15


「海原組か…」

陽も暮れ、カーテンの閉められた部屋。
夕飯を食べ、風呂に入ってしまえば後はやることもない。
俺はリビングのソファに身を沈め、日向から説明された事をもう一度ゆっくりと頭の中で整理する様に呟いた。

『実はうちの組、立ち上げて五、六年の新興組織だって言われてるけど歴史はある方なんだよ』

『言ってることが矛盾してるな』

『分かって言ってるから。そもそもうちの組は一から会長が立ち上げた組ってわけじゃないんだ』

組の成り立ちになどたいして興味も無かったが、日向は本題からずれた話も世間話のついでの様に勝手にぺらぺらと喋った。

『今は会長が取り仕切って氷堂組っていう形になってるけど、氷堂組には前身となった組があるんだ。それが海原組って言って今はもう解散した組なんだけど』

『…猛はその組に在籍してたってことか?』

『うーん、俺もその当時の事は詳しくは知らないんだけど』

『それでよくその話をしようと思うな』

『まぁまぁ、これも今後拓磨くんに必要な情報だと思うからさ。とにかく聞いててよ。…で、会長の籍があったかどうかはおいといて、会長が海原組長にお世話になってた事は確かだよ。毎年、海原組長の命日には墓参りに行ってるし』

『ふぅん』

『まぁ、その辺は会長のプライベートにも関わる事だから拓磨くんが興味あるなら直接会長に聞いてみると良い』

『別に…』

日向から向けられたにこやかな笑顔が何となく不快に思えて、自然と答える声が素っ気ないものとなった。
それでも日向は気にせず話を続ける。

『そんなわけで、解散した海原組の跡を継ぐようにうちの組が出来て、地盤も海原組の地盤をそのまま引き継いでいるんだ』

そう話を締め括った日向は次に組内部の事を口にした。

『仕事に関してはまぁ色々とあるんだけど…フロント企業を使った金融だったり、不動産だったり』

『別に仕事内容はどうでもいい。それは俺が聞いてもどうしようもない事だ』

気になる事があった時に聞けば済む。
それに、その世界、知っていて良い時と何も知らない方が良い時もあるはずだ。
俺は元から猛の領分に踏み込む気はない。
知りたいのは個人的な、猛を取り巻く周囲の人間関係の話だ。

『そう?じゃぁ、前に聞いただろうけど、唐澤の奴の話からするか』

唐澤は組事務所の方に居なければ会長と共に出先にいる事が多いな。会長のスケジュール管理やら調整、折衝など秘書みたいな仕事をしているせいだけど。それと…

『俺達幹部の中で言えば、会長と一番付き合いが長いのが唐澤だな』

『そうなのか?』

『あぁ、唐澤の親はさっき説明した海原組の組員で、会長とはその頃からの知り合いらしい。あいつも中々自分の話はしないからこの話を聞き出すのにも苦労したよ』

『………』

『で、上総の奴は唐澤とは逆で裏方にいる事が多いから事務所にいる事の方が多いかな』

事務所にいれば何かあった時、直ぐに対応できるし、駆け付けられる。アイツは一見穏やかに見えるあの顔で裏では色々と、ととっ…いや、内容は割愛させてもらおう。拓磨くんに聞かせるような内容じゃない。

『任された役割で言えば会長からの信頼も厚いし、上総自身も会長に対しては憧憬の念を抱いてる』

ならばあの時、猛に連れられて行った事務所で上総が露骨に俺を警戒したのも頷ける。上総からして見れば俺は氷堂組に入り込んだ不穏分子に過ぎない。

『後は拓磨くんが会ってない奴で、組の財政を管理してる奴と、あの時事務所に居なかった若頭って呼ばれる人間なんだけど』

日向は指折り数えながら言うが、自分の事に関して説明はないのか、仕方なく質問する。

『……アンタは?』

『俺?』

『アンタはどう思ってるんだ』

『あー…俺は別に唐澤達と違って拓磨くんの事は大歓迎だし、会長の事だって当然尊敬してるよ』

『…アンタについてはもう一つ聞きたいことがある。暇人じゃないって言うなら、一応仕事もしてるんだろう』

まだ顔を会わせたこともない奴の話より、こうして関わりを持ってしまった目の前の男の方が情報的価値は上だろう。
一度連れられて行ったラーメン屋では何やら情報を買う様な真似をしていたし、こいつには鴉の掃除現場を写真に撮られている。それを考えればこの男も油断できない人間の一人だ。

