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室内を支配する、耳に痛いぐらいの静寂を拓磨の冷ややかな声が破る。

「こちらが指定する人間を1人、護衛無しで、指定の場所に向かわせろ」

「…何をするつもりだ?」

引田でも浅野でもない、指定する人間と言われ、緒形は警戒心も露に拓磨に聞き返す。

「何を、とは…おかしなことを聞くな。この一連の騒ぎの責任をその人間にとってもらうんだよ」

さも当然と言う様に淡々と告げた拓磨に、緒形は一度考え込む様に間を開けてから、恐ろしい事でも聞くように重くなった口を開けた。

「その指名する人間と言うのは…」

「分かってるだろう?この一連の騒ぎの黒幕は引田、実行犯は浅野だが、元凶は熊井組の息子。熊井 昭博(あきひろ)だ。そいつを差し出せ」

熊井組は今、後継者問題で内部は真っ二つに割れている。熊井組の実子、熊井 昭博を支持する若い組員と若頭である緒形 勇仁を支持する古参の組員。

「アンタにとっても悪い話じゃないはずだ」

緒形を助けるわけではないが、拓磨はしれっと言葉を吐く。
その様子に緒形は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「こちらの内情は把握済みというわけか」

「うちの情報部隊は優秀なんだ」

「なっ、そんなこと出来るわけがないだろう!」

「そりゃ悪くはねぇ話だが、若頭に…組を裏切れというのか」

「黙って聞いてりゃ餓鬼が調子に乗りやがって」

緒形が返事を返す前に、緒形の背後に控えていた男以外の組員達がいきり立つ。拓磨にこの場を支配された瞬間から生意気な若造がと、それと同時に自分達が拓磨の存在に気圧された事も認め難くて口々に不満を露にした。

「止めろ、てめぇら!」

しかし、それも緒形の一喝でピタリと止む。組員達の不服そうな視線を受け流しながら緒形は話を再開させる。

「そいつを差し出したらどうなる?」

「少なくとも今夜の警察の介入は回避出来るな」

案に保険として今夜、熊井組の事務所や倉庫街に待機させている鴉の部隊を退くと仄めかせば、緒形は更に問いを重ねて来た。

「それだけでは足りないというのか。…ならば、完全に鴉が手を引く条件は?」

手打ちにしてくれる、本命は何だと真意を問うてくる真剣な眼差しに、拓磨も眼鏡越しに鋭く研ぎ澄まされた硬質な眼差しを返す。

「一度、見逃すことだ」

何を、と意味を図りかねている緒形に拓磨は続きを告げる。

「熊井組の息子に対する鴉の制裁行為を見逃す事だ。それが条件だ」

熊井 昭博を差し出し、その後は見て見ぬ振りをしろ。決して、鴉に報復しようと考えるな。それが愚かにも鴉に手を出した、熊井組が生き残る為の方法だ。

「…これも自業自得というやつか」

「若頭!本気でその条件を呑む気なんですか!?」

「それではこちらもただではすまん。大体、オヤジが認めるはずが…」

騒がしい外野の抗議の声に拓磨は眉を顰め、その渦中へ言葉を投げ入れる。

「俺達は別にどちらでも構わないんだぜ」

このまま熊井組に警察を踏み込ませても鴉の腹は痛まない。いくら鴉の関与を疑われても、立証は難しいだろう。物証となるような物は先に鴉が押さえているし、関連を疑われる者達は早々に処理した。実際窮地に立たされているのは熊井組だけなのだ。鴉はただ始末を付けに来たに過ぎない。

「俺はオヤジからこの件について全権を任されてきた」

そう言って再び周りを鎮めた緒形は覚悟を決めた顔で拓磨と視線を合わせる。

「熊井組存続の為だ、そちらの条件を全て呑む」

「引田と浅野の処理もだ」

「分かった。しかし、浅野の身柄は…」

「引田の処理と熊井 昭博の件が片付き次第引き渡す。それまでは約定がきちんと履行されるか、鴉から監視を付けさせてもらう。もし約束を違えば、この一連の現物証拠と一緒に熊井組へ警察を差し向けるからな。覚えておけ」

「肝に銘じておこう」

今夜の会談は密かに鴉側で録音録画されているが口約束だけでは信用できないので急遽書面に起こして取り決めを記すことにした。ビジネスで使われるホテルだけあって、必要なものは直ぐに揃えられた。

