた息を吐き、左手の甲で唇を拭って睨み付ければ、猛は飄々とした態度を崩さずに言う。

「お前の言葉を借りるなら、いつもと変わらねぇことだろう」

何か反論があるなら聞いてやるがと、弧を描いた唇が意地悪気に囁く。

「…時と場所を考えろ」

苦し紛れに拓磨の口から出た言葉に猛は更に笑みを深めると拓磨に聞き返す。

「へぇ、時と場所を選べばいいのか」

「っ、選ぶ気もないくせに聞き返すな」

「その口でお前が言ったんだろう?」

知らぬうちに入っていた肩から力が抜ける。拓磨は猛の肩に顔を伏せる様に凭れると、再び遊ぶように髪に触れてきた猛の指先に意識をとられる。とくりとくりと早鐘を打つ心臓を持て余し、熱い呼気を吐き出す。目の前の男の事だけに意識を奪われたまま会話を続ける。

「言ったところで聞きそうにないのがアンタだ」

「分かってるじゃねぇか」

ぽんぽんと今度は子供にする様に頭を叩かれ、拓磨はその扱いに不機嫌そうな声を漏らした。

「嬉しくも無い」

「嫌じゃねぇだろ」

「………」

文句は口にするが、抵抗もしない。嫌がる素振り一つ見せないその態度に猛は口端を緩め、拓磨はひたすら沈黙を貫いた。

背後での戯れには一切関知せず、車を運転していた佐々木は住宅街に進路をきると、やがて目視出来る距離まで近付いた高い白壁に助手席から唐澤が口を開く。

「もうそろそろ到着です。車は表に停めますか?」

前から掛けられた声に猛は腕の中から拓磨を開放すると一つ頷く。

「最初はその方が良いだろう」

いつの間にか変わっていた窓の外の景色に拓磨は目を向ける。

道路に沿って高々とした白壁が続き、その壁の上には茅葺の小さな屋根がついている。中はどれほど広いのかと、何の木かは分からないが緑の葉を付けた木々が壁の向こう側に見える。佐々木が運転する車は徐々にスピードを落とし、白壁が途切れ、年月を感じさせる色合いの深い木造造りの屋根のある門の前で静かに停車した。とはいえ、門は白壁より奥まった場所にあり、道路からは数メートルの距離がある。門まで続く道の左右には砂利が敷かれ、植木と共に灯り取り用の灯篭がぽつぽつと等間隔に立っている。中央の道のみコンクリートで舗装されていた。

車が停まると唐澤が先に降り、周囲に目を配りながら後部のドアを開ける。

「どうぞ、降りて下さい」

促されて車から降りれば、その後に続いて猛も降車し、唐澤を先頭に門へと歩き出す。
そして、ぴったりと閉じられていた門がタイミングを計ったかの様に内側から開かれた。

「おけぇりなさいませ」

門戸を開けた男は猛より更に年上、年輩といっていいほどの年齢の男だったが、男はそんなこと関係なく猛に向かって頭を下げた。それが自然であるかの様な態度で三人を出迎えた。

「荒木(あらき)。こいつが拓磨だ。覚えておけ」

「はっ」

年齢の割にきびきびとした動きで再び門戸を閉じ始めた男を指して、今度は拓磨に向かって猛は短く説明する。

「拓磨。あの男、荒木がこの屋敷の警備全般を担っている」

「ただの門番じゃないぐらい見れば分かる」

身に纏う雰囲気や隙の無いの身の熟し、組事務所で見かける若い衆とは存在感も段違いだ。これが経験の差と言うやつか。

唐澤を先に行かせ、猛は拓磨を伴ってゆっくりと屋敷の玄関へと向かう。
門をくぐって右手側に物置があり、左手側に警備室を兼ねた小さめの離れがある。その奥には道路から見えた木々の頭が見えるが。あれは…。

