16


リビングで腰を落ち着ける前にキッチンで飲み物を用意して、俺は猛が待つソファとは別の一人掛けのソファへと腰を下ろした。

「それで、話って」

ちらりと向けられた視線を撥ね退ける様に見返して、俺から口を開く。
今後の事については俺も考えていたことだ。これからどうすべきか。

「先に一つ教えておくが、このマンションは組の持ち家の一つだ」

いきなりの情報開示に驚きはない。そうだろうなと、薄々は分かっていた予想が確定事項になっただけだ。いきなり連れて来た見ず知らずの人間を警戒心も無く、自宅に連れ込むなど危険な真似はしないだろう。
しかし、その話がどこに繋がっていくのか。
黙って話の先を待つ俺に猛は平然と告げた。

「明日にはお前の名義になる」

「は?」

「実際お前が住むのは別だが、隠れ蓑は一つあった方がいいだろう。住民票を移すかどうかは自分で判断しろ」

「ちょっと待ってくれ!何でいきなり俺の名義にするなんて話になるんだ。組の持ち物なんだろう?」

口を挟まなければ、さらりとそのまま流されそうな重大事項に俺は慌てて口を挟む。
それに猛は動じた様子も無く、僅かに眉を寄せて、低い声で漏らした。

「体裁の問題だ。お前が構わなくても、勝手に周囲を嗅ぎまわるうるせぇ犬共がいつ難癖付けてお前に突っかかってこないともかぎらねぇ」

「犬?」

「アレは俺や組に出入りした人間を定期的にチェックしてるからな」

「それって…」

猛の言う犬が何を指しているのか僅かに遅れて理解して、自然と俺も眉を顰めた。
その組織には俺も嫌というほど忌避感を抱いていた。俺と関わった部署は違うのだろうが、当然ヤクザと呼ばれる猛達からしてみれば警察組織は敵であり、対立関係にあると考えていいのだろう。

「妙な連中を見かけても無視しておけ」

「あぁ」

対外的に俺はこのマンションに住んでいるという事にしておくのは、俺にとっても悪い話ではない。それに鴉の総長として動く事があれば、このマンションはやはり隠れ蓑として有効に使える。先日の一件もあり、猛の側で堂々と鴉として動くにはリスクが高いとは思っていたが。他にもメリットになりそうな点を上げれば、この際マンションの名義変更の件は割り切って納得するべきだ。

「住むのが別だってことは、俺は何処に引っ越せばいいんだ」

「物分かりが良いな」

「俺をマンションから出す気はねぇって言っときながらこんな話をするって事はもう決まってる事なんだろ。だったら無駄な事はしない」

「そうだな…明日、お前も事務所に来い。家にいても暇してるだけだろう」

「…大学に行く用ならある」

休学する理由が無くなった今、大学に届け出ている休学届を撤回しに行く必要があり、怪我の方も安静にする時期を脱したならば普通に動いている方が回復も早いだろう。猛は怪我が治ったら復学してこいと言ったが、その間、何もしていないと無駄に考え込み悩んでしまいそうで。余計に心が疲弊しそうだった。

「それなら尚更、明日は俺と一緒に来い。屋敷の説明と案内をさせる」

何が尚更なのか意味も分からず、ただ一方的に決められた予定に俺は念の為聞き返す。

「屋敷って、次の引っ越し先の事か」

すると猛はさも当然と言った顔で頷き、屋敷が何を指すのかさらりと告げた。

「そうだ。うちの本拠地だ」

「……そんな重要な場所に俺を連れて行ってもいいのか?」

何を考えているんだと非難にも近い眼差しを向ければ猛は薄く笑って強い眼差しで返してきた。

「いいか、悪いか。そうじゃない。俺がそうと決めた」

それ以上に何があると反論する言葉を封じられ、俺は大人しく話の続きを聞く。

「お前が心配することは何もない。お前はただいつも通りに過ごしていればいい」

俺の側で、世間一般でいうただの大学生として。
先に言ったマンションについては対警察や大学など、大衆に向けた世間体の為に過ぎない。

「それは少し…不平等じゃないのか」

俺はじっと猛を見つめ返して言う。

だって、それはあまりにも話が良すぎる。俺に都合の良い内容ばかりで、猛にとっては負担になるばかりか、リスクはあってもとてもメリットがあるようには見えない。俺は猛に与えられてばかりでまだ何も返せていない。何をどう返せばいいのかも分からないままだ。なのに、何故、どうして、この男は…。

「いっそ見返りを要求された方が楽だ」

そう口に出せば猛は一瞬口元を歪めてくつくつと笑った。

「何を言い出すのかと思えば…餓鬼が、余計な事を考える」

笑うのを止めた猛の双眸がすっと鋭く細められ、俺を射抜く。

「拓磨。来い」

猛の右隣りを指示されて、俺は抵抗は無駄だと諦めて大人しく猛の座るソファに移動した。ソファに腰を下ろせばすぐ横から伸びて来た右手が俺の肩に回される。先程よりも近くなった、互いに体温の感じられる距離で猛からジッと瞳の奥、心の中を覗き込まれるように見つめられ、ふと凪いだ眼差しが俺に教える様に囁く。