「随分と用心深いんだな」

「信用も何もない初対面の相手と約束を交わすんだ、当然の処置だろ」

約束が履行された暁にはこの書面は責任を持って速やかに破棄すること。

右腕の怪我を理由に同じ書面を2通緒形側に作成させ、その内容に不備がないか拓磨も目を通す。背後に控える大和にもおかしな点がないか確認するように言って紙を手渡す。

「…問題ない」

「そうか」

戻された紙の最後にそれぞれ署名と捺印をする。

「右手は使えないのではないのか?」

「使えないとは言ってねぇな。ただ、負担をかけたくないだけだ」

最後に自筆で署名を書いた拓磨に緒形から訝し気な声がかけられたが、拓磨は涼しい顔をしたままギプスで固定された腕を持ち上げた。
右手の親指の腹を朱肉に押し付け、署名のすぐ横に母印を押す。

同じようにして緒形も2通の書面に自筆で署名捺印を済ませる。
1通を緒形が、もう1通を拓磨が、それぞれ約束が履行されるまで保管することになる。
拓磨は折り畳んだ契約書を大和へと預け、椅子から立ち上がる。

「俺達がこのホテルを出て五分経ったら、熊井組に張り付いてる鴉の部隊を退かせる」

「うむ」

「それから、熊井 昭博を呼び出す場所と日時だが、今夜使った番号に連絡を入れる。いつでも取れるようにしておけ。浅野の引き渡しについても方法はこちらから連絡する」

話はこれで終わりだと言う様に拓磨は緒形に背を向ける。
そして、緒形もそんな拓磨の背に声を掛ける事も無く、扉の傍に立っていた大柄な男が無言で扉を開けた。

扉の外に待機していた柄シャツの男が道を開けるように横へと一歩移動する。

「お疲れ様でした」

掛けられた声を右から左に聞き流し拓磨は廊下へと出る。その後に続いた大和も無言で足を進め、柄シャツの男とすれ違う時、男へと鋭い視線を向けた。

後頭部に流すように撫でつけられた黒髪。狐を連想させるような細面に、糸の様に細い目。二十代半ばで、柄シャツの上からでも見て取れる無駄のない引き締まった筋肉。その辺はしなやかな猫を連想させる、ちぐはぐな存在。大和の中で何かが引っかかる。心の中に生じた小さな違和感に大和は微かに眉を顰めた。頭の中にこの男の存在を書き留め、視線を外す。
大和は言葉に言い表せない第六感ともいうべきこの感覚を捨て置くことなく大事にしていた。



やがて、拓磨と大和の姿がエレベータホールへと消えてから柄シャツの男はポケットから無線機を取り出した。

「鴉のお客人のお帰りだ」

ビジネスホテル内の各所へと配置されていた組員へと連絡を入れる。

「ん?地下の奴と連絡がつかないな。…退路確保の為に倒されたか?ま、どっちでもいいか」

連絡を回し終わった柄シャツの男は緒形が留まる部屋へと断りを入れて入室する。
緒形は拓磨が約束した五分をその場に留まって待つつもりらしく、組員に飲み物を用意させていた。

「これで良かったのか」

緒形へと、鴉の総長との会談を進言してきた柄シャツの男に、緒形が疲れを隠さない顔で呟いた。

「はい。鴉の総長は警察よりかは話が通じる相手だったでしょう?」

「あぁ…しかし、痛い所を突かれた」

「それは仕方がないのでは?」

「お前はこうなると分かっていたのか?」

「いいえ。でも、先代が後継にと考えていた人間なので当然と言えば当然の結果なのかも知れません」

「お前はどちら側の人間なんだ」

「もちろん、今は若頭です」

(が…、当代の鴉の総長に関しては一つだけ破れない約束がある。図らずも遺言という形になってしまった彼との約束が)

心の中で続けられた言葉に気付いたわけではないだろうが、緒形は柄シャツの男が垣間見せた寂寥感漂う顔を見て溜め息を一つ落とすと、今後の動きについて指示する為に頭を切り替えた。

「鴉が引き次第、俺はオヤジの所へ向かう。その間にお前達は引田の身柄と熊井 昭博の身柄を押さえておけ」

緒形の指示に組員達は顔に迷いを浮かべながらも頷き返す。

「オヤジには俺から説明しておく。それでなくともオヤジはこの件で相当頭にきていたからな。大丈夫だろう」

熊井組の組長は今時珍しいかもしれない、昔気質の人間で仁義を重んじる性格だ。その人が息子とはいえ、堅気の人間に手を出し、あまつさえ御法度とされる薬にまで手を出していたのだ。処分は免れないだろう。良くて破門か、悪くて絶縁だ。