「左手の奥には和風の庭園がある。気になるなら後で連れて行ってやる」

「別に…」

というより、猛直々に屋敷の中の案内もしてくれるのかと拓磨はちらりと隣を歩く猛の横顔を窺った。

「正面に見える、今から入る屋敷が母屋だ」

「ふぅん」

言われて拓磨は正面に見える日本家屋へと意識を移した。

玄関入口から見て右手にある平屋とは建物自体が繋がっているのか、正面玄関へと歩みを進める拓磨はそちらの方から微かに感じた視線に眉を寄せた。

「気になるか?」

「俺は見世物になりに来たわけじゃない」

不快さを隠さず伝えれば猛の視線が平屋の建物の方へ向き、一瞬後には誰の視線も感じなくなる。

「何した?」

「お前を一目見て満足したんだろ。連中がお前に声をかけてくる事は無いから安心しろ」

玄関は横へとスライドする様な引き戸になっており、そこで唐澤と白髪の混じった髪を丁寧に整えた初老の男性が拓磨達を待っていた。

「お帰りなさいませ。ようこそいらっしゃいました」

初老の男は猛に向かって軽く頭を下げると、拓磨に向かっては歓迎の言葉を紡ぐ。

「……」

この場合はどうすればいいのか。厄介者扱いされる事は多々あり、慣れていたが。どう考えても初対面、その上、歓迎の言葉をかけられることなど想定していなかった拓磨はとりあえず猛に視線で問う。この男は誰かと。

自分以外に頼る者のない、拓磨は唐澤についてはまだ距離を取っている様子で、向けられた視線の意味を違わず汲んだ猛は微かに口端を緩めながら応えてやる。

「俺が留守にしている間、屋敷の中の事を任せている男だ」

「近藤と申します。以後お見知りおき下さい」

また、何かあれば仰って下さいと頭を下げた近藤を拓磨はジッと観察する。

猛が不在の間を任されているということは、それほど信頼できる者なのか。

拓磨の不躾ともいえる視線を受けても近藤は表情一つ変える事無く、にこやかな表情を保っていた。

「部屋は?」

「ご指示通りに。用意出来ております」

「先にそっちを見せておくか」

「お昼はどうなさいますか?」

「二人分、用意しておけ」

「かしこまりました」

猛の指示に従う近藤を観察していれば、話を切り上げた猛に呼ばれる。

「拓磨。ついて来い」

玄関を上がるのかと思えば、そのまま真っ直ぐ玄関を突っ切り、別の出入口から外へ出る。
その際ちらりと見えた玄関の奥、玄関を上がって左手に廊下が伸びていた。開け放たれていた障子の間からは広そうな畳の部屋が見えた。玄関を抜け、外へと出た猛は母屋から伸びている渡り廊下と並行するように歩みを進める。この渡り廊下は今出てきた母屋と少し離れた場所に立つ離れを繋いでいるようだった。

「いいのか?唐澤のやつ置いて来て」

後ろを振り返った拓磨はそこで唐澤がついて来ていない事に気付いてふと零す。だが、猛は気にした様子もなく言う。

「緊急時以外、俺が許可しない限り、この先に誰かが入って来る事はない」

そう言って母屋から渡り廊下で繋がる離れの建物の前で猛は足を止めた。

「一応母屋とはそこの廊下で繋がっちゃいるが、使う人間は限られる」

特にこれからは、許可なく立ち入らせることは無い。

からからと引戸の玄関を開けた猛に続いて拓磨も中へと入り、玄関で靴を脱ぐ。

離れは二階建ての造りで、洋室が3部屋、和室が2部屋。キッチン完備のリビングダイニング、トイレ、風呂、洗面所と。離れというにはもはやこれで立派に一軒家だろと思う家の中を拓磨はざっと案内される。