うろんな眼差しから鋭さを帯び、警戒した様子の視線を向けられた日向は僅かに視線を反らしてさらっと流すように答えを投げる。

『それはまぁ、あちこちで人に会ったり、馴染みの店に顔出したり、少しばかり雑用とかも。色々と忙しくはあるけど仕事内容としてはたいしたことはしてないかな』

やはり、こいつ、どこがたいしたことじゃないのか。

漠然とした言葉で誤魔化してはいるが、やっていることは十中八九情報収集だろう。あの日の手慣れた様子と、常連という言葉。武道の心得もあるのか俺に向かって駆け寄って来たファイの杉浦を瞬く間に無力化させた腕。無駄に喋る話術もその片鱗なのか。
どうりで鴉の掃除現場に近付いておきながら、鴉の警戒網に引っ掛からなかったわけだ。のらりくらりと…やってくれる。

『納得してくれた?』

深く探られる前に流そうとするこの態度も日向が組内で何の役目を担っているのかを俺に知らせていた。
わざと隙を見せるように外された視線に俺は眉をしかめて断言してやる。

『始めからアンタが胡散臭くて煩い奴だってのは分かってたことだ』

日向は情報の価値を知っている人間であり、情報戦あたりを担っているのかも知れなかった。
先程の猛の話についても本当は知っているのに知らないと答えたのかも知れない。改めて食えない奴だと認識した。

『えー、それはちょっと酷くないか。拓磨くん。俺はこんなに誠実なのに』

『まともな奴がこんな所にいるわけねぇだろ』

『ま、それもそうだ』

話を戻すけど…と、日向は自分に突き刺さる鋭い眼差しを受け流しながら尚も飄々とした態度で話を続けた。





「はっ…、それにしても無駄話も長い奴だったな」

何処其処の店は何が美味しくて、あの店には話の分かるオーナーが居るなど、俺にはどうでも良い話を合間にちょいちょい挟んできては聞き流した。

「これなら唐澤の方がマシだったか…」

ふと呟いて、込み上げて来た欠伸を噛み殺す。ほんの少し眠気を感じて瞼を瞬かせた。

今日一日身体は休めていたつもりだが、まだ休息が足りないのだろうか。
夜になったとはいえまだ二十時前。猛が帰って来るにはまだ時間もありそうだ。

「何時に帰って来るかなんて聞いてねぇけど」

そもそも今日の朝、自分は猛と会話を交わしたのだろうか?自分の事ではあるが、今朝の記憶がいまいち曖昧であった。
昨夜、とっくに日付は変わっていたが。帰宅して、それから猛と話をして…。
朝、いつものように猛が先に起きていて、出掛け際に寝室の入口から何か声をかけられたような気はする。

「何か言ってたような」

確実に分かっているのは何故かタオルケットの代わりの様に俺の身体に猛の上着が掛けられていた事だけだ。それはそれでまた謎であるが。
昨夜も何か猛と話している途中で記憶が途切れていたりする。
俺が気を抜きすぎているのか、それともそれだけ疲れていたということか。後者だと気持ち的にも仕方が無かったのだと落ち着けるのだが。

「…やめよう」

とりとめもなくそう思考して、何かを訴える様にざわざわとざわつきだした胸にその思考を途中で放棄する。
うつらうつらと微睡み始めた頭で考えるには危険な気がした。

「それより、あいつが居ない間に一つ試したい事があったんだ」

眠気で低下した思考はやはり碌な事を考えない。俺は後でそう身を持って体験する事になったが、この時は理性よりも本能に従って身体は動いていた。

今朝の記憶が曖昧なのは夢現だったというのがあるからだ。つまり、俺は猛が側にいなくとも一人で安眠出来ていたという事に他ならない。そして、いつもと違うことで、要因があるとすれば…。

ソファから立ち上がった俺はリビングを出ると迷わずに寝室へと向かい、ベッドの端に置いておいた猛の上着を手に取った。

「これか…?」

言いながらベッドへと上がり、万が一夢に囚われても自力で起きれる様にと、一時間後に鳴る様に目覚まし時計をセットしておく。それから三角巾を外すと仰向けにベッドに転がり、猛の上着を胸に抱いた。

一時間位なら、猛もまだ帰って来ないだろう。試すには調度良い…。
何の確信も無かったが、すぅと微睡んだ思考は自分の都合の良いように働いて、間も無く意識は眠りの世界へと引き込まれるように落ちていった。