「いくら俺でも自分のオンナに見返りは要求しない」

「おんな…?」

「恋人の方が良いか?」

「こい、びと…」

不意に飛び込んで来た聞きなれぬ呼称に目を見開く。ぎこちなく呟き返して、ついにはじっと猛の精悍な顔を見つめ返してしまった。
その動揺に気付きながら、猛は口端を吊り上げると俺に解決策を示す様に言った。

「気になるなら、その代わりに礼をしてくれてもいいんだぜ」

肩に回されていた手とは逆の手が俺の頤を掴み、親指の腹が悪戯に唇に触れて来る。

「っ、なに…」

咄嗟に身を引こうとしたが肩に回された手が俺の行動を阻む。

「たとえば、お前からのキスでもいいぜ」

言いながら猛の指先が唇の上をなぞる様に動く。

「っ、」

カッと瞬間的に熱くなった頬に、心臓が煩いぐらいに鼓動を速める。逃げられない状況で、赤く染まった顔を隠す事も出来ず、俺はそれでも務めて冷静さを失わぬよう自制して何とか口を開いた。

「そんなもの、釣り合いが取れないだろ」

「拓磨。これは取引きじゃない」

そう突き付けられても、他に何を言えばいいのか。俺は猛を見つめ返したまま口を閉じる。
すると猛はどこか言い含める様に嫌に真剣な眼差しを俺に向けてきた。

「お前が俺に対して思った事を口にするのは構わねぇが、損得勘定で何かを差し出すような真似は止めろ」

「どうして」

「不愉快だ。そんなもの差し出された所で嬉しくもねぇ」

「だったら…アンタは俺にどうしろって言うんだ」

ただ戸惑ったように瞳を揺らす。自身の中に根付いている不信の心が素直に頷くことを拒否する。無意識に警戒してしまうのだ。猛の言いたい事も分からなくはないのに。猛の事を信じると決めておきながら、何故、今、自分は素直にその提案を呑めないのか。
猛が俺に求めた見返りなど無いに等しいと分かっているのに。
何処かズレてしまっている自分の価値観にふと苛立ちが湧く。
そんな俺の様子を見かねてか、猛が先に口を開いた。

「気に入らねぇなら餓鬼らしく我儘の一つでも言って俺を困らせてみたらどうだ?」

「気に入らないわけじゃない」

己の事なのにままならない感情に視線をさ迷わせる。

「お前は少し自分の事だけを考えてみろ。周りの事なんざ考えなくていい」

「……?」

「必要なのはお前の意志だ。お前がどうしたいか言ってみろ」

我儘だって、自分がこうしたい、あぁしたい、こうして欲しいと願う事で起こる行為だ。周囲の思惑など汲み取る必要は無い。

「俺は…」

アンタの側に居られれば十分。そう告げようとして声になる前に喉の奥で言葉が止まる。…本当にそうか?と心の中に浮かんだ疑問が、芽生えた情が、それは違う、それだけじゃないと、すぐ隣から注がれる視線に、身近に感じる体温に、じりじりと心が煽られ焼け付くように主張してきた。

「…ー俺は、アンタといたい」

でも、それは、何の代償も支払わずに、与えられるものを享受しているだけで本当に良いのだろうか。その後でまた何かしらの揺り返しがくるんじゃないのか。
目の前の男へと流れる情が込み上げてくるのと同時に、心の裏側にこびりつくように刻まれた体験が僅かな躊躇いを生む。