「この部屋を使え」

玄関を上がって右手にあった洋室をスルーして、先に二階へと連れて行かれた拓磨は階段を上がって左手側にあった洋室の扉を開いて言った猛の言葉に部屋の中を覗き込む。
ベッドに机、空の棚とクローゼットに大きめの窓にはカーテンが引かれている。
必要最低限の物は揃った部屋に拓磨はふと違和感を覚えて首を傾げる。しかし、その事を口に出すことなく頷くだけに留めた。

「分かった」

その様子に気付かぬ猛ではない。猛は拓磨用に用意した部屋の扉を閉めると、もう一方の洋室を指し、寝室は向こうだと告げた。

「…何で。こっちで寝ればいいだろ」

その為のベッドじゃないのかと、敢えて口に出さなかった違和感の正体に言及する。

「それはお前の為だ。試験前は考慮してやる」

だが、それ以外の時は自室ではなく、寝室で寝ろという事か。猛にしては優しい気遣いに拓磨はそれ以上の反論を止めた。なにより、実際問題、今の拓磨には猛と言う安定剤、その存在が必要だった。その自覚は拓磨にもあるし、羞恥はあるが、嫌ではないのだ。
その葛藤を知ってか知らずか、いや、多分猛は分かっていて、話を進める。

「お前には他にも渡しておく物がある」

離れの二階の一室を自室として貰った拓磨は一階へと戻る猛の背中を追い、階段を下りた。

一階、玄関を左手に見ながら、右奥へと伸びる廊下を進む。トイレや洗面所、風呂場といった水回り。廊下の左側には6畳2間続きとなっている和室があり、和室の窓の外には手入れの行き届いた中庭に、縁側もあった。更に中庭の奥、低い庭木の向こう側には竹垣が建ち、先程通って来た母屋との間を遮っている。竹垣は目隠しも兼ねているのか、これならば母屋からの視線を気にする事もない。

玄関から右奥となる位置にあるリビングに足を踏み入れる。

大人しく視線を飛ばすだけの拓磨に、猛は対面式となっているカウンターキッチンの前で足を止めると口を開いた。

「飯についてはお前の好きにしていい」

このキッチンを使って自炊をしても良いし、母屋の方にはこの屋敷専用の料理人がいる。

何処かで聞いた事のあるニュアンスに拓磨は微かに眉を寄せる。

「作るのが面倒な時は、さっき会った近藤に言えば大体伝わる。そう警戒せずとも、お前だってもう何回かはうちの飯を食ってる」

そこまで言われてピンとくるものがあった。

「マンションまで持って来させてたあれか…」

自分には関係がないと興味も持たなかったが、猛が確か、うちで厨房を任せてる人間に朝食を作らせて持ってこさせたと、言っていたはずだ。

「運ばせた人間はまた別だが、作った奴は同じ奴だ」

「…少し考えさせてくれ。リハビリがてら右手も動かしたい」

「その辺はお前の好きにして良い」

食材も適当に用意してあるが、足りないものや必要な物があったら言え。近藤に手配させる。

「その…近藤、さんってどういう人なんだ?」

猛があまりにも信用している様子の人間に拓磨は探りを入れる事もせず、ストレートに聞く。すると猛は口元に手をあて、じっと拓磨の顔を見ながら答えた。

「うちの前に海原があったってのは聞いてるな?」

「あぁ、日向から」

「近藤は元々、海原の人間だ。海原が解散した時に俺が拾った」

奴は海原の組長に近しい人間で、腕っぷしは微妙だったが、他の実務能力については秀でたものがあった。また、この屋敷のことに関しても、当時とは少し手を加えてあり違う部分もあるが、詳しい上に、分別を弁えている。猛が不在時の屋敷を任せる人間として、近藤は適任であった。