それから間も無く玄関扉の開く音がしたが、拓磨が気付くことはなく。
リビングに居ない拓磨を気にかけつつ、着替えに寝室に入った猛に拓磨はその姿を晒すことになった。

「…寝てるのか」

それも拓磨は朝と同じ格好で眠っていた。
拓磨は覚えていなかったが、拓磨は朝方に猛と会話を交わしていた。

「上着は戻しとけと言ったはずだが」

拓磨がタオルケットがわりに掛けている猛の上着は使用用途が違えば当然ながら皺がよってしまっている。
今朝、起きる様子の無い拓磨に猛は一応声を掛けていた。もう少ししたら起きると返事を返した拓磨は側で着替えをしていた猛がベッドに置いた上着をあろうことか掴んで放さなかったのだ。

『離せ、拓磨』

『…いやだ』

『何が嫌だ』

『まだ…良いだろ。もう少し』

腕時計に視線を落とした猛はクローゼットの中から別の上着を出して、袖を通しながらこちらをじっと見てくる拓磨に言葉を投げた。

『今夜は早めに切り上げてくる。今後の事で話しておくこともある』

『ん…』

『良い子で待ってろ』

自然と伸びた手で拓磨の頬に触れ、身を屈めて僅かばかりその吐息を奪った。

『…ん、…猛』

『その上着は元の場所に戻しておけよ』

『あぁ……』

やたらと素直に答えた拓磨に気が付いてはいたが、朝はそれで出掛けてしまった。
拓磨のそんな言動を思い返した猛はすぅすぅと猛が側に立った事にも気付かず眠りの中にいる拓磨の顔を見下ろし、呟く。

「まさかとは思うが、寝てたのかあれは」

当たり前だが拓磨から返事が返ってくることは無い。
ただ、悪夢に魘される様子もなく穏やかな寝顔を見せる拓磨に猛は腕の中でぐしゃぐしゃにされた己の上着へと視線を流して口元に弧を描いた。

「随分と可愛い真似をするじゃねぇか」

今朝は夢現だったかも知れないが、目の前のこれは無意識では無いだろう。

「どうしてやるか」

猛はちらりと枕元に置かれた目覚まし時計に目をやり、静かに寝室を出て行く。見たところアラームがセットされているようだし、拓磨も完全に寝ようとは思っていないようだ。
ならば、拓磨が起きた時にゆっくりと話が出来るよう猛は先にバスルームへと向かった。






「ぅ…ん…」

ピピッ、ピピッと枕元で鳴り出した電子音に意識が浮上してくる。
もう一時間経ったのかと、短い時間ではあったが、夢も見ずにぐっすりと眠れたお陰か割と頭はすっきりとしていた。
うるさく鳴る目覚まし時計を止めて、のそのそとベッドの上で上体を起こす。
その拍子にぱさりと身体の上から落ちた上着に一瞬だけ動きを止めて、それから無言で上着を拾い上げた。

これも一種の心理療法とかになるのか?

それともこの上着の持ち主が猛だと認識しているから、本人がいなくても思い込みで心が安心して安眠効果が得られているのだろうか。だとしたら一定の効果はあったと見るべきか。
しかし、現実問題、何で俺が持っていたのかは不明だが、この上着は本人に返さねばならないだろう。金額的に幾らするのか分からないが、高そうな上着に皺を付けてしまっていた。

「…これはさすがに怒られるか」

「ーーほぅ、自覚はあるのか」

「っ!?…ぇ、猛?」

不意に投げられた声に肩が跳ねる。慌てて上着から上げた顔を寝室の扉に向ければ、そこには着替えも済ませた猛が悠然とした態度で立っていた。

「なんで。いつ帰って…」

その様子を見るに猛が帰ってきてからそれなりの時間が経っている事を俺に知らせていた。

「今夜は早く帰って来ると朝に言ったろう。お前は覚えてねぇようだが」

そう言って微かに口端を緩めた猛は寝室へと足を踏み入れ、間にあった距離を縮めるように俺の座るベッドの脇で足を止めた。

「その代わり、良いものが見れた。その上着はお前にやる。好きに使え」

猛から怒られる事は無かったが、徐々に冷静さを取り戻した頭が、心から込み上げてきた羞恥心がじわじわと身体の体温を上げていく。
まさか、見られていたとは。いくら眠かったからとはいえ、失態だ。恥だ。
かぁっと頬に集まる熱に、押し黙った俺に向かって猛の手が伸ばされる。