「その為の覚悟も決めた。………決めたはずなんだ。なのに」

猛へと向けられた強い光を宿す双眸が陰りを帯び、揺らぐ。

「ーーもういい」

続きの言葉を発しようとして、不意に強く被せられた声に遮られる。

「え…?」

「それもお前の本心だろう。無理に押し殺そうとするな」

後が怖いと猛は瞳を細めて咎める様に言う。そして、突然肩を引き寄せられ、猛の胸に顔を押し付ける様な形で抱き締められた。

「ちょっ、なに…」

「自分の心まで誤魔化そうとするな。不安や恐怖まで割り切る必要は無い」

「っ、なんで……」

「なにも焦る必要は無い。少しずつ馴れろ」

「なんで、アンタはそうやって俺の事が分かるんだ」

俺自身でも掴めきれていない、俺の感情を。言葉にも言い表せないこの想いを。何で猛は救い上げられるのか。
目の前にある猛のシャツを指先で掴んで、俺は瞼を伏せる。

「お前だけを愛してやると言ったろう?それぐらい分からなくてどうする」

「そっ、ン…なの答えになってない」

とくりと震えた鼓動を誤魔化すように声を上げる。

「だって、そんなの、ズルいじゃねぇか。俺はまだアンタの事、…よく知らねぇのに。アンタだけ、何だよ、それっ」

卑怯だと、つい反論する様にぽろりと零してしまった本音に猛が微かに目を見張り、緩く弧を描いた唇から低い笑い声を漏らした。

「俺の事が知りたいか?」

「当たり前だろ。何で俺だけ。一方的なのが気に入らない」

「だったら、今回は素直に頷いておけ。俺は餓鬼の頃からあの屋敷で生活している」

「屋敷って、引っ越し先のか」

いきなり付随して来た話に興味を引かれて顔を上げれば、猛はそうだと軽く顎を引いて頷く。

「お前にはまだ目的があった方が安心か」

 無償で与えられる何かを素直に受け取れないのは、信用以前に不安があるからだろう。
また、無意識に、これまでそうしてきた様に、心を守る為の防衛本能が与えられるものに拒否反応を見せているのだ。始めから何も手に入れなければ、失うことも、失った時に傷付くこともない。
こればかりは拓磨本人が徐々に受け入れられる様になるしかない。

「拓磨」

そっと後頭部に触れた手が優しく髪を鋤く。

「な…に?」

いつになく優しい仕草に、誤魔化したはずの鼓動がとくとくと再び主張し出す。
そのせいか聞き返した己の声が僅かに掠れた。

「ある意味ではお前の価値観も正しい。それは否定しない」

「……あぁ」

「だが、俺の手を取った以上、自分の身を大事にすることも覚えろ」

「それはどういう…」

「その自分の身を秤にかける癖を直せ」

「は?俺は、別に、そんなこと」

言われた意味がよく分からなくて一度瞼を瞬かせる。その間にも猛の言葉は続いた。

「してねぇと言うつもりか?今しがた不平等だなんだと天秤を釣り合わそうとしてた奴が」

「っ……」

俺が口に出来る言葉は無かった。

「例えお前自身でも自分の事を粗末に扱うな」

お前の全てはもう俺のものでもあると否定の言葉を許さぬ強い眼差しが言う。
しかし、それと同時に髪に触れて来る指先が、それが優しさ故の言葉でもあると伝えてきた。

それはそうだ。猛の前では散々情けない姿を晒し、無傷であったことがない。加えて、理由はどうあれ自分の身を蔑ろにしてきたという自覚も多少はあった。何より、自分の身を大事にしようと思ったことがなかったのだから、仕方がないではないか。

「……直ぐには無理だ、と思う。が、気を付ける」

「今はその言葉を信用してやるが、もし破ったら周防以外にも護衛を増やすからな」

「それは嫌だ」

アイツだけでも我慢しているというのに。これ以上側に人を置きたくない。
間髪入れず返された返事に猛は薄く笑うだけで、無情な言葉を発す。

「嫌なら分かるな、拓磨」

「…アンタは俺を頷かせるのが上手いな」

疲れたと猛の胸に頭を預ける様に凭れ、話を切る。ふっと吐息を零す様に口元を緩めた猛が大分逸れてしまった話を本題に戻した。

「屋敷の事だが、屋敷には住み込みで働いている者が何人かいる。お前が直接関わる機会は少ないだろうが」

「俺の事は放っておいてくれればいい」

「お前がそれで良くても、うちの連中はそうはいかねぇ。俺のオンナを迎え入れるんだ」

「俺のこと、言ってあるのか」

「極力騒ぐなと言っておいたが、うっとおしかったら無視して構わねぇ」

「それはそれで大丈夫なのか?」

猛の身内に対する態度に少しだけ疑問が浮かぶ。

「なに、屋敷にいる連中は事務所にいる若い衆とは人生経験が違う。お前にすげなくされようが、それこそ餓鬼の反抗期とでも生暖かく見られるだけだ」

ますます屋敷への、屋敷で働いている人間達への疑問がわいてくる。猛にそんな風に言わせるなんて。いつになく軽い口調で言う猛の様子にも興味を惹かれた。
決して不安や恐怖が無くなったわけではないが、それでも良いと焦る必要は無いと態度や言葉で教えてくれた猛に俺も応えたい気持ちがあるのは嘘じゃない。なにより俺自身が猛といたいのだ。

「…明日は何時に出るんだ?」

「九時には出る」

「分かった」

そう頷いた後、ふつりと会話が途切れる。
不思議なことに訪れた沈黙は穏やかで温かな空気を含んでいて、俺は猛の胸に凭れかかったまま、緩く抱き締めてくる腕の中から抜け出す気もわかずに瞼を伏せた。
猛も猛で何を言うでもなく、ただゆっくりと俺の頭を撫でてくる。

それはとても奇妙で、そわそわと心は騒ぐのに居心地は良くて。様々な矛盾を抱えたまま俺は指先で掴んでいた猛のシャツをそっと握り直した。



[ 85 ]

[*prev] [next#]
[top]



- ナノ -