「もしかして、警備の荒木さんも」

「あれは現役を続けたいってんで、屋敷の警護用に拾った」

犬や猫を拾うのとはわけが違う。なのに、さらりとそう言い切った猛に拓磨はもう一つ確認するように聞いた。

「この屋敷に元海原の人間って何人居るんだ?」

それが猛の言っていた人生経験の違う人間か。

拓磨の質問に猛は気が付いたかと、褒める様な眼差しを向ける。

「屋敷には四人だ。外にもう一人いる」

必要があればその時に紹介してやると、後は拓磨に判断を委ねられる。猛は極力周りに人を置きたがらない、警戒心の強い拓磨のことを考えて、今日の所は本当に拓磨がこの屋敷で生活して行く上で関わりになりそうな必要最低限の面子にしか会わせる気はなかった。
拓磨が自ら興味を持てば話は別だが。ここまで来て無理強いするつもりはないし、こちらへと意識を傾けだした拓磨の様子を見れば、その必要も感じられなかった。

「拓磨」

屋敷の関係者について考えを巡らせていれば名前を呼ばれる。リビングのテーブルの上にカチャリと金属音らしい音を立てて何かが置かれる。

「…鍵?」

テーブルの上にはシンプルな細い銀のリングに通された、形状の違う二つの鍵が置かれていた。これはと視線を投げれば、一つはこの離れの鍵だと返される。

「持っていろ」

「それは分かったけど、こっちは?」

テーブルに置かれた鍵を手に取り、何の説明も無いもう片方の鍵に触れる。そこには有名な自動車メーカーの刻印が刻まれていた。これはと、拓磨がその鍵の用途に気付くと同時に猛が歩き出す。

「お前に必要なものだ」

リビングを出て、離れの玄関に向かった猛の後を追い、拓磨も離れから外へと出る。
母屋とは逆側に向かった猛の背を追えば、離れから少し歩いた先に大きなガレージが見えた。道路沿いに建つガレージは外からの視界も遮っており、そこには見覚えのある車も止まっていた。先程まで車を運転していた佐々木の姿もあった。

猛に気付いた佐々木が頭を下げ、猛が短く指示を出す。

「あれを持って来い」

「はいっ」

ガレージの奥へと引っ込んだ佐々木に、その場所で足を止めた猛を交互に見て、拓磨は口を開く。

「待てよ。俺はこれ以上、何かを貰うわけには…」

いかないと、続くはずだった言葉を遮られる。

「引っ越し祝いだ。素直に受け取れ」

そう言われて、視線を投げた先。ガレージの奥から佐々木が出してきたのは、真新しい漆黒の車体が美しいバイクだった。

「大学へはこれで通え」

「……いいのか?」

俺をそんなに自由にして。正直、バイクを失った拓磨の交通手段は限られていた。鴉の総長として、別のバイクを用意することも出来るには出来たが、それとこれとは別物だと考えていた。草壁の名と後藤の名の持つ意味が違うように。拓磨本人にしか分からないだろう、些細な違いだが。
猛は拓磨が抱いた心配事こそ些細な事だと言う様に鷹揚に頷き返す。

「お前につけた周防には免許を取りに行かせた」

言われてみれば、最近周防の姿を見かけていない。

「このバイクをどう使おうとお前の自由だ」

それは鴉の事も黙認してくれるということか。

「お前の場合、車で護衛を付けるより、バイクの方が何かあった時に対処はしやすいだろう」

それは事実だ。バイクの方が機動力はあるし、小回りも利く。いざという時には鴉も動かしやすい。

ここぞと利点ばかりをあげられ、拓磨は目の前のバイクを眺めて悩む。

「でも、このバイク絶対高いだろ」

バイク関係に詳しい大和と違い、その性能についてまでは分からないが、目の前の用意されたバイクが高いものだということは拓磨にも分かる。

「今後、お前の足になるものだ」

それを考えれば安いものだとでも言うつもりか。始めから拓磨の言葉にとり合う様子を見せない猛に、拓磨は手の中にある鍵へと目線を落として黙り込む。

「お前が乗らねぇって言うなら、廃車にするだけだ」

「なっ!」

こんな良いバイクを、それも新車だろう?