「今朝は時間も無くて応えてやれなかったからな。今なら時間はたっぷりあるぜ」

「なにを……俺が覚えてねぇのを良いことに適当な事を言ってるんじゃないのか」

顔を赤く染めながらも猛を見返せば、意外な事にその眼差しの中にからかいの色は見当たらず、逆に俺の方が動揺を隠せなかった。

「こんなことで嘘を吐いて何になる?」

猛の手が熱くなった左頬に触れてくる。
そっと触れてきた指先が耳朶を擽り、身を屈めて距離を詰めてきた猛の瞳が細められる。

「否定したいなら自分の行動を考えろ」

「…っ」

その目的はまったく違うが、猛の上着を手にしている時点で何を言おうとも俺の言葉に説得力が無いのは事実で。猛はそれを分かった上で追い撃ちをかける様に言う。

「ねだってきたのはお前の方だ」

「そっ、れは、ーー認めても良い」

だが、覚えていない事にまで責任は持てない。
触れるか触れないか猛の熱を感じる寸前、言葉を滑り込ませて制止すれば、至近距離で絡まった視線が面白そうに先を促す。

「それに、それは朝の話だろ。今はそんな気分じゃ…」

「違うとでも?人の服を握り締めて寝てたのはどこのどいつだ」

「…!…これにはちゃんとした理由がある」

「まぁお前の考えそうな事はだいたい分かるが、それとこれは別だ」

拓磨と心の奥底を見透かす様に向けられた眼差しに言葉が続かず、実力行使で唇を塞がれる。

「まっ…ッ…」

頬に添えられた手が逃げることを許さず、咄嗟に付き離そうと持ち上げた左腕は猛の右手に掴まれる。
重なりあった唇から伝わる熱に肩が震え、強引に唇を割り入ってきた舌が逃げようとした舌ごと言葉を奪っていく。

「んッ…ぅ…た……る…!」

歯列をなぞられ、口腔を愛撫をされる。自分とは違う温度を持った生き物が我が物顔で口内で蠢き、触れ合った舌先から痺れる様な妙な感覚を性急に引き摺り出される。

「ンんっ…ふっ…ぁ…」

口内に溜まった唾液がぴちゃりと水音を立て、絡まる舌が二人の繋がりを深めていく。空気を求めて呼吸をすれば甘く鼻から抜ける様な吐息が零れ、飲み込み切れなかった唾液が口端を伝い落ちる。

「…ン…っ…ふ…ッ」

それでも何とかぎこちなくギプスを嵌めた右腕を動かし、猛のシャツを掴めば、ほんの少し猛の意識を反らすことに成功したのか理性をぐずぐずに溶かされる前にゆっくりと唇が離された。

「ぅン、ぁ…は…っ……ふっ…」

じわりと腰元から発生した甘い疼きに、吐息と共に上擦った声が零れ、羞恥で顔が熱くなる。上がった体温と一緒にその疼きを冷ます様にゆっくりと呼吸を繰り返せば、その間に俺から外された視線がシャツを掴んだ右腕へと注がれ、戻ってくる。

「右手は使えるのか?」

「は……、なるべく、動かせって。三輪が」

「そうか。なら、これ以上長引いても面白くはねぇな」

唐突な質問に僅かに間を開けつつ答えれば猛は独り言を溢すように言い、頬から手が離される。猛の視線は俺の胸元にも流れ、こっちの方はと訊かれる。

「もうすぐ包帯だけで大丈夫らしい」

「なるほど」

俺の左腕からも手を放して、あっさりと身を退いた猛に戸惑いつつ、俺はつられる様に視線を上げて猛の行動を目で追った。

「猛…?」

「なんだ?足りなかったか?」

己の唇に触れて、その感触を思い出させるように口端を吊り上げて笑った猛にかっと頬が熱くなる。

「誰がっ、そんな」

「お前が俺の背中に爪を立てられる様になったら続きを楽しませてもらう」

「な…っ、」

「それも含めて今後の事で話がある。落ち着いたらリビングに来い」

一方的に話を進められたかと思えば、猛は言葉通り踵を返して寝室を出て行ってしまう。
俺はその背を呆然と見つめて、熱くなった頭や頬を冷やすべく、とりあえず行動しようとベッドから足を下ろした。寝るのに外していた三角巾も首に掛け直して右腕を通す。

ベッドから下りて、振り返ったシーツの上に落ちた猛の上着を見つめること数秒。

「…くれるって言うなら貰っといてやる」

俺は寝室の扉を一度振り返ってから、その上着を自分の服がしまってあるクローゼットの中に放り込んだ。
そして、少し冷えてきた頭で猛の言動を思い返して呟く。

「怪我を早く治せってことか」



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