 





一方、誰にも阻まれることなくビジネスホテルを後にした拓磨達も次の指示を車内から飛ばしていた。

「浅野の身柄は小田桐に預けて、お前達はいつも通りその場で派手に遊べ。近くで警察が見張っていると思うが連中は無視していい」

重要なのはいつも通りに過ごしていることだ。

「事務所側も撤収を開始しろ。物を小田桐に渡した後は、国道辺りを流して自由に遊べ」

各所で待機させていたチームに大和が携帯電話で連絡を入れているのを横目に拓磨は掛けていた眼鏡を外し、専用の無線機器で小田桐と話し合う。

『一度合流するか?』

「いや、今夜はしない。それよりも会談の様子は録れたか?」

『問題ねぇ』

「なら、次だ。明日までに熊井 昭博の顔を調べておいてくれ。名前だけじゃ本人か判別がつかねぇ」

『そう言うだろうと思ってもう調べに行かせてる。他には?』

「向こうも早めにこの件を片付けたいだろうから、引田の処分が確認でき次第、息子を連れて来させろ。場所は人目に付きにくい、熊井組のシマの中だ」

『そりゃまたエグイ選択だな』

くつくつと無線機の向こう側で小田桐が愉快そうな声を出して笑う。

『自分のシマの中で助けは無しか。実行部隊は決まってんのか?』

「その辺は大和に選定してもらうつもりだ」

鴉による制裁。やりすぎてもいけないが、軽すぎても駄目だ。その匙加減が分かるチームを選抜してもらう。通話を終えていた大和は拓磨の話す内容から話の流れを掴んだのか静かに一度頷き返す。

『なるほど。で、重要なのはその後なんだろう?』

何の為に制裁を見逃す約束などしたのか。もちろん、泥沼の報復合戦を避ける意味合いもあるのだろうが、小田桐と大和が知っている後藤 拓磨はそんな甘い男ではない。三人の人間の処分だけで済ますというのは、被った被害と比べると全然釣り合わない。
車の運転に集中しながらも後部座席の会話を耳にしていた花菱はルームミラーでちらりと車中の様子を窺って、そこに映った表情にびくりと肩を震わせた。

「浅野の処分も終わって全てが片付いたらお前達の出番だ、小田桐。【熊井組は無謀にも鴉に手を出し、返り討ちにあった。その際、熊井 昭博が重傷を負ったが、熊井組は鴉の報復を恐れて敵討ちも出来ない。情けない組だ】と、西の界隈でそれとなく囁いてやれ」

『へぇ、熊井組の名を地に落として、鴉の名声を上げるわけか。鴉に近づいてくる馬鹿な連中への牽制にもなって一石二鳥だな』

「そういうことだ」

ヤクザの世界で信用が落ちるのは直接拳を交わすより、ダメージが大きいはずだ。それも熊井組組長の実子を痛め付けられても動かない組員など信用に値するだろうか?

小田桐の見解に肯定の言葉を返した拓磨はふぅと細く息を吐き出す。
その姿を見咎め、大和は微かに眉を顰めた。

「拓磨。後は俺と小田桐で片付けるからお前はもう休め」

ちょうど車は周防を置いていった辺りに近付いていた。帰りのルートは尾行などを警戒して此処まで別の道を走ってきたが、花菱は何も言われずとも途中から周防を拾う為に進路を元来た道に戻していた。
その際、後をつけてきている車など不審なものはないか確認済みである。

「大和」

「お前の出番はここで終わりだ。詳細は逐一小田桐にメールさせる」

『おい!俺かよ!』

無線機から拾った大和の台詞に小田桐が声を上げたが、大和は綺麗に無視をして拓磨が頷くのを待った。

「総長。彼を乗せますか?」

運転席から声を掛けつつ花菱は車を減速させる。
その問い掛けに周防の存在を思い出した拓磨は、次に大和の顔を見て、再び息を吐くと座席に深く身を凭れ掛けさせた。

「話は終わった。乗せてやれ」

「はい」

車がウインカーを出して路肩に停車する。助手席の窓を開けた花菱が、佇んでいた周防に車に乗るように話し掛ける。周防は一瞬、開いた窓から後部座席に凭れる拓磨に視線を向け、何かを言いあぐねて結局何も口にせず助手席に乗り込んだ。



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