躊躇う拓磨の耳に飛び込んで来た台詞に、拓磨は目線を上げて猛を見る。

「お前用に用意したものだ。お前が受け取れねぇって言うなら当然だろう」

他の誰かにやるつもりもない。冗談でもなく本気でそう言う猛に拓磨はぎゅっと鍵を握る。さすがに佐々木も猛の判断に驚いたのか、動揺を隠せない様子だった。
さて、どうする?と促されて、そこで要らないと切り捨てられるほど、拓磨は猛の心配りを蔑ろには出来なかった。もちろん金銭的な面で躊躇いはあるが。

「…有難く使わせてもらう」

結局、頷くしか残されていなかった選択肢に拓磨が了承の意を示した事で、目の前の漆黒のバイクはこの時から拓磨のものとなった。

「怪我が治るまではガレージの奥にしまっておけ」

佐々木にガレージの中へと戻すように指示を出した猛に、佐々木が丁寧な手付きでバイクをガレージの中へと押して運んで行く。

「不満そうだな?」

「そりゃ、…タダより高い物はないだろ」

猛との間で価値観の話を蒸し返すつもりはないが、気になるものは仕方がない。
例えそれが無償の情から来ているのだとしても、拓磨はまだ素直に喜んで、笑顔でお礼など言えない。

「だったら、どうする?」

どうしろと言った?…釣り合わない天秤。けれど、釣り合わせる必要も無い。猛はそういう相手ではない。この男は俺の…。

余計な所まで回りそうになった思考を留め、拓磨は自分の返事を待つ猛の顔を正面から見つめ返すと、ぐっと唇を引き結ぶ。持ち上げた左手で猛の着ているスーツの胸元を掴むと、乱暴に自分の方へと引っ張った。僅かに踵を持ち上げ、猛の唇に自分の唇を押し付ける。

「ん…っ」

拓磨が今出来る最大の礼。損得抜きに拓磨の心が出した答えだ。
やり方はどうあれ、猛の愛情はちゃんと拓磨に伝わっているから、素直に言葉で返せない分はこの行動で分かって欲しい。
昨夜はそんなものと切り捨てたはずの行為が、今は無性に恥ずかしい。

閉ざされることのない漆黒の双眸に見つめられて、押し付けただけの唇が熱を持つ。

すぐに触れて離れるつもりが、頭と腰を支える様に回された腕に阻まれる。かといって、自らは仕掛けて来ない猛に拓磨はその意図に気付いて口付けたまま目線を反らすと僅かに瞼を伏せた。同時に引き結んでいた唇を緩ませ、無言の求めに応じてそろりと舌先を覗かせた。

「ンっ…、ん…」

「拓磨………惜しいが、時間切れだ」

「――っ」

ふっとかかった吐息に、一瞬、唇を甘く噛まれる。緩められた拘束の中で身じろげば、低く囁くような声が直に耳の中へと流し込まれる。

「その顔、誰にも見せるなよ」

猛から視線を逸らしたまま顔を伏せた拓磨は猛から言われずとも、黙って頷く。誰が好き好んで見せるものか。顔が熱を持ったように熱くて、猛の存在を嫌でも強く意識してしまう。自分はいったい何をしているのか。

「……そろそろ手を離せ。俺はこのままでも構わねぇが」

「…っ!」

言われて拓磨ははっと我に返り、慌てて猛のスーツから手を離す。猛が拓磨を拘束している様に見えて、先に猛を捕まえたのは拓磨の方であった。自分のとった大胆な行動に冷静な意識が追い付き狼狽えだした拓磨の様子を猛は穏やかな眼差しで見つめ、その唇に弧を描く。

「次は二人きりの時に頼むぜ」

「誰がっ…」

反射的に言い返した拓磨だったが、そこで上機嫌な様子の猛の顔を見てしまい、言葉尻を詰まらせる。僅かにでもこんな顔が見れるならと、思ってしまった自分の心がそれ以上の言葉を奪っていった。

「このまま向こう側に回って、さっきの庭園を見せてやる」

ガレージの奥から戻って来た佐々木をその場に残して、拓磨は猛に連れられるがままガレージの前を通り過ぎる。その際、ガレージと同じ並びに見えた鉄製の門扉を示され、あの門が裏門だと説明される。

「基本的に出入りはあの門からにしろ」

「…分かった」

「今日入って来た正面の門は来客がある時か組の行事がある時にしか使わねぇ」

猛も普段は使用していないと言い、今日はわざわざ自分の為に正門を開けたのだと、言われずとも拓磨は気付く。

「俺も普段はガレージが近い裏門から出入りしているからな」

同時に妙な誤解はするなと釘も刺された。

「分かった」

離れの裏手を通り、建物の角を左に曲がってそのまま直進すれば、正門から左手側に見えた和風庭園が見えて来る。ちなみに離れの前庭が中庭になっており、和風庭園へと向かう際には母屋の建物の横側を通り過ぎる必要があった。

「まるでどこかの旅館にありそうな庭園だな」

足を踏み入れた庭園には松の木が植えられ、他にも柘植やツツジ、名前は分からないが目にしたことのある庭木が目に映る。手水鉢に鹿威しもあり、苔むした石の側には灯篭に、小径が庭の奥へと伸びている。涼やかな音に気付いて、そちらに目を向ければ、細い水路があり、その先には池がある。池の中には錦鯉が二匹、ゆうゆうと水面を泳いでいた。綺麗に手入れのされた庭園へは母屋の縁側からも降りられるのか、飛び石が敷設されていた。正門の方向には竹垣が建っており、通路と庭園を竹垣で区切っているようだった。

拓磨にとっては珍しく映る風流な光景に、しばし言葉を忘れて、その光景を眺める。
カコンと鹿威しが奏でる静かな音が、不思議とざわめいていた拓磨の心を落ち着かせていく。

「ここが気に入ったなら、いつでも好きに来ると良い」

ふと微かに和らいだ拓磨の表情を横目に、猛はちらりと腕につけていた時計に視線を走らせる。

「…昼にするか」

「もうそんな時間か?」

猛の呟きを拾った拓磨は時間の流れの速さに驚く。あちこちと案内されている間に時間は経っていたらしい。

庭園の見える母屋の縁側前を横切り、正門と通路を区切る様に建てられた竹垣の横を抜ける。すると最初に入って来た正門のある道に出た。母屋の玄関が左手側にあり、右手側に荒木のいる正門へと続く道が視界に映る。

「なるほど」

なんとなく掴めた屋敷の配置に拓磨は今後、自分が必要と思われる箇所だけを頭の中にインプットする。拓磨の生活拠点は屋敷の離れであり、通学用のバイクは離れの側にあるガレージの中。屋敷への出入りは裏門からとなり、正門へ回る必要はない。
母屋に関しても、自分には関係ない建物だと、そう流そうとした拓磨だったが、再び母屋の玄関に足を踏み入れた猛が、今度はそこで靴を脱いで上がり框に足をかけたことで拓磨もその後を追うことになった。

離れよりも広い、畳の続き間の部屋に、縁側からは先程見て来た和風庭園が一望できる和室。洋室も何部屋か揃っているらしく、それらしい部屋の扉は閉まっていた。母屋の奥へと伸びる廊下を進んでいた猛の足がようやく止まったかと思えば、猛は閉じられていたその襖に手を掛けた。その和室は他の畳の部屋と違って、床の間があり、床の間には掛け軸、季節の花がちょこんと活けられている。他にも飾り棚や、刀掛けに一振りの刀。設置されている調度品、テーブルや座布団も全てが最高級のもの。その部屋はこの屋敷の中で唯一「奥の間」と言う名前で呼ばれている、屋敷の主人が使用する一室であった。



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